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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月10日 (月)

定型の自助グループ

井戸端掲示板にじいろ(アスペルガーを配偶者にもつ人の自助グループです) という掲示板を見ました。二ヶ月に一度関西で「アスペルガーを配偶者にもつ人」が自由に集まって話し合う活動をされているようで、毎回話し合われた内容の概略も紹介されています。場所は関西で、やっぱり関西はこういうの早いなあと思いますが、それでも掲載されいている最初の集まりは09年8月のものですから、そんなに「老舗」というほどの歴史はまだないですね。

その中の昨年4月の集まりを紹介する文章の最後に、管理人の方がこんな感想を書かれていました。

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上に、(プライバシー配慮のため)具体例を除いた、参加者の方々からの活発なご意見を三つに分けて並べました(重複している文章がありますが、お許しください)。私自身が深く共感をもち書き留めた言葉です。このように何気なく出ている言葉一つ一つが日々の生活で得られない「共感」、「癒し」になります。今までのアスペルガーを配偶者にもっている経験は共感してもらえない、わかってもらえないことの連続でした。困っていること自体がわからなくなっていたのだと、参加者の方々の発言を聞きながら、自分で発言しながら、感じました。
 私自身、混乱しているときは、「ジェンダー」や「異文化」という言葉で、納得しようとしていました。男性と女性という性による社会的な役割からくるもの。結婚はどこの家庭でもそれまでの育った環境が異なることから、異文化だ。もちろん、結婚した男女の関係にはジェンダーや異文化は密接に関係があります。しかし、そうではなく、生得的な異なり(=アスペルガー)の上にジェンダーと異文化があるのだとやっと気付きました。
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アスペと定型のコミュニケーション、あるいは共生を考えるときに鍵になるポイントがいくつかわかりやすく書かれているなあと思いました。(というか、正確に言えば、この集まりは「定型」の人が集まって悩みを共有し、支え合っていくための会ですから、アスペの側の人たちとの直接のコミュニケーションの場とはまた違う、ということは一応前提として頭の片隅に入れておく必要はあると思いますが。)

まずひとつはこういう場が「共感」を得られる場として参加者には本当に大切で、「癒し」をもたらす力を持っていることです。先に金田ゆうじさんのブログを紹介した文で、アスペの人もアスペの人なりの仕方で「仲間」を求めている、ということなんだろうな、という理解をしてみたんですが、ただ、「仲間」であるための要件というか、仲間に何を求めるか、求めないか、ということについてはやっぱり定型とアスペではズレがあるんだと思います。そして定型の側から見たときに、そのズレの最大のものの一つが「共感」という言葉で表されるようなものな訳ですね。

これは私自身の体験からも切実にわかります。大人同士の関係でも親友や恋人、夫婦ともなれば、定型の側はこの「共感」がものすごく大切で、それによって支えられ、しんどい人生もなんとか生きていける、というところがあるわけですが、定型の子どもの場合はその成長過程の中でその重要性はさらに大きい。養育者から共感を持って支えられることを栄養に育って部分が大きいし、それを求める力もほんとに大きいくのですから。けれどもその部分が定型とアスペの関係の中ではほんとに共有されにくい。

定型の側が「そんなこと言うまでもないことだろう」と当たり前のように感じて、その必要性をなんとか相手に伝えようとしても、驚くほどにそれが伝わらない。そしてその伝わらなさがどうにも理解できず、「相手が自分とのまともなコミュニケーションを拒否しているのではないか」と感じてしまうようにもなります。

多分一般に自助グループの大切な役割は、世の中で少数派の状況に置かれていて、なかなか自分の気持ちを理解してもらえない人たちが、そこではすごく共感してもらえる、ということがあるのだと思いますが、その働きの重要性がアスペの人を配偶者にもつ定型の人にはとりわけ大きいのだろうと、経験上もしみじみ思います。

次に「ジェンダー」や「異文化」という視点からの理解がまずあったという話。ここではその下に「生得的な異なり(=アスペルガー)」があるということの方が大事なポイントとして書かれていますが、そのことはまた後で考えることにして、アスペルガーと定型のコミュニケーションを考えるときに、「ジェンダー」や「異文化」という視点が重要だと言うことは、私の場合は逆に最近その意識が強まってきました。

