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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月28日 (金)

限られたエネルギーの配分

 引き続きjoさんからいただいているコメントから考えています。(うーん、読み返してみて実にまとまりのわるい、だらだらと長い文章ですが、それも含めて現時点でも私のある真実を現していると考えてこのままにしておきます。読みづらく、わかりづらいかと思いますが、どうもすみません)

 チロさんから新たに頂いたコメントにも書かれていますが、定型とアスペのカップルが抱えた問題がとりわけ難しくなるのは、やっぱり子どもの問題が絡んできたときだろうと思います。(以下、いつものことながら、あくまでも定型のひとりである私の視点からはこう見える、こう感じられる、というだけのことです)

 今ふと思い出したんですが、子どもがまだほんとに小さい幼児の時、私が家にいれば寝るときに一緒に布団に入ってお話しを読んだり、あるいは私の即興のでたらめの物語(ほんとにひどい内容でした (^ ^;)ゞ )をしてほしがったんです。そういうの、子ども時代はとても大事だし良い思い出だと思うし、自分も子どもに喜ばれるのが好きなので、苦手な即興物語作りも冷や汗ものでやってたんですね。

 いや、ほんとにメルヘンのかけらもない、しっちゃかめっちゃかのひどい話でした。物語りの才能のかけらもないことが自分でよくわかりました。子どもにはその意味では「ひどい情操教育」でなんか悪かったなあと思っていたんですが、大きくなってから、あれがすごく楽しかったと言われたんですね。すごいホッとして嬉しかったんですが、まあいずれにせよ、そういうのって、子どもにとって大切な時間だよなあという感覚はごく当然のこととして思っていました。

 だから、読み聞かせや物語が終わって子どもを寝かせ、私にとってもささやかな幸せの時間をすごして布団から抜け出て、隣の部屋にいるパートナーと「寝たよ。なんか今日の話もひどかったけど、おもしろがってた」「そう、よかったね。ごくろうさま。それにしてもひどい話だったね。あなたセンスないね~。もうちょっと面白くできないの?」とか、そういう会話を交わそうと思ったりしてるわけです。ところが実際は子どもの寝ている部屋を出てくるなりパートナーからは「どうしていつもそうやって話をするの?寝る時間が(いつもより)遅くなるじゃないの。」という言葉が、不機嫌そうに見える顔をしながら投げかけられるんです。

 初めての時は「え?」っと思って、自分が何か聞き間違いをしたのか、あるいはパートナーがよほど虫の居所が悪かったのか、話の中身が何か気に障ることがあったのか、ほんとになんのことかわからずに混乱しました。ただ、本気でそう言っているとはとても信じられなかったので、「え?いや、まあ、このくらい大丈夫でしょう」とか自分でも訳のわからない会話になって終わりました。

 しかし彼女自身、本はとてもよく読む人だし(多分その影響で子どももすごく本を読むし、家で本を一番読まないのは私なのですが(^ ^;)ゞ。うーん、そう考えるとパートナーの方がいい教育をしているのかしら?)、そういう物語の楽しみを否定的に捉えるとも思えなかったし、ほんとに訳がわからない。

 にもかかわらずそういうことが度重っていきます。もし本や物語の楽しみを否定しているのでないとすれば、しかも時間がいつもより遅くなるって言ってもほんの10分やそこらのことで、それで子どものあれだけの楽しみを奪おうとするなんて考えられないとすれば、一体何なんだろう?と考え込まざるを得ない。

 私はどっちかというと(というかどっちかと言わなくても (^ ^;)ゞ )もともとちょっと羽目を外して子どもと遊ぶことが大好きで、子どものようになって(あるいは子ども以下になって?)きゃっきゃと騒いでいると、また何か不機嫌な顔(に見える)で否定的なことを言われたりする、というようなことが積み重なるんです。

 そういう中で、「もしかするとこの人は自分が子どもと仲良くすることを嫌っているのだろうか?」とか、自分と子どもをがしっとした枠組みに押し込めて支配しようとしているのだろうか、というような得体の知れない猜疑心、そしてなんとも割り切れない思いがオリのようにつもっていきます。

 今だから頭ではそういうことかと思うんですが、私のパートナーは「決められた時間にきっちり寝ない」ということに、本当に不満か不安か心配か、そこはよくわからないのですが、そういう「割り切れなさ」を感じていたんだと思います。そして本当にそれは子どものためによくないと感じていたんだろうと思います。でも当時はそんな考え方、感じ方が、しかも微動だにしないような固さで存在しうるなんて、想像もしなかった。

 そういうひとつひとつのことはある意味で些細なすれ違いで、自分の思い違いだろうかとか、そんなに深く気にすることでもないとも思えるようなのかもしれません。だから長い時間一緒にすごすような関係でなければ、それを見た人は一瞬あれ?っとは思っても、まあ例外的なこととして忘れてしまうでしょう。よほど子どもの扱いに専門的になれた人なら別かも知れませんけれど。

 でも、私も自分が子どもの頃からの子ども好きで、障がいのある子を含めて、子どもとの付き合いが結構あったし、そこで得られた「こういうことが大事」という感覚からして、何か子どもの成長を考えるときに本質的に重要と思えるようなところで、スッ、スッ、とカミソリで付けられるような心の傷が重なっていきました。そしてその痛みがほとんど一度もといっていいほどに癒されることもなく、積み重なって増えていくんです。

 (ただパートナーの名誉のためにも付け加えると、それは決して「悪気」ではありません。アスペルガーという認識が共有された現在は、どういうときに傷つくのか、ということをずっと話し合いを続け…話し合いの成立自体なかなか大変でしたが…、そして彼女が大きな困難を感じながらも一生懸命理解しようとする姿勢を持ってくれることによって、ごく最近のことですが、この傷の積み重なりがほんとうに無くなってきています。考えてみるとものすごい変化だと思えます)

 立場を変えれば、私の方もそういう傷を知らないうちにパートナーに積み重ねた部分があるんだろうとは思うんです。繭さんもコメントの中で「それまでパートナーである夫と、理解し難い傷付け合いが数多くありました。けれども、お互いに相手が何故痛がっているのか、すぐには分からない事がほとんどでした。」と書かれているように、そういうことは単純に一方的なものではないだろうと思うんですね。

