対話というギブアンドテイクの模索
ご自身で自分のことをアスペルガーであると理解され、そこからそれまでお互いに傷つけあってきた定型のパートナーとのコミュニケーションを、どう調整していったらいいかを模索されていらっしゃるという繭さんが、このブログを見つけてくださって、コメントを頂けるようになりました。joさんも悩んでいらっしゃったように、定型が男性、アスペが女性のカップルは少ない(rosamondeさんはそのような男性の立場をダブルマイノリティーと表現されています)、ということもありますし、さらに定型の側からではなく、アスペルガーという立場から、定型とアスペのコミュニケーションをどう工夫していけるのか、という問題を一緒に考えてくださる方が少しでもこの場にも加わってくださると言うことは、ほんとに願ってもないことと言う気がします。
社会的に言えば、アスペルガーの人は少数派で、そのコミュニケーションスタイルはやはりその中で「異端」扱いされます。私を含め、定型のコミュニケーションスタイルしか知らずに、それを当然と考えて生きてきた人間からすると、昨日ほんの一部(でも長々と(^ ^;)ゞ)ご紹介させていただいたように、アスペルガーの人のコミュニケーションスタイルは時にとてもショッキングなものであるわけです。だから多くの場合、結局多数派からだんだん排除され、隅に追いやられていくことにもなる。
そういう「弱い立場」のアスペルガーの人に対して、定型は「障がい者」という枠組みの中で理解し、定型的な善意の中でその人たちを社会的に「サポート」しなければならない、というふうに考えるようになる。私も昨日の記事では何度もその言葉を使いましたけど (^ ^;)ゞ 。そして医療関係者は「アスペルガー」という「障がい」を一生懸命定義しようとする。そのときの定義はもちろん定型の視点から、定型のコミュニケーションを<正解>として、そこから外れる部分を整理して作るものです。そんなふうに「定型の視点」から定義され、そして「定型の視点」からサポートされる。
そんな状況は、例えば繭さんのコメントの一つにもこんな風に書かれています。「アスペルガーについての情報は書籍等で手に入っても、定型の人の心の模様の成り立ちを知る術はなかなか見つかりません。定型の方にとっては当たり前過ぎて、語られることは少ないのでしょう。」問題を抱えた対象として語られるのは常に、圧倒的に少数派の方であるアスペルガーの人であって、多数派の定型ではない。
つまり、排除にせよ、サポートにせよ、結局の所「定型の視点」からそれが行われるようになる、ということ自体はある意味で同じなわけですね。いや、もちろん排除よりサポートがより正しいのは間違いないと、私は思っています。ただ、私個人はその先に出来るならば足を踏み出していきたいと思うわけです。つまり何らかの意味で、対等なパートナーとしての関係を作り上げると言うこと。それがこれまでギブアンドテイクという言葉で表現してきたことの別の言い方にもなります。
もちろん、それがどんなに難しいことであるか、といことは、たとえばjoさんの痛みに満ちたコメントひとつだけを読ませていただいても明らかでしょう。定型だってみんな悪意に満ちているわけではないですから、出来る限り頑張って関係を良くしようとする。でもどんなに頑張っても、どうしようもない無力感にうちひしがれるような状況がたくさんあり、それでも頑張り続ける人は結局自分を鬱にまで追い込んでいくことになるし、命を失う方だってあるわけです。
しかもアスペルガーの方達が悪の軍団なのか、と言えば、個人的なレベルでは悪い人もいるでしょうけれど、それは定型だって同じで、決してアスペルガーだから悪意で定型を傷つけようとしているのではない。再び繭さんの言葉です。「私は人を傷付けたくはありませんし、傷付けられたくもありません。もし、相手を知ることでその両方が回避できるのであれば、その方法を知りたいと思っています。」昨日の記事では私がパートナーの言動にどう傷ついたかの例を書きましたけれど、そのパートナーも、アスペルガーという自分の特性を理解し、自分の意に反して私が傷ついていたことを知ったとき、そのことでほんとに大きな衝撃を受けていました。