というのは、まず「ジェンダー」についていうと、アスペルガーである人が夫の側であるのか、妻であるのかということの差は、その関係がどう作られ、進んでいくか、ということについて、相当大きな違いを生んでいる可能性を感じるからです。私のように「定型」の側が男である場合は、社会的な権力関係から言えば、やっぱり強いことが多いわけです。もちろん人それぞれで、個性も多様ですから、家庭内での実質的な権力関係が社会的なそれとは逆になる場合だってあるでしょう。でも一般的な傾向としてはやっぱり社会的には男の方が有利なことが多いのだと思えます。

なぜそれを強調するかと言えば、アスペルガーの人によるDVなどを含む深刻な話は、やはり女性が定型であるという場合に目立つように思えるからです。とりわけ女性に「母のように夫のすべてを受容する」ような態度が文化的に強く求められる傾向のある日本の社会では、女性がそういう関係を自分のリーダーシップで変えていくことが困難だし(夫より立場が弱いために)、かといってその状況から自らの意志で逃れることもできず、ひたすら耐えざるを得ない、というふうになってしまうのでしょう。アスペルガーの男性も、社会的には女性に対して相対的に強いとはいえ、その社会の中ではnonono12345さんの例にもあるように、ものすごい迫害を受けていたりしてぎりぎりの精神状態にも追い込まれたりしていることが少なくないのですから、場合によってそのストレスがDVのような形で現れてしまうこともありうる。

逆に女性の方がアスペルガーである場合は、子どもの頃からむしろおとなしく状況を受け入れ、我慢することを良しとされる傾向が強いわけですから(大体モデルとしての母親が多くの場合そうですし)、DVのような形で夫に対して暴力的に出ることは相対的には少ないでしょう。だから逆にそのストレスは直接相手に向けられずに内向する(自傷、物に当たる、抑鬱的になるなど)傾向が強くなると思えます。その我慢のレベルを越えた場合にはまた次の展開もあり得るでしょうけれど。さらにはアスペルガーの女性の方が激しいDVの被害者になるケースだってあり得るはずです。

こういうことはやっぱり「ジェンダー」の視点を入れて考えないとわからないんだと思うんですね。問題のベースにアスペルガーがあったとして、それが具体的にどんなふうに形になって問題化するか、ということを考える場合には。当然それに対してどう対処していったらいいのか、ということもそこでいろいろ変わってくるのだと思います。

「異文化」ということについてはこのブログでもなんどかすでに言及しました。特にアスペルガーの人たちの自助グループである「アスペルガーズサークル」の管理人の方が書かれていたことを見ると、アスペと定型のコミュニケーションで気をつけるべき事と、異文化間コミュニケーションで気をつけるべき事との間にかなり共通する部分がありそうだということも見えてきます。

で、この掲示板にじいろの管理人さんの場合は私とは逆に、そちらの方の理解からアスペルガーの方がむしろ基本的な問題としてあるのだ、というふうな気づきに進まれたわけです。そのことの意味は何なんだろうと考えてみるのですが、それは「生得的」という言葉で良く表されていると思えます。

つまり「ジェンダー」とか「異文化」というのは社会的に作られているものですから、社会が変わるとその内容も変化していくもので、固定的なものではありません。だから問題に「社会を変えよう」というような形で取り組み、変化させる可能性もある程度見えてきます。けれども「生得的」という理解は「変えようもないもの」という響きを持つわけですね。「もうそれはそのようなものとして受け入れて考えるかない」という部分がより強調される。

これ、いろんな言葉で表現できそうな気がします。たとえばある種の「あきらめ」。自分と同じような基準で理解し合える関係にいつかなるのではないか、という期待について、もう「生得的な違い」なのだから、それは無理なのだ、とあきらめること。いつかなえられるかわからない期待を持ち続けることはとても辛いことですが、その可能性はないのだと思い切ったときには少し楽になる部分は確かにあります。