 でもそこをまだ十分実感できないのが、私の今の限界だろうと思いますし、そこはこれからも考えていきたいと思っているんですが、とにかくなぜそういう展開になるのか訳のわからない状況の中で、昨日書いたように子どもが「ああ、やっぱりそうだったか」と思える感じでほんとに深刻な状態になりました。そしてもうこの家族の先は何も見えなくなるという絶望的な感覚の中で、それでも薬を飲みながらとにかくこの状態をどうにか切り抜けなければという気持ちだけをぎりぎり保っていたわけです。

 その段階では仕事はなんとか続けながら、薬で確保したとても限られたエネルギーを一体どう使うのか、そういう問題を突きつけられました。そういう経験を経てのことですが、joさんの話を読ませていただいていて、限られた時間と限られた資源(周囲のサポートや自分自身のエネルギーなど)を前提としたばあい、どうしてもその資源を現時点でどこに一番振り向けることが長期的に見ていいのか、という、ある種優先順位を考えざるを得ないという状況があるのではないかと、改めて思わざるを得ませんでした。

 私の場合はとにかくそのエネルギーをまずは子どものサポートに振り向けました。と言っても子どもとの間にサポートを受け入れてもらえる関係を回復すること自体が大変だったわけですが。もちろん夫婦そろってサポートするのが当然の筈なのですが、そのために話し合いをしようとしても、共有されるのは「子どもが苦しんでいる」という認識までで、なぜそういう状態になるのか、何がポイントなのか、どうすることがいいのか、と言うことについての相手の理解は、お互いに全く了解不能な状況で、そのうちに話し合いも拒まれるようになる。(そのように拒まれた理由については、繭さんのコメントの最後の一節が改めて私にはヒントになっています)

 そうはいっても、子どものことでパートナーも本当に深く苦しんでいることは見た目に明らかで、私に能力とエネルギーがあれば、そのサポートをしなければならないとは思いながらも、私が「こうしたら少しは力になれるのではないか」と考えて行うことはことごとく意味を持たない、と言う無力感を嫌と言うほど味わって、もうそこは目をつぶらざるを得ませんでした。もうそこに使うエネルギーは私には残っていなかったのです。さらに言えば実家との関係も修復を必要とし、両親に対する子どもとしてのサポートをしなければならないことも理解しながら、それはもっと後回しにせざるを得ませんでした。

 そうやって子どものサポートに残りのエネルギーを集中し、ようやく現在は子どもについては基本的に大丈夫だと感じられるところまで来ています。その上で、現時点でも相当のダメージを引きずっている自分自身を改めてケアしながら、パートナーとあらためて向き合う段階に来ていますし、ほんの少しですが、実家との関係にも改めて目を向けることができ始めました。もちろんお医者さんも含め、そのプロセスではいろんな方に支えられてきましたし、また現在ではこういうブログなどを通しての新しい関係の中で支えられ、「次」を考えられるようにもなり始めています。

 ここまでのプロセスの中では、自分自身がもうどうしようもなく破綻するという経験も含め、今考えて私としてはこれができることの限界だった、あるいはすでに限界を超えていたと思います。それ以上の能力は私には備わっていませんでした。だから、もしもたとえばパートナーとの関係がさらにシビアであったりとか、もう少し条件が悪ければ、エネルギーの使い方もさらに全く異なった方向に向かっただろうと思えます。たとえばもっと早い段階で離婚するとか、あるいはさらに厳しい選択肢など。

 そういうわけで、みみさんには怒られてしまうかも知れないのですが(どうかお許し下さい m(_ _)m)、どうしようもない自分の限界を抱えて優先順位ということを考えざるをえない状況では、場合によってはどこかの関係については、少なくともその時点ではあきらめざるを得ない、という状況も出てくるだろうとやっぱり思えるんです。もちろん未来永劫あきらめると決めつける必要は無いし、一旦離婚したけど、やっぱりもう一度やり直してみようということがあってもいい。けれどもある時点ではそれ以上もうどうしようもないということは確実にあると、私には思えるのです。

 なぜそういうある種の確信を持つのかについてはまた改めて書く機会があればと思いますが、優先順位としては一番の弱者をまず守れる状態を作る、ということではないかと私には思えます。また自分が一番の弱者の場合は、やっぱり自分を守ることが優先されるべきだろうと思います。もちろん誰が弱者か、って具体的には判断は難しいとしても、基本線としては、ということです。joさんやチロさんのコメントを見ながら、なんかしきりとそんな気がしました。

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コメント

初めて、パンダさんに、何者? と、問うた時、当事者なのか、医療関係者か、
わからなかったのですが、パンダさんは、思いっきり、当事者だったのですね。
(いや、既に、わかっていましたが・・・)
心中、心労、お察しいたします。

子育ての過程を振り返るとき、私も、トラウマが、甦って、苦しくなります・・・
私は、ずっと、夫に、夫して、父親として、理想、あるべき姿を追い求め、
どうして、できないのか、叶わないのか、ずっと、苦悩した15年間でした。
(私も、あらゆる修羅場を経験しました。)

一昨年、ネットで、初めて、「アスペルガー症候群」という言葉・障害を知り、
過去のすべての苦悩の点の数々が一瞬で、つながりました。

夫は、チロさんのご主人に似ています。
学歴もあり、ちゃんとした会社に勤め、私は、専業主婦で、子供3人を
育てています。夫に、「あなた、アスペルガーよ」なんて、口がさけても、
言うことは、できません。

夫は、対人関係に悩みながらも、収入を得て、家族を養っていることに、自信を持っています。
私が、家庭内のすべての采配をして、家庭が機能していることには、全く、
気もつかず、自分は、嫁・子供に恵まれた、人生の「勝ち組」と思っていると思います。

夫は、みみさんのお兄さんと同じく、ハンドルを握ると、人格が、豹変します。
自分のイメージした、思い描いた通りに、運転できないと、あらゆる罵詈雑言で、
車内の雰囲気は、一変します。

とくに、渋滞は、だめです。最悪、私が、運転を代わります。
自分が、この信号で、進みたい、と思っているときに、進めないと、
初心者マークだろうと、若葉マークの老人だろうと、
「くそ、ぼけ、かす、はよ、行けや」と、やく○のような、言葉使いです。

私は、また、始まった・・・とばかりに、夫に、説教します。
「あなたの思い通りに、車は、動かないの!!!!」
でも、17年間、変わりません。

当然、後ろには、子供たちが、乗っています。
子供たちも、始めこそ、怯えていましたが、
今は、「また、始まった」と慣れたものです。

バトルが、始まると、夫は、私の言動が、気に入らない、と
怒りを私に、向けてきます。
私も、つい、高飛車に夫に、意見していたので・・
不毛の争いを、15年間、やってきました・・・
心身共に、消耗し、疲れ果てました。