悪意があるのなら、ある意味簡単です。スーパーマンなどハリウッド映画のお定まりパターンで、正義の味方に来てもらって、悪者を退治したら良いんですから。でもそんな簡単な問題では決してない。だからこそ、joさんもものすごく傷つきながら、「悪者退治」ですませられずにさらに苦悩を深められていくことになるのだと思います。「奈落の底に落ちていく」と書かれていましたよね。
そういう状況の中で、私が願っているのが、定型の視点だけでなく、アスペの視点だけでなく、そのお互いの視点をやりとりすることで、なにかお互いの特性を前提にした上での、新しい関係を模索していくことです。私はそれを「対話」と呼びたい気がしているんですけれど。もちろんここでいう「対話」というのは、「なんでも話し合ってなかよくしましょうね。けんかはいけませんよ」というようなお気楽なものではありません。どうやってお互いに理解したらいいのかわからない、話し合えばお互いに傷ついてばかりいる、そういう状況の中でなお向き合って理解し合おうとする、そんなある種の覚悟が必要な言葉だと思います。
そういう対等の「対話」(これもギブアンドテイクの一つの形でしょう)が成り立つこと自体、ほんとに難しいわけですよね。沢山の方が述べられているように、とくにアスペと定型の間では。すべてのカップルでそれを今成り立たせるなどということは夢の又夢と言っても良いと私は思います。すべてのカップルでそれを追求するのはあまりに非現実的だし、そんなことを要求された人はたまったものではないと思います。だからこそ、たとえば繭さんのように、自ら対話的な姿勢で臨んでくださる方の参加は、とても貴重なものに思えるし、ほんとに嬉しく思えるのです。
繭さんは昨日こんなコメントを書いてくださいました。
「私には自分のことしか分かりませんが、それがパンダさんとパートナーさんや他の方達のお役に立てるのなら、それはとても嬉しいことです。……定型か否かを問わず、他人が分かるとその分だけ自分を見つけることが出来るように思います。そういう意味でも、お互いに理解しあえるということは素敵なことと思えるようになりたいですね。」
「自分の言動が相手の役に立つのが嬉しい」、というのは、定型語で「翻訳」すれば「共感的な関係」そのものだという気がします。「相手を知ることで自分を知る事が出来る」、というのも定型語で「翻訳」すれば「お互いを理解する」ということだと思います。「人を傷つけたくはありませんし、傷つけられたくもありません」、というのは、これも定型語で「翻訳」すれば「思いやりの関係」でしょう。
もちろん「翻訳」には誤訳がつきものですし、またそうでなくても微妙なニュアンスのズレが伴うのはもう避けようがありません。でも、そういう誤訳やニュアンスのズレをも少しずつ調整しながら、対話的な関係を一歩ずつ、それが可能な人との間で深め、さらにはその周辺の方達に広げていく。どこまでできるのかは全然わかりませんけれど、世の中にそういう試みはあってもいいのではないでしょうか。それはこれまでの「排除する・される」関係とはもちろん正反対のものだし、「サポートする・される」というある種の上下関係を前提にしたものとも違う、新しい、何らかの意味での対等なギブアンドテイクの模索になるような気がしています。
(ただ、こういう発想パターンそのものが、定型(の一部?)に特徴的で、アスペルガーの人にとってあまり意味がない可能性もあるわけですけれど。その辺も手探りですね。)
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コメント
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>そういう「弱い立場」のアスペルガーの人に対して、定型は「障がい者」という枠組みの中で理解し、定型的な善意の中でその人たちを社会的に「サポート」しなければならない、というふうに考えるようになる。
3年前に、私が一歩進みもし失敗もしたのが、この点・この考え方においてでした。「俺は困っていないし、サポートされる必要もない!」と、夫に言わせてしまって。
