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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月30日 (日)

言葉を話すということ

 ここ数日、コメント欄でコメントしてくださっている方同士でのやりとりが増えてきたようで、嬉しいんですが、ブログという形はそういう横の交流というのが形としてちょっとやりにくい仕組みだなと感じました。その点は掲示板とか、ああいう形の方が議論の流れもわかりやすいですね。

 それはさておき、コメントでは、次々にとても大事な問題が提起されているように感じます。で、ここでも少しずつ考えていきたいんですが、昨日の夜中からちょっと取り込んでいたり(え?誰です?サッカー見てたんでしょう!という突っ込みは。聖母みみさんでしょう!……はい、その通りでした (^ ^;)ゞ )、昼間はお洗濯を畳んだり、お茶碗洗ったり、お昼寝したりで忙しかったので、つっこんだ議論はお休みさせていただきます m(_ _)m

 ところで、このブログでは、お互いに自分の常識だけで相手を理解して、不必要な誤解を積み重ねたり、必要以上におかしな否定的見方をしてしまったりすることを避けるためにも、定型とアスペの「違いを理解する」ということを大事にしています。けれども、ただそうやって誤解が発生する、ということは、「誤解を生み出すことのできる<共通の>土台がある」ということも意味しているんだ、ということを改めて感じています。

 詳しくはおいおい書かせていただくこととして、カナータイプの(知的な発達の遅れを伴った)自閉の子どものことについて、昔こんな文章を読んで感動したことがあって、ご存じの方もあるかも知れませんが、今日の所はそれをご紹介するにとどめておきたい気がします。

 著者は岡本夏木という、発達心理学の研究者で、養護学校の校長先生をされていたときに、卒業式で体験されたことを「子どもとことば」(岩波新書)という本の「おわりに」で紹介されています。
 
 ひとりの自閉症の中学部の子どもが卒業することになりました。集団的な行動や人とのやりとりが難しく、小学校の卒業式では岡本さんはその子のところまで降りていって証書を渡したりしました。中学生になって三年がたち、その子はそれでもなんとかひとりで登壇し、岡本さんの所まで進んできました。

 岡本さんが早く終わらせてあげようと急いで証書を読んでいると、なにかいつものようにぶつぶつ独り言を言っているのが聞こえてきます。気がつくと、それは「どうもない、どうもない」という言葉だったのです。

 これは普通の意味でのコミュニケーションの言葉にはなっていません。「どうもない」という関西弁は、相手が不安になったり心配したりしているときに「大丈夫だよ」という意味で投げかける励ましの言葉で、岡本さんはべつに最初から「どうもない」わけですから、その子からわざわざ言ってもらう必要はない。そうではなく、実はその言葉はその卒業生が、自分に向けて語っている言葉だったんですね。

 ではどうしてそういう言葉を語るようになったのか。その言葉は(私の想像ですが)たとえば先生と散歩に行って、路肩のコンクリートを平均台のようにこわごわ歩くときなど、先生に手で支えられながら、「どうもない、どうもない」と励まされてきた、そんな言葉だろうと思います。

 「この先生が私の気持ちを支えてくれている、頑張れと言ってくれている、その気持ちに応えて、自分は頑張ってみよう」とか、そういう複雑なことを理解しているのではないだろうと思います。でも、その子にとっては自分に困難なことにあえて挑戦するとき、それは自分を支えるおまじないとして、生きた力を持つようになっていたのでしょう。そしてひとりで壇上にのぼって証書を受け取るという、とても緊張する事態で、彼はその言葉で自分を支えたのです。

 彼に「この言葉はあの人からもらったお守りだ」という意識はなかったとしても、でも彼がその言葉を獲得したのは、そしてそれを自分の支えとして使えるようになったのは、あくまでもその言葉をかけ続けてくれた回りの大人達がいたからです。そしてそこで彼を励まし続けた大人達の願いを、彼は彼なりの仕方で受け入れ、そしてそれに彼なりの仕方で支えられたのです。

 アスペと定型の間では、お互いを傷つけ合うために使われているようにも思える言葉、お互いの不信感を高めるために、相手に対する絶望を深めるために投げつけ合うようにも思えるその言葉も、アスペであろうと定型であろうと、かつてそういう大人から子どもへの願いと共に語られたことを、それぞれの形で受け止め、自分のものとしたのだということを、いつも頭の片隅に置いておきたいと、そんな風に思います。


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コメント

私にも、お守りのような言葉が沢山あるなあと思いながら読ませていただきました。
その言葉を思い出すだけで、それに象徴される思い出が次々と浮かびます。

アスペルガーの人は言葉を額面通りにしか受け取らず、裏の意味を読み取れないと言われていますが、定型の方にとっての言葉というものは、どのように捉えられているのでしょうか?