要は、自分のイメージ通りに、運転できないことが、気に入らないのです。
さっとと、進まない、若葉マーク、もみじマークの運転が、悪い、
あるいは、横断歩道を渡っている、自転車でさえ、夫にかかっては、
「今、ここを渡るな」発言になるのです。
もう、信じられない、世界です。

夫が、アスペだろうと、思うようになってから、
私は、子供たちのへの影響を考え、夫に、それこそ、小学生に諭すように、
どうして、その発言がいけないか、説明するのですが、
その時は、神妙な態度で、「わかった」というのですが、
一向に、態度は、改まりません。

多分、自分の思い通りに、事が運ばないのが、気に入らないのだと思います。
相手の立場や行動や気持ちを理解できないと、いうか・・・
やっぱり、そういう、脳の障害なのだろう、と思います。

最近では、子供たちが、大きくなって、受験や、地域の野球やと、
家族で、車に乗ることも、めっきり、減りましたが・・・

私は、夫に、アスペを告げるつもりは、ありません。
夫は、多少、偏った障害?を持っていますが、
基本的に、いい人です。

私が、夫を弱者として、扱い、一歩二歩引いて、夫を立てることで、
我が家は、表面上は、うまく、機能しています。

でも、私は、いつか、子供たちが、自立したら、夫とは、別れたい、
と思っています。

私も、もっと、いろいろと、お話したいのですが、今日は、このへんで・・・


パンダさん、クマできていますよ!! どうして私が怒るんですか?
怒りませんよ!幸せになってもらいたいだけです。
受け取り方ですよ!受け取り方、大切です。ダブルのインドのお話、したじゃないですか…もう一度、インドかパキスタン辺りへ行って、勉強し直してきてください。
ついでに、チョモランマにでも登って、世界観を変えて、耳かき程度の器(自称)を大きく広げてきて下さい(笑)
あー、登山靴忘れないでくださいね。

ダブルバインドは、相手の一方的な発言のせいもあるんだけど、受け取る側の一方的な受け取り方のみでも、発生してしまうんですよ。
例えば、よく、鬱の人に
「頑張ってね!」という言葉は禁句、と言いますよね。
相手の「受け取り方」じゃないでしょうか?「いつも、見守って、応援しているからね!」と殆どの人は、そんな感じで言っているんだと思います。
「あなた、全然、まだまだダメ。もっと頑張らなくちゃダメ。大してやってない、もっと頑張りなさいまし」と思って、言っている言葉ではないと思うんですよね…
「受け取り方」大切です。
カレンさんの言う、言葉の裏を知る事も大切。と同じです。
でも、人間誰でも、辛いときや悲しいときは、どうしても、知らず知らず、否定的になるんですよね(泣)私もです…そこに問題があるんじゃないかな。それは、アスペも定型も一緒なんです。
アスペがやっている事、結局、定型もやってるんです。
相手は変えれないにしても、
「自分が考え方を変えて、ある程度、受け取り方をプラス思考にする」事は元気の元になりますよ。勿論、プラスにし過ぎるのもいけないです。義父みたいになっちゃいますから…
言葉は魔法なんです。いう人、きく人、千差万別です。自由です。
パンダさんも、皆さんも、頑張っていると思います。今、辛さがピークかそうじゃないか、わかりませんが、ピークじゃなくても、相当、相当、辛いと思います。
でも、私は子供がいない人には、離婚を進めているかもしれません。でも、子供の事を考えると…私は先祖代々続いていますので…
今の時代、進歩によって、気付けるところまで発展した…という事は、
なんか、「私がここで食い止めねば(笑)」…孫の先までいってしまう(泣)みたいな責任感を感じてしまいます。
そして、子供の事は、結局、どんな形であれ、自分に跳ね返ってきます。

「定型と主張するのであれば、先の事も考えて、うまくやれるわけですから、うまくやってくださいよ!!」
と言われたら返す言葉ありますか?
私は家族から、そのように言われ、責められましたが、今は、定型も、非定型も同じだと思います。よく考えたら、私の都合のいい、傲慢によって、心をよけい閉ざさせているに過ぎませんでした。
そこに気付けば、相手は本当に変わってきますよ。目に見えて、おもしろい位に変わってきます。
アスペなどの本もとても参考になりますが、私には…古い本ですが、「バカなふりして生きてみな」とか、「マーフィーの法則」(古い)の方がピンときて、参考になったかもしれません。
それから、私は寝る前に、Mr.ビーンを見ながら寝ると、安眠出来ます。小さいお子様は、Mr.ビーン、スッゴく喜びますよ!私も大好きです。
あ、パンダさん、足デカ過ぎて、登山靴、ちゃんと足にはまってない…
ってか、登山靴、四足必要?

ただいまぁjoです。カレンさん「一緒に歩いてきた」なんて書いてくれましたが、だいぶ先を歩いてられます。ここへきてやっと見つけた♂パンダさんも、読めば読むほど、私の前を切り開いて歩いた先駆者とお見受けします。前を行く人の存在を知り、「まだ先はあるのだ、私には見えていなかっただけか」と、ほっとする思いです。

我家でも、夜の読み聞かせは、ずっと私がしています。

>>寝る時間が(いつもより)遅くなるじゃないの。」という言葉

まったく一緒です。♂2人でニコニコと絵本を読んでると、いきなり電気を消されることもあります。そう言ってた母ちゃんが夜中にゴソゴソとテレビ見たりして、私らが目を覚まされて翌朝、全員が、ボケた顔で不機嫌で起きてきて腐ったような一日が始まります。わけわからん。

ああ、もう、パンダ先輩、ちょっとだけ愚痴らせてください。お許しを。

洗濯物を畳んでも中途でほったらかしてテレビ見てる。畳んだ洗濯物を赤ん坊が崩したら怒り狂ってる。原因を作ってるのは誰じゃ!今でも朝、子供がさっさと着替えないと言ってヒステリックに怒鳴りちらしてる母ちゃんは、なんと寝巻きのまんま。子供に聞こえないように「則を示せせよ!」と耳元で言ってやっても、何のことかわかんないです。(タバコ吸ってる先生から「タバコ吸うな」といわれても男子高校生はきかないよフツウ)。