それからまた長いこと考えて、「あなたがASだとわかれば、対応の仕方を考えたり、私の考え方を変えて行ける思うから、ASなのかどうかを知りたい」という言い方に変えたことを今思い出しました。そして「それぞれの感覚や考え方をお互いに知れば、外国語や異文化を学ぶようにして、お互いのことを理解していけると思う」と。
夫がASを自覚するようになるまでには、結局その後1年かかったのですが、それからは、お互いの感覚・考え方を伝え合うことを、それこそ異文化交流と同じような感じで進めることができてきています(現在完了進行形・・・これまでも続けているし、今からも続くであろう)。
もちろん、お互いの感覚がそのままわかるわけではないので、途中はひどく落ち込んだり喧嘩になったりもしてきたわけですが、
これは、一方的なサポートではなく、相互サポートでした。
最近よく思うことですが(理想論かもしれませんが)、AS障害の「障害」の部分は、なくしてしまってもいいんですよね。他の障害にしても、そうかもしれませんが、人との関わりの中で、困ったことが起こるから「害」なのであって、その人そのものは「害」でもなんでもない、
ただの、ある特徴を持って生まれてきた・・・それだけのことだと思います。
(私の住んでいる地域では、まだ「障害」という文字を使っていること、そして、多数派と少数派の間で「害」が生じているということで、私は、まだあえて「害」を使っています。)
なので、極端な話、「私は○○出身」「私は△△出身」というのと同じように、「私はAS」「私は非AS」などと自己紹介しあい、それぞれの感覚・考え方・言語を教えあい学びあえたら・・・と私は思っています。(最初はASとか非ASとかがわからないから、苦労するんですけど)
ただ、私はそう思うし、夫との間ではそれができてきているのですが、社会に対してそれを今ポンと提案できるかというと、まだまだ社会は、その段階にまで来ていないなぁ、と。
その社会に対して、私は何をできるのか、夫と私が何を提案していけるのか、
我が家のことを、どこまで社会にさらけ出す勇気があるのか、
我が家のことを、子どもたちも了解のうえでどこまで発信していけるのか、
日常生活を送りながら、そんなことを考える日々です。
朝からついマジメに・・・(^^.)
ではでは、家事・仕事・遊びに出かけます。行ってきま~す!
投稿: カレン | 2011年1月29日 (土) 09時22分
こんにちはカレンの夫です。今日のブログも興味深く拝読いたしました。
今思い出せることや印象に残ることをいくつか書いてみようと思います。
1 「思いやり」という言葉(概念)について
ごく「普通」にというか、垂れ流しのように流通しているこの言葉(概念)が非常に気持ち悪いものだと感じています。
私の感覚では、世間でいうところの「思いやり」というのは「無償の愛」というのに一番近くて、そう簡単にできるものではありません。私の知る限りでは、それが実践できている(=自他ともに認めるのが許される)のは、マザー・テレサぐらいだろうと思います。間違いなくマザー・テレサは「自認」なさらないでしょうけれど。となれば、この世には一人もいないことになってしまって、根本からこの定義は成り立たないのですが。
周囲の人間が、特に妻やその親族が私に対して、「あなたには『思いやりがない』」などと言おうものなら、「そんなことを面と向かって他人に言う人間には『思いやり』はあるんですか?」と白けた気分になったり、強い怒りを覚えたり、徹底的に戦って論破してやろうと決意し実行したりするわけです。
妻をはじめとする定型の人たちの言う「思いやり」を「その人の喜ぶことをしてあげる」ということに「翻訳」して、意図して実行するようにすると相手の反応が変わり、関係がスムーズになりました。
ありのままの自分は、「人が喜ぶことをしてあげるのは究極のところ打算であり、人のために何かしているという風に周囲に思われるのはみっともない」という発想を現時点でも持っています。それでも、そのありのままを少し抑えて行動すると、「うまく行く」ということを学んでいるところです。
投稿: カレンの夫 | 2011年1月29日 (土) 13時38分
今、仕事から帰って来ました!
