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アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月 7日 (金)

アスペルガーの人にとっての「仲間」と「孤独」

自らアスペルガー当事者であることを公言しているドラマーの金田ゆうじさんのブログ1%の世界:高機能自閉症のドラム演奏者のきままな日記をちょっと覗いてみました。いろいろ刺激的な言葉が並んでいて面白いんですが、中にこんな言葉もあったんですね。

「変動性の利己的な仲間意識に依存し合う事に、重きをおいている、中途半端な社会性を身に付けるよりも、遺された、同類と思われる人間の思想に対して、脚色せずに仲間として寄り添っていれば心は孤独に成りようがない。」

アスペルガーの人にとって「仲間」ってなんなんだろう?という疑問をずっと抱いていた私には、これがなんだかすとんと胸に落ちる部分があったわけです。

定型の人間は仲間集団の形成と維持のためにも、ものすごく気を遣うわけじゃないですか。で、そういう定型的な気の遣い方をアスペルガーの人はしないから、定型の側はいろいろショックを受け、やがてそのASの人は集団からはじかれる。

これをすこし違う視点(たとえば上の金田さんの文章の感じから定型である私が想像するような視点)から見れば、定型のそういう気遣いというのは、実質を持たない、上っ面の、空虚な、煩雑な、移ろいやすく信用も出来ない、虚飾の産物だとも言える。逆にアスペルガーの人々は、安定した実質をこそ大事にし、ストレートさを大切にして生きているのだとも言える。ストレートさは正直さでもある。ただ定型はその正直さに耐えられないから、アスペルガーの人々を攻撃し、排除しようとするのだ、とも言える。(いや、もちろん定型の側は本当に傷ついているんだけど、ただ視点を変えて見れば、ということです)

そうすると、定型的な感覚から言えば、「仲間になることを拒否するような言動」として感じられるものは、実はアスペルガーの人にとっては「正直に相手に対している」ということにすぎず、拒否などと言うこととは全く関係ないことだということになります。でも定型的には「拒否」としか感じられないから、そうすると「じゃあアスペルガーの人は仲間というものがいらない人なんだろうか?」という疑問が生まれる。少なくとも定型の私はそうなわけです。

そこで改めて金田さんの文章に書かれていることが効いてくる。「脚色せずに仲間として寄り添っていれば心は孤独に成りようがない。」

金田さんも孤独になりたくないんですよね。仲間が欲しいんですよね。ただその仲間はアスペルガーの人から見たときに「脚色」された虚飾の世界で危うく成立している「仲間」ではなく、「脚色」抜きにつきあえると言う意味で本当の仲間なんです。

そう考えるとなにか理解できる感じがしてきます。


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コメント

ここは、コメントいらないですね!

ドラマーの方が言われている通りです!

過去にコメントに書いた事で、わかってもらえますよね?

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