ヨチヨチ歩きの子供を散歩につれて行くと必ず子供は大泣きパニック、母親は怒りパニックの状態で帰って来てた。いったいどういうこと?こっそり後をつけて見ました。子が歩きまわると面倒だから歩かせないように抱きかかえて、というか押さえつけてという感じでベンチに座ってるんですよ。そりゃ歩きたい月齢の子供は怒るでしょう。そうかと思ったら雑誌を持って行った日には、完全にそっちに集中して歩き回る子供は危険もクソもほったらかしです。子供の毎日の散歩が私の仕事になったのは、もう必然でした。もう少し大きくなって公園に行った時も、母親は自分の雑誌なんかあるとほったらかしなのに、そうでないときは、あれこれあれこれ指示して、子供は一瞬たりとも自由に遊ばせてもらえないんです。束縛か放置か、どっちかしかないんです。一緒に楽しく遊ぶということができないみたいです。

>何か子どもの成長を考えるときに本質的に重要と思えるようなところで、スッ、スッ、とカミソリで付けられるような心の傷が重なっていきました。そしてその痛みがほとんど一度もといっていいほどに癒されることもなく、積み重なって増えていくんです。

おお、この表現、なんとしっくりくることか!?
「大人の発達障害」という概念と出合って、初めて多くの謎に説明はつきました。現実生活は変わらなかったけど。

そういえば、子供がやってくる前の生活の中で、母ちゃんがものすごく従順に見えた時期もあった。私が何から何まで指令を出して生活していた時期が。彼女は、束縛か放置が心地よいのだろうか?だから子供にもそうするのだろうか?そのように育てられたことは、母ちゃんの母親を見れば疑いないこと。されば、母ちゃんは悪くない。悪いのは「障害」なんだ。

私の場合は、母ちゃんの母親に憎悪が向いてることを自覚してるので、母ちゃんの実家へはなるべく出入りしないことにしてます。よけいな問題を避けるため自分の実家とも疎遠にしています。これが、周囲のサポートネットワークのリソースを減らすというネガティブスパイラル。そのへんの判断は、例のケースワーカー氏とも相談して決めたことです。

子供のことも、はじめは、わけわからん母子関係が目の前に展開してるのに、自分の頭の中の『母子関係の神話』に邪魔され、私が積極的に子育てに介入していくのに若干のタイムラグがありました。なにしろ初めてですから、何が正常かという知識がなかったので。かなり参って記憶と妄想の区別も危うくなっていました。♂カサンドラ。

子供のことでも、例のケースワーカー氏との相談の中でサポートを受けて、子の愛着アタッチメント形成を『最優先』させたのでした。3歳、すでに公的療育のネットにかかる発達遅滞でした。

考えてみたのですが、私は不安な時には自分の感情を感じることが出来ないようです。
何だか分からない不安感(それすらも無自覚が多い)があって、それが何によってもたらされているのかということだけが分かっている。
その状態で、どうにか安心を求める為の言動を、相手へは不満や拒否として伝えてしまっているようです。

勿論、本当に不満な時もあるのですが、その場合は自覚もありますし、理由を言って調整や対策を求めることが出来ることが多いです。

先述のただ不安な時は、大概において事柄そのものへの不満はない場合が多いです。
なので、事柄について話し合いを重ねても平行線だったりしました。
とにかく安心したいという気持ちが暴走して、パニックになっているのかもしれません。

パンダさんのパートナーさんがどのようなお気持ちだったのかは分かりませんが、一つのサンプルとして書いてみました。

改めて、パンダさんをはじめ、こちらの方々は大変な経験と思いを持って来られたのだと感じました。
守るべき子供がいる状態で、様々な決断をする必要が生じることは仕方がないと思います。
私達夫婦には、私の希望により子供はおりませんが、もしかしたら私の夫にも同じような思いを抱かせてしまうことになったのかもしれません。

>alonaさん

>初めて、パンダさんに、何者? と、問うた時、当事者なのか、医療関係者か、
わからなかったのですが、パンダさんは、思いっきり、当事者だったのですね。

 いや、私もアスペルガー問題の「当事者」だって自分ではずっと気づかなかったんです。
 なんか、馬鹿みたいですけど…… (^ ^;)ゞ
 
>一昨年、ネットで、初めて、「アスペルガー症候群」という言葉・障害を知り、
過去のすべての苦悩の点の数々が一瞬で、つながりました。

 これ、ほんとにそういうことあるんですよね。
 家の場合はパートナーがそれまでのことが一瞬でつながったみたいです。
 そこも繭さんとよく似ています。

>私が、夫を弱者として、扱い、一歩二歩引いて、夫を立てることで、
我が家は、表面上は、うまく、機能しています。

 なんか、弱者ってどういう意味なのかなって、
 改めて考えてしまいます。

>でも、私は、いつか、子供たちが、自立したら、夫とは、別れたい、
と思っています。

 やっぱり、子どもの自立、というのは大きな節目ですよね。
 家も子どもの(精神的な)独り立ち、ということが
 大きな節目になっていると思います。
 そこで改めて一対一で向き合う時期に来たのかな。


>みみさん

>パンダさん、クマできていますよ!!

 え?どこに?

>どうして私が怒るんですか?

 すいません! お許し下さい m(_ _)m

 ……という謝り方をされると定型は怒るんですよね。
 何にもわかってないのに何を謝っているんだ!という感じで。

>受け取り方ですよ!受け取り方、大切です。ダブルのインドのお話、したじゃないですか

 だ、だぶるのいんど…… だぶる、だぶる、だぶる、うーん……
 やっぱり奥が深くて難しい…… (T T)

>ダブルバインドは、相手の一方的な発言のせいもあるんだけど、受け取る側の一方的な受け取り方のみでも、発生してしまうんですよ。

 あ、たしかノーベル賞の話とかされてた、あれですよね?
 