上の夫のコメントは、まだお互いにASのことを全く知らなかった3年前、「思いやりについて」というタイトルで夫から渡された書面にも書かれていた内容です。
その時には、「無償の愛???」「究極の打算???」「みっともない???」と、すべてが全く理解できず、正直に言うと、唖然・呆然としたのですが、ASのことを知っている今では「まあ、夫の感覚ではそうなんだろうなぁ・・・(^^;)」という感じです。
「思いやり」を巡って、当時どれほど不毛の議論になったかは想像していただけると思うので省略しますが、書面で初めて「夫の感覚での『思いやり』」について知ったことは、「ASなのでは?」と思い始めるひとつのきっかけとなりました。
なので、徹底的に「戦った」ことで謎が出てくる→その謎を解くためにあれこれ奮闘する→
情報収集のアンテナができる→ヒントを見つける→ヒントを助けに「向かい合いに行く」→
謎が解ける部分もあれば、また「戦い」になる部分もある→さらに次の謎が・・・
という感じで、"今、振り返ってみれば"、長い長い道のりを「ひとりひとりだけど一緒に」やってきたみたいです。
今でも、正直、夫の言う「究極の打算」とか「みっともない」は、よくわかりませんが、私としては、これは、夫が昔よく言っていた「得意の照れよ、照れ(*^^*)」みたいな感じに解釈しています。
ま、して欲しいことをハッキリ言えば、そこはとてもよく動いてくれるので、助かるし感謝もしています。そして、「相手が(私に限らず)して欲しいことが具体的にわかれば、それに対して応える」=「相手に対しての、夫の愛情表現」なのだと解釈しています。
(ついでながら、私は、夫とのことを通して、他人に対しても自分の気持ちをハッキリ伝えることができるようになったおかげで、自分自身がとっても楽になりました。)
ただ、こうして考えてみると、まだ言葉が出ない時代の子どもたちの扱いは、夫は本当に、どうしていいかわからなかったんでしょうね~。子どもたちが小さいうちに、夫と私がそれぞれにASと非ASの違いを知っていて、今のように「翻訳・解釈」ができていれば、もっといろんなことがスムーズに行ったかもしれません。
ま、過去には戻れないし、後悔するよりは、反省を今後に生かすのみ・・・です。
ではでは、夜の家事は夫にまかせて、今から私は遊びに行ってきます(^^)v
投稿: カレン | 2011年1月29日 (土) 17時30分
遊び人のカレンさん、そしてカレンの夫さん
お二人の語らいに横入りしてもよろしいでしょうか?(あ、これ、定型語の冗談です……)
「思いやり」という言葉ではものすごくずれてしまうようですが、「相手のために何かをする」という言い方だと共有できるわけでしょうか。
異文化の人同士の衝突も、「相手のため」という姿勢のところでは一緒なのに、では何が相手のためになるのか、ということの理解がお互いに全然違っていて、そこに誤解が生じて対立してしまう、ということがよくあるように感じます。
アスペと定型の間のコミュニケーションでは「相手を(意図せず)傷つける」というところに注目が行きやすいように思いますけれど、ある意味ではそれぞれが「相手にどう気を遣うのか」「相手のためにどうすることがいいと理解しているのか」ということを理解していくことに、それ以上の価値があるかも知れないと思いました。
投稿: パンダ | 2011年1月29日 (土) 22時49分
久しぶりの書き込みです。
先々週の水曜日から先週の水曜日まで、自閉さんのお仕事関連が続いていて、お仕事関連が終わったかと思ったら疲労を起こして倒れてしまいました。※私の特性として、自分が疲れたことに気がつきにくく、熱を出したり頭痛を起こしたり、激しい疲労を感じて動けなくなったり、人に攻撃的になったりすると言う症状がでます。
今回の記事を読んで思ったのが、私には(会話を含む)対話のギブ・アンド・テイクにはものすごいハンディ(バリア(壁)とも言うし、あるいはハードルとも言う)があると言うことですわ。
私の場合、会話するにも今でも人の助けがいると言うことです。対話と言うこととなるとあまり習っていない高度な芸を素早くお披露目するくらいの難しさを抱えています。→要するにウルトラE難度をもつ難しさと言う意味です。