個人的なものなのか分からないのですが、私にとって言葉というものはとても象徴的で、それそれが完結した一つの世界というようなイメージがあります。それらの世界に敬意を払って、自分の意識を運んで貰うメッセンジャーのようなものです。

人と話していて言葉に二重の意味があると、時によっては言葉への冒涜(と言うと大袈裟かもしれませんが)と感じられて悲しくなることがあります。

こんばんは。
ずいぶん、お久しぶりです!?
私は生きていますよ(笑)パンダさんのブログチェックも、毎日楽しみに欠かしていませんでした(バレてました?)。

私は最近、全盲ろう者のTVを見ました。
産まれた時から、全く、全く、目も耳も不自由な子供が…19才になって、日本で初めて、大学に合格したドキュメントでした。
素晴らしい…本人も家族も…
だって、「あ」も、「い」も、「う」もわからなくて、ぞうさんも、りんごも、見た事なくて、どうやってコミュニケーションするの???
凄く不思議でした。指文字というものを使っていました。指の感触だけです。
今まで一度も、光もない、音もない世界って…全く想像できません。
でも、その方は、立派に、楽しそうに、生きていました。
その裏には、私達が想像つかない、本人と家族、周りの、大変な努力と葛藤があったはずです…。
大変であろう、彼らでさえ、国の支援体制が未だ、殆ど整っていないそうです。

私達には、耳や、言葉があります。
その全盲ろう者の方を思いながら、パンダさんの投稿を改めて読んだら…色々考えさせられました。

繭さん

>人と話していて言葉に二重の意味があると、時によっては言葉への冒涜(と言うと大袈裟かもしれませんが)と感じられて悲しくなることがあります。

 口先で適当に人を誤魔化そうとするような発言に対しては、私も同じような感じを持つことがあります。

 同時に、私はつまらないだじゃれを沢山言う人間で、多くの定型の人間からも馬鹿にされたり、迷惑がられたりしていますが (^ ^;)ゞ、もうちょっと話を「高級」にして、詩とか和歌などもそうだと思いますけれど、文学などでは複数の意味をわざと同じ言葉に紛れ込ませたり、解釈を読み手に自由にさせるような、そういうやり方が大事なテクニックになったりもしていますよね。

 そういう意味では、言葉というのは辞書的な決まった意味をはみ出ることで、新しいもの、新たな見方、新しい世界を生み出す、という力があるのだと私は思っています。子どもが言葉遊びが好きなのも、そういう「はみ出た世界」の楽しさを感じるのではないかと思います。

 このあたりの言葉に対する感覚が、アスペの方とは違ったりするのでしょうか?


みみさん

 おお、生きていましたか!
 あのエネルギッシュなコメントの嵐が急に去ったので、
 どうなっちゃったんだろうかと心配してました。

 私の投稿を読んで色々考えさせられたとのこと、
 多分私の子どもたちはこういうと思います。
 「とにかくひどい文章で、何書いてるかわかんないから、読む人は考え込んじゃうんだよね」
 ……という感じで、いつも子どもにはいじめられているんです (T T)

パンダさん

だじゃれとか、高級な表現とか、はみ出た世界とかいったことは、私も全然いやではありません(^^)
あと、「万感の思いを込めた一言」といった表現も好きです。聞いても分からないかもしれませんが。

良い意味の言葉が厭味を表すのに使われたり、相手を攻撃するためだけに思ってもいないような言葉を選んだりといったことに一々反応してしまいます。
単に意味が二種類というよりは、言葉が気持ちや情報を乗せる器にすらなっていないように見える時にそう感じることが多いです。

言葉の力や可能性を信じるというのには、私も同感です。
それから勿論、こちらのブログで上記のように感じたことはありません。

繭さん

 あ、だじゃれいやじゃないんですか!
 これはパンダ説ですが、だじゃれの好きな人に悪人はいないんです。
 (この説は定型の中では絶対非難されまくりますが (^ ^;)ゞ )

> 良い意味の言葉が厭味を表すのに使われたり、相手を攻撃するためだけに思ってもいないような言葉を選んだりといったことに一々反応してしまいます。
単に意味が二種類というよりは、言葉が気持ちや情報を乗せる器にすらなっていないように見える時にそう感じることが多いです。

 もちろんアスペルガーといってもいろんな方がいらっしゃるから、
 これは繭さんの個性の部分が大きいのかも知れないし、まだよくわかりませんが、
 この文章を拝見している限りでは、本当に言葉を大切に、
 そして言葉に載せる思いを大切にされている、という感じがします。
 それは「純粋な心」というような言葉で表現可能な感じもする。

 そうすると、そういう感覚からすれば、定型の世界は
 虚構に満ちた、偽りの言葉が氾濫する世界に見えても不思議ではない気がしました。
 そこに無理に適応しようとすると、すごく傷つくんじゃないでしょうか。

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