>カレンさんの言う、言葉の裏を知る事も大切。と同じです。

 ここが凡パンダには難しくて……
 すごい裏の裏の裏まで読んでみたんだけどわからない。
 本人もわからないと言うし、このあたり、繭さんのコメントが
 なんか参考になる感じがするんです。

>よく考えたら、私の都合のいい、傲慢によって、心をよけい閉ざさせているに過ぎませんでした。そこに気付けば、相手は本当に変わってきますよ。目に見えて、おもしろい位に変わってきます。

 ここも凡パンダには難しくて……
 パートナーが受け入れられずに苦しんできた人だからこうなっているのか
 と思って、私なりになんとか「受容」を心がけたりもしたんですけれど、
 それがまたなんだかずれてしまうんです。
 やり方悪かったんでしょうか?ほんとに難しいです。


>joさん

>ここへきてやっと見つけた♂パンダさんも、読めば読むほど、私の前を切り開いて歩いた先駆者とお見受けします。前を行く人の存在を知り、「まだ先はあるのだ、私には見えていなかっただけか」と、ほっとする思いです。

 いえいえ、joさんのお話しを拝見すれば、とてもじゃないけど、自分が先駆者なんて大層なものではないことはよくわかります。

>まったく一緒です。♂2人でニコニコと絵本を読んでると、

 いきなり電気を消されるというような経験は私の場合はないですが、ただ、たとえばああいう言葉が出てくる、ということが同じ場面で共通する、というのは改めて驚きです。それからこちらが傷つくときの感覚もやはり共通するんだなと、これももしかするとそうかとは思っていましたが、実際にそうだと言われると、やっぱり改めて驚くんですね。

>ああ、もう、パンダ先輩、ちょっとだけ愚痴らせてください。お許しを。

 joさんがどういうしんどさの中でぎりぎりがんばっていらっしゃるのか、その一端がわかります。

 正直な感想を言うと、私よりjoさんの家族の状況の方が、もうひとつ困難な問題を抱えているような気がします。それがどういうものなのか、そこはまだうまく言葉にならないのですが、奥さんとの関係の厳しさが何か違う感じがするんです。性格の違いなのかも知れません。私のパートナーの場合は、やっぱり子どもの頃からすごくいじめられたり虐げられたりということが続いていて、構えが常に「攻撃される」という側の、受け身の感じになるんですね。

 いや、言い方は定型から見るとすごく攻撃的に聞こえたりするんですが、仮にそれでこちらが少しでも「反撃」すると、もう大混乱されてしまうんです。攻撃の気持ちは全くないのに、ということで。で、今度はこちらが訳がわからなくなって大混乱してしまう、という感じが多かったですし、それにこちらに攻撃の気持ちが全然ないのに、話し合いたくて何か意見を言うと「攻撃される」という受け身の態勢になられるのもとても辛かったですね。自分が加害者になってしまったような感じがして。そういうところの噛み合わなさはほんとに辛いものでした(今は相当変わっていますが)。
 
 その感じと比較してなんですが、joさんの奥さんの場合、ある意味もっと「攻撃的」に来られる印象があるんです。その違いがなんなのか、生育歴の違いもあるでしょうし、お互いの性格の違いもあるでしょうし、よくわからないんですが、そのあたりが違うと、コミュニケーションの取り方の工夫にも何か違いが出てくるのではないかと、漠然とですが、そんなことを感じたりしています。


>繭さん

 次にアップする記事に、繭さんからのコメントを手がかりに、いろいろ考えさせていただきました。今日いただいたこのコメントについても、なにかとても私のパートナーにつながるところを感じて、また読んでもらったんですけれど、やっぱり同じような感覚を持つそうです。

 私はそれを聞いて、「ああ、本当にそういう事ってあるんだな」と、驚きを持ちながらなんかちょっと納得というのか、そういう感じになるんです。というのは、私のパートナーから似たような話を聞いても、ほんとにぴんと来ないんですね。自分の(定型の?)感覚からすると。別にパートナーを疑うとか信じないとか、そういうこととはまた違うと思うんですけど、なにか訳がわからない感じが残るんです。

 でも違う方の口からとてもよく似たような話をお聞きすることが出来ると、自分にはよくわからないなりに、「ああ、そういうことは本当に生じるんだ」ということについて、何か納得するところが出てくるみたいです。そうなる理屈とかはとりあえずは全くわからないんですけれど。

 そういうところでもとても感謝しています。

>守るべき子供がいる状態で、様々な決断をする必要が生じることは仕方がないと思います。私達夫婦には、私の希望により子供はおりませんが、もしかしたら私の夫にも同じような思いを抱かせてしまうことになったのかもしれません。

 なにか、やっぱり自分は定型の視点でしか書けないものですから、どうしても自分の方を一面的に正当化する見方になってしまいます。その部分を繭さんなどの別の視点から、補っていただくことが出来ればということを願っています。またどうぞよろしくお願いします。

>.....すごく攻撃的に聞こえたりするんですが、仮にそれでこちらが少しでも「反撃」すると、もう大混乱......こちらが訳がわからなくなって大混乱.....攻撃の気持ちが全然ないのに、話し合いたくて何か意見を言うと「攻撃される」という受け身の態勢になられる....自分が加害者になってしまったような感じ.....そういうところの噛み合わなさ

そっくりそのままです。

>(今は相当変わっていますが)。

これが希望の灯台の光に見えます。蜃気楼なのかもしれませんが。。。いままで何百回と見てきた。

パンダさんと何か違うとしたら、子が小さいし育てにくさもあり、お互いの限界点を容易に越えてしまうことかなぁ。パンダさんちの話だと、パートナーさんは基本受身型で限界点を越えたら攻撃的という感じがするんですが、うちの母ちゃんの場合は、受身型と積極奇異型を行き来する感じがあります。それで予測を許さない感じが強く出るのかなぁ。不意打ちパンチはききますよねえ。

習慣になった家事は律儀すぎるぐらいやってくれます。常同行動か善意か判然としませんが(定型的には)善意ととってしまいます。でも、その些事のために別のもっと大事で破綻を引き起こすことがよくあります。優先順位が絶対にかみ合わないですね。「今日は○○なので無理だろうから、俺がやっておくよ」と(善意で)言うと、仕事をとられる、と思うのか攻撃的になられたりする。この人は臨機応変できないって頭でわかってからも、私でもできることは私がやるから、キミしかできないことはキミがやってね、というような場面で、それがうまく伝わらないと、、、進むも地獄、戻るも地獄、の葛藤。その地獄の(定型的)見通しを優れて持ってるほどに、その苦痛は倍加しますから。自分の善意も試みも努力も何の効果も持たないという経験を積み重ねます。感度を下げてアパシーに沈む以外に適応方法が見つからなくなってしまうんでしょうね。

子どもへの読み聞かせについて、記憶をたどりながら自分の経験やその時の状態など書いてみます。

パンダさんがなさったように、私も上の子(娘)にずっと読み聞かせと「創作物語」をやっていました。「創作物語」の主人公は娘の名前をアレンジした「○吉」でした。パンダさん同様途中で物語が破たんしまくって、苦し紛れに「この続きはまた明日・・・」で「強制終了」することもしばしばでした。