いまだに『究極の打算?』を出せないし、『みっともない?』と言う概念のつかみがわからないのです。わかりやすく言うと、時速160キロのストレートしか投げられない野球のピッチャーです。定型さんなどはストレート以外にも、スライダー、シンカー、フォークを使い分けて投げたり、スピードも(95キロから150キロまで幅広く)緩急つけて投げたりしますが、私には到底できない芸当です。
最近、セミナーや講演会などでお話ししているのが、『肝心なことや言葉は端折らないで欲しいこと』です。
一見言葉が流ちょうで(帝国大学や東京6大学に入って卒業する)能力が高いから、普段でもスーパーマンなみにオールラウンド・プレーヤーだと思ったら、私たち発達障害者は何でもできる人と言うイリュージョン(幻)にお互い苦しむことになります。
自閉さん語文化のネイティブ・スピーカーは、あうんの呼吸も1つの外国語の文化としてみている部分があるなぁと。
詳しいことは自分のブログにでも書きます。
対話でも、会話でもドラえもんの翻訳コンニャクが欲しいと言っても、貴女には必要ありませんと言われたことが何度かありました。ウルトラE難度だから翻訳コンニャクみたいのがあったらいいなと声を出していっても逆に怒られてしまって落ち込んだことがありました。
外国の方が読むような『日本文化ガイド』や源氏物語などの古典や外国語を勉強して(正確と言うとかじった方がいいのかもしれない)、外国語の1つとしてあうんの呼吸や空気を読むをサバイバル知識として学んだことがありました。
生きていく(生活の)ために、自分の母国語文化滞在よりは定型さん語文化を一生懸命勉強していることを定型さん側は知って欲しいと思います。かと言うても、自閉さんも定型さん文化のことを知っていたら自分が楽になれる部分もあるし、その方がお得なこと(いいファクター)になって自分の株が上がるよ~(この場合の株は相手に対して『あなたのことをわかっていますよ、見ていますよ』といういい印象を持ってもらえること、わかっているだけで相手の精神的な安定にもつながって自分も安定すること)と言うことじゃないのかしらね。
難しいことばかり書いてすみません。
投稿: Rosamonde | 2011年1月30日 (日) 14時31分
パンダさん、
横入り・縦入り・斜め入り、なんでもどうぞ(笑)
Rosamondoさん
>生きていく(生活の)ために、自分の母国語文化滞在よりは定型さん語文化を一生懸命勉強していることを定型さん側は知って欲しいと思います。かと言うても、自閉さんも定型さん文化のことを知っていたら自分が楽になれる部分もあるし
おっしゃっること、とてもよくわかります。
私は、聴覚障害のある方々とのつき合いも長いのですが、20数年前に、Rosamondoさんがここでおっしゃっているのと同じことを、聴覚障害のある女の子から言われました。
「私たちは口話をずっと一生懸命練習しています。健聴の人には、そのことを知って欲しいし、できるだけ手話を知って欲しいと思います」と。
「生きていく(生活の)ために」というRosamondoさんの言葉が、私の心にすごく響いてきて、あらためて初心に戻ったような気がします。ありがとうございます!今、接している発達障害のある方々とのコミュケーションを図る上でも、このお言葉を胸に刻みますね。
パンダさん、すみません、パンダさんのお留守中に、また上がり込んでいました。
ちょっと滞った仕事を早く済まさねば、と思いつつ、ついつい・・・(^^;)
投稿: カレン | 2011年1月30日 (日) 16時55分
すみません、"Rosamonde"さんでしたね。お名前間違って書いてごめんなさい。
投稿: カレン | 2011年1月30日 (日) 16時57分
パンダさん、翻訳ありがとうございます。
定型語になるとこのようになるのですね。
カレンの夫さんが書かれていた「思いやり」という概念に対しての気持ち
>ごく「普通」にというか、垂れ流しのように流通しているこの言葉(概念)が非常に気持ち悪いものだと感じています。
これは私にもあります。
私にとっては、自分の欲求を満たす為にしていることという認識なのです。定型の方が人に何かをする時、動機に自分の満足は含まれていないのでしょうか? そのあたりがいまいちよく理解できません。
