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2011年1月12日 (水)

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(5) 「翻訳」編

さていよいよ本題だったアスペと定型のギブアンドテイクの問題です。

ここでは先にご紹介した「別の通りすがり」さんの、アスペルガーのパートナーといい関係になれたというカレンさんの書き込みを「偽善」と断言するような強い反発はなぜ生まれるのか、ということも考えてみたいし、「別の通りすがり」さんが不可能と断定したアスペと定型のギブアンドテイクの可能性についても考えてみたいと思います。(以下、私の勝手な想像ですので、「別の通りすがり」さんや「カレン」さんの考えられていることをどこまで追えているかは全くわかりません。とんでもない誤解かも知れませんし、もしお二人がお読みになることがあってそう感じられたらいつでもどうぞご指摘下さい。)

「別の通りすがり」さんの主張はおよそこういうものです。カレンさんがパートナーとうまくいくようになったのは、カレンさんが一方的に我慢して(自制して)相手に合わせているからだ。アスペルガーの相手は決してカレンさんが相手に対してするような配慮はしないはずだ。だから、自分が一方的に我慢して成り立っているような、ギブアンドテイクが成り立たない関係など偽物の関係に過ぎない。

つまりここで「別の通りすがり」さんはカレンさんとパートナーとの関係を「奉仕」のような関係と捉えたということのように思えます。相手からの見返りを期待せずに相手のために行為する。そう捉えたから、最後に「カレンさんの境地は、ある意味、教祖の域にあります。凡人には、無理です。」という言葉が添えられることになるのでしょう。そういう一方的な関係が成立するのは(3)で述べたような、一種の宗教的な境地でしかあり得ない、というふうに感じられたからだと思うのです。

だから、「別の通りすがり」さんが今まさに抱え込んでいらっしゃるだろう(具体的にはわかりませんが)、凡人として生きる俗の世界の苦しみにはその話は通用しない、あるいはそんなものを自分に求められてもどうしようもない、と思われた。そんな話を美化されたら、一体この自分の苦しみはどうなるのか、と。これ以上ただ一方的に我慢を続けろというのか、と。

それに対してはカレンさんは、これは自制しているのではないし、一方的なものでもない。自分もテイクできるようになってきているのだ、ということを語られ、「私は凡人です。教祖の域など、とてもとても、まだまだ、です。」ということで、「教祖の域はまだまだ」という風に書かれているように、ある種の宗教性の方向に向かれていることでは「別の通りすがり」さんの理解と矛盾はしていませんけれども、けれども現在の状態はそういう「悟り」の段階のようなもので達成されている状態とは違うんだと答えられています。

カレンさんが悟りの段階に入られた方なのか、あるいはそういうふりをしている偽善者なのか、ということについては私がどうこう言うべき話ではないでしょう。そんな資格が自分にあるわけではありません。ただ、カレンさんがどういうふうにうまく行くようになったか、ということを説明されている言葉の中に、いくつか大事なポイントがあるように思います。そしてそれは悟っているかどうかとは関係なく、この俗の世界の中でのギブアンドテイクの問題として考えられることのように思えるのです。

まず「別の通りすがり」さんが「定型ならば、こちらが、思っているように、相手にも、思ってほしい、というのが、「普通」であると思います」と主張されていることに対して、「私が思っているように相手に思って欲しいとは、今は思っていません。」と答えられています。つまり、自分が考えていたギブアンドテイクの関係(同じ思いの共有など)とは違う考え方になったのだ、ということと理解できそうです。ですから次に「夫が私の思いやりのように配慮してくれているとは思いません。」と書かれています。ではやっぱりギブアンドテイクは成り立たないのか?

続けてカレンさんが言うのは「別の通りすがり」さんの指摘を肯定した上で、「でも、それ(夫の行為)が、夫の私に対する愛情の表し方であると、今はすごくわかります。私は私のやり方で、夫は夫のやり方で」という形で、ちゃんとギブアンドテイクになっている、ということです。

そこで大事なことだなと思うのは、それぞれの相手のやり方は、自分にとっては「思いやり」とか「愛情」の表現にはならないものだ、ということです。にもかかわらず、お二人はその相手のやり方が相手にとっては「思いやり」や「愛情」の表現なのだ、ということをわかり合った。それをこんな風に表現されます。「お互いのやり方の違いをわかって、お互いのやり方の意味を翻訳して解釈して、ちゃんと「ギブアンドテイク」になっていると感じています。」

私がとても重要と感じるポイントはこの「翻訳」あるいは「解釈」という部分です。自分とは全く異なるような、自分には想像も出来ない形で、しかし相手は自分に「思いやり」や「愛情」を表現してくれていた。言葉や行動は全く異なるけれども、その意味はつながるものがあった、ということを見いだされたということになります。それが「解釈」であり、その作業が「翻訳」という、いわば俗の世界での工夫です。そうすれば悟りの世界でなくとも、異なる言葉や行動を持つ人間の間にも、別の形でギブアンドテイクの可能性が出てくることになります。

では、そのような「翻訳」も困難だったお二人が、なぜ今のような状態に変わってこられたか。そのことを私が理解しようとするときに手がかりになりそうなのが「夫のかつての「俺が一生懸命やってるのが、なんでわからないんだ?」という悲痛な叫びのような言葉を思い返したりしながら、」というところです。言葉や行動で伝わらない真剣な思いがそこにある、ということを、カレンさんは心のどこかで感じずにはいられなかったのではないでしょうか。自分だけが苦しんでいるわけではないし、自分だけが伝わらなさに絶望的になっているのではない。相手も同じなのだ、という感覚。「伝えたいのにどうしても伝わらない」という切ない思いがそこでは逆説的に共有されたのだとも言えそうに思うのです。

ということで「別の通りすがり」さんが考えるギブアンドテイクと、カレンさんが考えるギブアンドテイクの具体的な内容にズレがあり、「別の通りすがり」さんにはカレンさんの関係が「ギブアンドテイク」とは見えなかった。だから一方的な「奉仕」である宗教的な関係に見えた、ということなのではないでしょうか。

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