ただパンダさんや他の方と、根本的に違うのは、「そうすることが好きで楽しい」からでもなく「子どもの喜ぶ顔が見られて幸せ」だからでもなかったことです。もちろん結果的に子どもが喜ぶので、「あぁ、こんなに喜ぶんだ」とか「やってよかったなぁ」とか「結構俺って役に立ってるじゃん」などと感じはするんですが。なんというのでしょうか「自然に」「愛情の発露」としてそうしているという感覚がないんですね。
もちろん、「いやいややっている」のではありません。他のことと同様、いやだったらやりませんから。この感覚がたぶん定型の人と違うんだろうなと思います。

joさん

 自分がようやく言葉にして整理してみた「ズレ」について、ここで書くと、すぐにjoさんの同意が得られる。joさんとはここでわずかなやりとりをしているだけで、もちろん直接お会いしたこともないし、パートナーの方にお会いしたこともないわけですし、もちろんお互いのパートナーは全然別の人であるわけですよね。そういう私のパートナー個人とのやりとりについて、言ってみたら全く「私だけの体験」として書いている訳なのですが、それが有る範囲ではまるで同じ人を見て語り合っているようにすっと共有される。繰り返しになりますけど、ほんとに驚きです。

>「今日は○○なので無理だろうから、俺がやっておくよ」と(善意で)言うと、仕事をとられる、と思うのか攻撃的になられたりする。

ここも同じです。攻撃的、とまでは行かないにしても、こちらは善意で言っていることについて、不機嫌な表情(に見える)で断られるんです。何でかと尋ねると、一応理由を言っては呉れるのですが、それが本当の理由とは状況から言って私には感じられない。そうするとこちらの方の解釈も「自分の仕事をとられる」という感覚なのだろうか?というふうに感じるようになっていくわけです。つまりパートナーの応答の仕方も、それに対するjoさんや私の理解の仕方もなんだかほとんど同じようなパターンになっている。なんだか定型(夫)とアスペ(妻)という組み合わせのコミュニケーションから作られていく、ものすごく安定した何かの法則性があるみたいですね。

>自分の善意も試みも努力も何の効果も持たないという経験を積み重ねます。感度を下げてアパシーに沈む以外に適応方法が見つからなくなってしまうんでしょうね。

 無力感もそうですし、自分自身の人間としての価値にも疑問が生じてきてしまいます。そこは結局私の場合は職場などの別の関係で補わざるを得なかったわけですが。

「カレンの夫」さん

 一緒に問題を考えてくださって、私としては本当に嬉しくて、感激しています。定型語で表現すれば、「問題を共有できた」という表現になるでしょう。

 もちろん、理屈から言うと、そこで「カレンの夫」さんが考えられている「問題」と私が想定している「問題」が全く同一であるかどうかについてはわかりません。だから「全く同一でもないものについて共有といえるのか」という疑問をもしかすれば持たれるのかも知れません。

 この点については私はこういう理解をしています。「問題を共有する」ということは、何か固定した全く同一の「問題」を一緒に持っていることではなく、「ある課題について、お互いの意見を交換し、議論できる、そういう議論の土俵が成り立つこと」なのだ、という理解です。このことについては、ブログの方でまた改めてもう少し詳しく考えてみたいと思います。

 読み聞かせの動機についてのお話しは、何かほんとに紙一重の違い、という感じもしますし、しかしその紙一重がかなり大きいのかも知れないとも思いますし、もう少し考えてみます。

>自分がようやく言葉にして整理してみた「ズレ」について、ここで書くと、すぐにjoさんの同意が得られる。

他でも共感する部分が絶大ですが、この日付は、何度も読んでます。

「これは私? 私が書いてるのか? ○年後の私? いやそんなバカな? いやでも‥‥」本当なんです。薄気味悪いほどに。

子供って歩道の縁石を平均台して歩くのが好きな時期あるでしょう。私は、それが「発達」と直感するから促しました。時に私が笑顔でやって見せて。3人の時にそれを母ちゃんに指さされ「あんな大人になっちゃダメよ」と言われたことは、今でもまざまざと思い出せる、フラッシュ記憶で焼きついたトラウマになってます。

オッサンが一人とか数人でそんなことやってたら、それは社会的にオカシイにきまってますが。子供とオッサンと平均台の文脈が彼女の中では、そのときの私には想像だにできないつながり方をしていたのだと、今は考えています。考えて考えて考えぬいて、発達障害の勉強をして勉強して、それから考えて考えて考えてやっと到達した「そのときの彼女の思考」の解釈を私は今持っています。

そんな、やっとの思いでどうにかこうにか整合した解釈にたどり着いたところで、(これって、みなさんが言う翻訳ですか?) そのときの子供への(身体的バランス感覚の発達阻害だけではなく、父母の関わり方を見た)影響はどうしようもなく刻まれていったし、私のトラウマがわずかでも軽減したものでもなかった。

母ちゃんが3歳児に向かって憲法の条文を引いて『正論』で説教しているのを見たとき私は発狂しそうになった。

>見た人は一瞬あれ?っとは思っても、まあ例外的なこと

と思うでしょうね。なんて言ったらいいのか、「特殊な」TPO感覚を発達させているんです。量的なfazzyさをそぎ落としたら説明がつかないこともないみたいな。自我の境界線が曖昧であると同時にものすごく硬いものであるという感じがあります。一般化なしに一足とびに具体事例に直結して詭弁が成立でき得るような、「絵本を読むと寝るのが遅くなる」みたいに。言葉にできないもどかしさです。パンダさんだけがわかってくれるような気がしてます。

それから、一般には「心の理論」がよく問題されますが、発達障害は「物の理論」に影響していると私は感じます。抽象概念がオカシイことは、時間や空間、お金の使い方に観察されます。遅刻するし片付けられないし。でも特に子供にはこの点では厳しいです。自分のことは棚にあげて「早く○○なさい」と怒る。できないから注意され続け、劣等感を積み重ねてきた結果だと思います。たぶん「子にそんな思いをさせたくない」というでしょうね。でも自分を棚上げでは、そんな思いをさせるだけ。これは2次障害と考えるべきでしょうか。

もっと悲しいのは、小学校の理科で習ったようなことが、知識では頭に入っているのに、実生活の場で生きないです。沸点や氷点は知っているのに、それを知っているとは思えないような行動をとり、怪我をしたりさせたりしている。具体例は控えますが。そのようなことも私との共通感覚を持てなくしていると感じます。さすがのカレンさんも物理概念から摺り合わせをする必要を感じていないのではないかと思いますけど、どうかな?無茶苦茶な運転をする配偶者なんてのは、この種の苦しみかもしれません。