ただしこれは下手をすると相手とのコミュニケーションの可能性を頭から排除し、「差別」につながる危険性もあるでしょう。実際アスペの人はそういう扱いを社会的には沢山受けていますよね。でも、「期待の内容を現実をふまえて調整し直す」という可能性も新たにそこから出てくることになります。この場合は単なる「あきらめ」ではなくて、「自分(定型)の側の(それまでの)こだわりを捨てる」という表現になるかもしれません。

もし相手との間でそのへんがうまく調整できれば、カレンさんの例でご紹介したような、新しい関係がそこから生み出されるかも知れない。その場合はある種の「悟り」を含んだような「受容」という風に表現できるかも知れません。逆にもうそれ以上相手に対する愛情をもてないことが明らかな場合など、「こだわりを捨てる」ことによって、ある程度お互いに納得しながら関係を解消する、という形になることもあるだろうと思います。

私の場合は「生得的な違いなんだ」ということがかなり自分の理解の基礎に据わり、そして相手と共有されるようになってからは、そのことを前提にどう折り合いが可能なのか(または不可能なのか)ということを模索する日々でしょうか。このあたりはそれこそジェンダー的に置かれた立場の違い、家族関係や親戚関係の違いなど、いろんな要素が絡まり合い、さらに相手とそれまで積み重ねてきた歴史の違いも大きな問題でしょうから、一般論は難しそうです。それぞれに個性的な模索が必要だし、いろんな答えの出し方があるのかなと思います。

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コメント

ここにもコメントします。

にじいろさんは2009年から参加しています。

私が自閉さんですが、結婚したダンナも自閉さんと言うことで、自閉さんのパートナーとして参加しています。

と言うことで、1人だけ定型さんではない人間も参加している訳です。

私の場合は一個人としての自閉さん本人の気持ちや感覚など自閉さん文化を話しています。

自閉さん同士がうまく暮らせるような工夫(特性文化理解やコツなど)を話しています。※あくまでも私たち夫婦の工夫なので、他の方には使えないことがあります。


Rosamondeさま まいどです。

> 自閉さん同士がうまく暮らせるような工夫(特性文化理解やコツなど)を話しています。※あくまでも私たち夫婦の工夫なので、他の方には使えないことがあります。

このあたり、おいおい学んでみたいです。
別に自閉さん同士の問題だけじゃなくて、理解しにくい者同士の関係をどうつなぐか、という問題にもつながるんじゃないかな。

はじめまして。取り上げていただいて、ありがとうございます。

アスペルガーという障がいそのものが理由であるということに納得してから、ずいぶん楽になったことから引用部分を書きました。

ジェンダーも文化に含まれることですから、ジェンダーと異文化がいっしょくたになっている部分もあります。私がこの文章で書いた異文化とは、夫の育った家庭環境と私が育った家庭環境という意味で書きました。ただ、夫の育った家庭環境は姑もアスペのため、文化を受け継ぐ家庭として機能していないことに気がつきました。そうです。パンダさんが書かれている定型の文化とアスペ文化の違いでした。一般的に言う家庭文化の違いではありませんでした。アスペルガーの特徴として文化を身に着ける・理解する能力もない場面にずいぶん出くわしました。そういう人が私に命令するのでずいぶんひどい目に遭わされました。しかし、社会が変わると状況もかなり変わります。文化の異なるカナダですべて言葉にしなければならない環境で夫と暮らした時はずいぶん楽でした。社会自体が日本よりジェンダーフリーでしたし。日本でも、因習が残る田舎で暮らした時はいちいち動揺してパニックを起こす夫の扱いで疲れ果てました。逆に都会のマンション暮らしはまだマシです。

あ~あさま

 どうもありがとうございます。

「アスペルガーという障がいそのものが理由であるということに納得してから、ずいぶん楽になった」

 これって、ほんとうに大きいですね。定型の側もアスペの側も、みなさんそこがすごい転換点になったと言われますし、私もそうでした。
 
「社会が変わると状況もかなり変わります。文化の異なるカナダですべて言葉にしなければならない環境で夫と暮らした時はずいぶん楽でした」

 このお話しはなんか、すごい大きな重要なことを含んでいるように感じました。同じカップルなのに、周囲の文化環境が変化するとカップル関係が変わってしまう。うーん、これはすごい話だ!

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