定型の方達を見ていると、ギブとテイクのバランスが重視されていて、それがどちらに傾いていても居心地が悪いように感じられます。私はそのどちらにも鈍感なところがあるようで、戸惑うことは多いです。
「人に何かしてもらったらお返しをする」「自分が何かしたら、軽くお返しを期待してみせる」この二つがあると相手は安心するらしいと理解しています。
先日、夫にこちらのブログのことなどを話してみましたが、彼にとっては私がアスペルガーの可能性があるということを受け止めるのが辛いとの話で、しばらく彼との間でこの話は控える方向でいます。
彼は私のアスペルガー傾向を一つの個性として受け止めようと努力してくれており、私は私なりの模索を続けて行きたいと思います。これからもよろしくお願いします。
Rosamondeさん
あうんの呼吸は最上級の難易度だと思います。
翻訳コンニャク、私も欲しいです。
投稿: 繭 | 2011年1月31日 (月) 10時13分
Rosamondeさん
> 生きていく(生活の)ために、自分の母国語文化滞在よりは定型さん語文化を一生懸命勉強していることを定型さん側は知って欲しいと思います
という言葉、すごくずしんと響いてくる感じがして……、と書こうと思ったんですが、先に遊び人のカレンさんに書かれてしまいました (^ ^;)ゞ
これはほんとに大きな問題だと思うので、ブログの方でもずっと気にしながら考えていきたいと思います。
繭さん
> 私にとっては、自分の欲求を満たす為にしていることという認識なのです。定型の方が人に何かをする時、動機に自分の満足は含まれていないのでしょうか? そのあたりがいまいちよく理解できません。
「相手のためになる」と感じられることが「自分の満足になる」という感覚があります。だからそれは自分のためでもあるし、相手のためでもある(と自分には思える)ということになります。
ただ、自分が相手のためと思ってしたことが必ずしも相手の為にならず、自分の勝手な思いこみに過ぎずなかったということもありますので、定型は自分が相手の為にした(と自分では思っていること)について、相手が感謝してくれているか、喜んでくれているかを確かめたい気持ちになります。
そしてもし相手が喜んでくれない場合は、ショックを受けたり、あるいはもう一度相手の人を理解し直して、次はもっと喜んでくれるようなことを考えようとします。私がアスペルガーの人とコミュニケーションをするとき、その「喜んでくれているかの確認の合図」が返ってこない事が多いので、そうすると「自分は何か悪いことをしたのだろうか?」とか「相手の人は私を嫌っているのだろうか?」とか、状況がわからなくてとても不安になってしまいます。多分、定型の人でそう感じる人は多いと思います。
>「人に何かしてもらったらお返しをする」「自分が何かしたら、軽くお返しを期待してみせる」この二つがあると相手は安心するらしいと理解しています。
これは定型の人間が「仲間」を作ったり、「仲間」を維持するための基本的な手段だろうと思います。だからいつ、なにをお返しするか、ということについてはかなりややこしい決まりがあったりして、それもまた地域や文化によってすごく異なったりしますから、定型の間同士でも、ある地域では当然のこととしてされているお返しの仕方が、他の地域に行ってやると「あの人はなんていう常識知らずの人だ」と不快感をもたれたり、ひどい場合には反感をもたれたりすることもあります。そこの調整がうまく進まないと、定形であってもいじめられたり排除されたりすることがありますから、結構これはシビアな問題だと思います。
>先日、夫にこちらのブログのことなどを話してみましたが、彼にとっては私がアスペルガーの可能性があるということを受け止めるのが辛いとの話で、しばらく彼との間でこの話は控える方向でいます。
この部分を読んで、私は「繭さんは本当に思いやりのある優しい人だな」と思いました。「相手が辛いと感じることはしたくない」というのは定型語で言えば「相手のためにする」ことですし、それは定型語では「優しさ」であったり「思いやり」になると思います。
>彼は私のアスペルガー傾向を一つの個性として受け止めようと努力してくれており、私は私なりの模索を続けて行きたいと思います。これからもよろしくお願いします。