>一瞬、「あれっ!?」と思

うような行動で、事故で死んでも「障害」のことなんか葬り去られてしまうでしょうね。命がけです。ちなみにうちの母ちゃんは慎重な運転をします。信号を全く見ないで交差点に入ることがあるほかは。「え、信号、そんなものどこにあったの?」悪意はないです。

>一旦離婚‥‥再婚

というようなこともバラバラに分解しかけた自分を整理していく中で私も考え、あちらの掲示板の方で書いた覚えあります。すでに消えてしまってると思いますが。あれ、スレ200件制限、もったいないですね。

ニューヨークかヨハネスブルグかそれが問題だ。

joさん

>発達障害は「物の理論」に影響していると私は感じます。抽象概念がオカシイことは、時間や空間、お金の使い方に観察されます。遅刻するし片付けられないし。

なるほど・・・「抽象概念」とまとめて言われると、いろいろ納得です。ここに書かれていること全部、夫と私の間にも相当なズレがあり、それはそれは、もういろんな場面で激しくぶつかっていました。

>怪我をしたりさせたりしている。具体例は控えますが。そのようなことも私との共通感覚を持てなくしていると感じます。さすがのカレンさんも物理概念から摺り合わせをする必要を感じていないのではないかと思いますけど、どうかな?無茶苦茶な運転をする配偶者なんてのは、この種の苦しみかもしれません。

夫に悪意は全くなかった、むしろ、一生懸命だった、と今はわかるのですが、子どもたちは、たくさん痛い思いをさせられ、特に上の子は、ものすごく怪我をさせられています。そのたびに、子どもの泣き声・私の悲鳴と怒声・夫の怒声が飛び交いましたよ。一番記憶に新しいところでは、(子どもは泣いてはいませんでしたが)2年半前ですね。

2年前ASのことを夫が自覚したのと、今では子どもたちが大学生と高校生になっていることで、今では、子どもたちの身の安全についてハラハラすることはなくなりました。

抽象概念については今も摺り合わせの最中・双方の妥協点の模索中(と、私は思っています)、そして、物理概念の摺り合わせは全くできないうちに(間に合わないまま?)今に至り、今はなんとかなっている、という感じでしょうか。

ちまみに、上の子は今でも「急に、ふっと落とされるような恐怖を感じる」そうです。「まあ、お父さんに、実際しょちゅう落とされてたからね」と言うと、「そうか」と苦笑まじりに納得してましたが・・・。

それから、もうひとつちなみに、

夫は、今では、よその赤ちゃんや小さいな子どもの扱いがかなりうまくなっていて、このところ、「小さい子どもたちに懐かれる夫の姿に超ビックリ」ということが何度も続いています。

夫に言わせると、「うちの子どもたちのことを通して扱いを学んだ」そうです。私はそれを聞いて、夫に「うちの子どもたちのときにも、今のようにして欲しかったなぁ」と(^^;)

子どもが小さいのか、ある程度大きくなっているのか、思春期なのか、そこを過ぎているのか、また、子どもに障害があるのかないのかetc. etc.・・・によっても、「ASの配偶者との関係」も、それぞれに違いがあるのでしょうね。 それから、「当時者たちの年齢による考え方の違い」も。

簡単に言えることではありませんが、joさんのお子さんが大きくなれるのにつれて、状況もまた変わって行くのでは・・・と、思ったりもしています。無責任に言えることではないと重々知りながら、でも、希望を持つことは悪いことではないと、思いながら書いています。


joさん

 すみません、

   「ニューヨークかヨハネスブルグかそれが問題だ。」

 って、なんか深そうな言葉なのにわかんなくて、教えてください

                                    m(_ _)m

Wikipedia より抜粋

まずはヨハネスブルグです:

19世紀末から20世紀初頭にかけてのボーア戦争で、イギリスが現地のオランダ系移民ボーア人に勝利して金鉱をおさえた。その後、イギリス人とボーア人は和解、黒人の権利を踏みにじり鉱山労働などで酷使するアパルトヘイト政策を行った。

アパルトヘイト統治時代、市内はアフリカーナー(ボーア人)とイギリス系が住む白人居住区と、アフリカ系やカラードなど有色人種が住む黒人居住区に分断され、黒人の白人居住区への立ち入りを厳しく制限した。白人居住区にはさまざまな優遇政策が実施されていた。

1990年代、アパルトヘイトが廃止されたことで居住区の移動制限が撤廃されたため、職を求めてアフリカーナー居住区に多くのアフリカ系とカラードが移住したもののほとんど職を得ることができなかったため、一部の失業者による犯罪が多発し、市内の治安が極端に悪化している。

次にニューヨーク:

人口の多様性も著しい。歴史を通じて、ニューヨークは移民が流入してくる玄関口であった。「人種のるつぼ (melting pot)」という言葉は、最初、ロウアー・イースト・サイドの人口密度の高い移民地区を指す新語として作られた。現在、市人口の36.7%が外国生まれであり、3.9%はプエルトリコ、米国の諸島生まれ、又はアメリカ人の親を持って外国で生まれた者である[139]。これより外国人人口の比率が高いのは、ロサンゼルスとマイアミだけである[138]。両都市の場合は、いくつかの国籍によってほとんどが占められているが、ニューヨークの場合は、支配的な国籍や出身地は特にない。現代の移民の出身地で多いのは、ドミニカ共和国、中国、ジャマイカ、ガイアナ、メキシコ、エクアドル、ハイチ、トリニダード・トバゴ、コロンビア、ロシアである[140]。市内ではおよそ170の言語が話されている[11]。

以上、抜粋

さて、やっぱ、分かれて暮らしてた方がよかったんかなあ、という都市と、
理想像が「るつぼ」であり、実はモザイク様でも、なんか繁栄してるように見える都市、という感じですかね。わかりにくい比喩ですよね。

私、舌足らず、、、、ですよね、いつも。自覚はあるのですが。

私事ですが、最近、「錯視画像」にハマッています。自己の認識のいかに頼りないことかが実感できます。お試しあれ。

joさん

 そういう意味だったんですね!ありがとうございました。
 ニューヨークなんか、「るつぼ」が生産的でもあるけど、
 同時に「殺し合い」もどんどん生産されてる感じで、むつかしいですね。
 
 分かれる部分を持ちつつ交わる、というのできると良いんだけど。

 あと、錯視、私も大好きです。
 こんなのご存じ?ちょっと感動もの。

 http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/

はいはい、立命館の北岡先生ね。私もあるところで、あの蛇の丸模様を見て以来、なんですよね、錯視にはまったのは。

錯覚は、このブログのテーマにすごく大きなヒントがあると思います。フツウの人間の知覚、感覚、(感情も?)は、色々な自動補完機能が働いていて、例えば、光というのは上方から当たるものだ、とか、そういう大抵の場合あてはまるようなことを前提にしてモノが見えたり認識できたりするしかけがある。だから、フツウの人に見えているものは真実じゃない場合もある。あの蛇がにょろにょろ動いて見えるのだって絵は動いているはずがない。それがはっきりとわかった後でも、絵を見るとやはりにょろにょろ動いて見える。生まれた時からの経験の積み重ねか、もしかしたら遺伝子の記憶で、これはもうどうしたってそうとしか知覚できないように私たちは作られている。他の人に訊いたって大抵は、やはりにょろにょろ動いてるって言うでしょう。定型反応ですよ。大勢の人がにょろにょろ動くと言っても、この場合は「動いていない」はずなんです。

でも、にょろにょろ動いて見えない人もいるのかもしれない。何か感覚の自動補正機能や補完機能が働かない人。発達途上での経験が私とは異なるためか、ものすごく辛い目に会いつづけて感覚のどこかが麻痺してしまって、補正補完機能がうまく働かなくなった人。加齢でその機能が低下してしまった人。たぶんマイノリティでしょうけど、そういう人らだけが、より真実に近い認識をしてる可能性はあるでしょう。

都合のよい補完をやって整合する認識をするためには、ゲシュタルトを視られる楽観主義知覚みたいなものが必要ですよね。ウツというのはそういう機能が落ちている状態だそうです。やたら悲観的に思えるんだけど、健康な人よりもウツの人の方が「現実」に近い認識をするそうです。

だから私は自分が感じる定型的な反応が絶対正しいとは意識して思わないようにするんです。自分を危機に晒す、すごく危うい努力なんですけど。そうしないと見えないものもあるし、未発達な子供に「そうだね、君にはそう見えるんだね」という共感を与えられないことも多いでしょう。だから無理してます、そういう意味じゃ。頑張ってやってるもんだから、自分で気がつかないうちに疲れちゃって、それが貯まってウツに…という部分も多いんではないでしょうか。

自分が疲れてウツになると、これがまたそういう見え方、無理して「そうだね、そう見えるね」と言ってた見え方がするようになってきたりします。

配偶者を観察してると、上位概念を用いて一般化するということに困難があるようです。例えば、パンツとシャツと靴下を引き出しで分類しておいても、整理した拍子に引き出しの位置を変えるでしょう。そしたらこれはパンツだから他のパンツたちが移動した先の引き出しに入れる、というようなことで「間違える」んですよ。彼女にしたら、このパンツはこの引き出しに入っていた、ということが正解のようで、パンツ類が移動した後でもシャツの引き出しにパンツをポロポロっと入れてあったりするんです。よく見るとその引き出しは「シャツの引き出し」ではなく「以前このパンツが入っていた場所」だったりする。そこでシャツとパンツが入り交じった状態に不条理を感じないらしいんです。それはもう不思議としかいいようがないけど、一々のパンツ個物の引越しを宣言しなければいけないようなのです。一々宣言すると「わかった」と言うのに、やっぱりシャツの引き出しにパンツが入ってることはよくある。「このパンツはここ」というのが、(マイノリティ思考でしょうが)ある見方を通せば正しい。これが自閉症的状態像だと気づくのに数年を要しました。物事が恒常的に営まれている限りボロが出ないものですから。

そしてウツになってみると、そういう「間違い」というか「かつて自分が間違いだ」と信じて疑わなかった言動を自分でもやらかしてしまうことが増えてきました。もしかしたら、ウツになったから気づくようになったから増えたように思うだけかもしれない。健康だったら「正常な」楽観主義で「私がそんな間違いするわけない」と思い通すことができていただけかもしれない。そのことに対する「防衛」だってもしかしたら気がつかないだけでしている、いやずっと気づかないでしていたかもしれない、という気になりますね。それで足元がグラグラになってしまうのでしょう。

「どこで何をしていても私は私」というカレンさんの言葉、すごく勇気づけられました。私にはその感覚がないから、関係性や職業の中にアイデンティティを求めてしまっていたのでしょう。パンダさんのブログに来て、ほんの少し光が見えそうになっている感じがしてます。「自分の中の自分の居場所」みつかるといいですね。

joさん

 あしたのジョーの実写版映画、ぼちぼち上映が始まっているんでしょうか。
 みたいとは思わないんですけど。だいたいああいうのがっかりするのが多いと思うんで。
 原作を越えるのは難しいですよね。

 いや、それはどうでもいいんですが (^ ^;)ゞ
 joさんのコメントを拝見していて、「無限の相対化の苦しみ」みたいなことを思いました。
 なんか、そういう苦しみって、具体的テーマは違っても
 今、多くの人が共有しているような気もします。

 私の場合、joさんが書いてくださったように、職場などのつながりを確保することで
 定型としての自分の足場は相対化されなかったわけですが、
 それに加えて、子どもが定型であると言うことが大きいのかなと思いました。

 joさんの場合、職をあきらめられた理由もお子さんのことがあったわけだし、
 さらに言えばお子さんを理解するにはそこでも自分を相対化する必要があったりして、
 その意味ではご家庭の中でマイノリティーなわけですよね。
 それが「無限の相対化の苦しみ」につながる大きな背景要因なのかなと、
 今回ふと思いました。

 私も相対化は絶対大事だとは思うんですが、
 ただ、飯食って排泄して生きている一人の人間として、
 結局自分は自分を越えることはできないんだし、
 自分として生きるしか他に道はない訳なんだし、
 完全な相対化なんてどうやったって不可能なんだ、
 というある種のあきらめ、あるいは居直りが自分にはありそうです。
 だから、そういう限界を抱えた自分に、異質な存在としての他者が意味がある
 そんなことを考えています。

 そういう自分の居直りみたいなものには、
 やっぱり社会的には私はパートナーより「強者」の立場にある、
 ということがひとつには効いているのかも知れないです。

 そう考えると、その面ではたしかにjoさんはカレンさんとの共通性が
 より高いのかもしれないですね。

 なんか、この辺、かなり大事な問題がありそう。

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