上の意味での繭さんの「思いやり」は、きっと相手の方に伝わるだろうと感じます。そしてお二人の間で、すでに「問題」は「共有」され始めているように、私には感じられます。だから、焦ることなく、時間をかけてお二人の模索が続けられれば、きっと次のステップが見えてくるように思えます。もちろんこれは私個人の思いこみに過ぎないかも知れませんが、なんとなくその可能性が高いように感じています。
投稿: パンダ | 2011年1月31日 (月) 15時07分
パンダさん、ありがとうございます。
>「相手のためになる」と感じられることが「自分の満足になる」という感覚があります。
これは同じなのですね。なのにお互いに行き違うのですね…。
相手がどう受け止めているのか確認したい気持ちは私にも分かります。相手が満足して初めて目的が達成される訳で、それまでは改善の必要がありますし。
ただ、確認の合図はなかなか難しいです。
自分が発する場合は、やり過ぎるとオーバー、時によっては白々しいと言われ、自然にするとちぐはぐらしくて、求められるような絶妙な加減は体得出来ていません。
相手から受け取る場合は、言葉以外の反応は確信が持てず、つい言葉で確認したくなります。
自分の反応については情報処理能力も一つの問題かもしれません。
嬉しい気持ち→そのことで頭が一杯(音も聞こえなくなる時あり)→相手への対応がおざなり
といった感じです。
私の場合は、意識の対象を細かく切り替えることで対応していますが、相手が親しい人だと油断して自分の感覚に浸ってしまうことが頻繁にあります(多分無表情)。それが相手を無視しているように見える場合があると思います。
そういえば、夫と付き合い始めの頃に上記のようなことで喧嘩になって、「嬉しすぎるとそれで一杯一杯になる」と訴えたことがありましたが、当時は変な言い訳と一蹴されました。今は、頭一杯状態から返って来て、彼を見ると苦笑(本人確認済み)しています。でも、一緒に喜べないのは寂しいとも言います。
>>「人に何かしてもらったらお返しをする」「自分が何かしたら、軽くお返しを期待してみせる」この二つがあると相手は安心するらしいと理解しています。
> これは定型の人間が「仲間」を作ったり、「仲間」を維持するための基本的な手段だろうと思います。
やはりそうなのですね。して頂いたことへのお礼は意識していたのですが、それだけでは何故かうまく行かないことが多く、「軽くお返しを期待してみせる」これを見付けてからは随分楽になりました。
何というか、お互いに負荷定量への加減具合を確認し合うことが安心につながるような印象を受けました。
本当に「お返し」の難易度は高いですね。相手にとっては「形式=気持ち」と分かち難く結び付いている場合、単純な疑問として、何故その形式がその気持ちなのかを質問すること自体が大変な失礼にあたることもあり、苦労します。
この疑問は定型の方の感情表現にもあるのですが、さすがに尋ねられる機会は少ないです。
お返しに定型の方達も苦労しているのなら、もっとアバウトになればいいのになどと思ってしまいます。でも、逆に受ける時は、その形式が持つピンポイント感が嬉しいのでしょうか。
>~思いやりのある優しい人だな」と思いました。
ここまで読んだ時、無性に逃げたくなりました。
私の過去の経験では、この言葉を貰ったしばらく後には高確率で「がっかりした・ひどい→排除される」が待っていたので、それを避けるべく自分は「優しくない」「冷たい」をアピールしていました。
でも、パンダさんは私がそういう所を沢山持っていることは当然予測されている筈…。と思い直し、素直に「良い印象を持っていただいてありがとうございます、嬉しいです」と思います。
そして、私が夫をここまで追い込んでしまったことは事実ですので、それはそれで受け止めて行こうと思います。
>焦ることなく、時間をかけてお二人の模索が続けられれば、きっと次のステップが見えてくるように思えます。
「問題」の「共有」に言葉を要求してしまうのは、夫にとっては負担であり、彼はおそらく言外の表現方法で問題の共有をしてくれているのだと思います。私には見えづらいので不安もありますが、上記のように意訳して頂くと、見えないなりに安心できました。
ありがとうございます。
投稿: 繭 | 2011年2月 1日 (火) 16時50分