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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月 4日 (火)

悪意のないということの難しさ

アスペルガーの人の言動が、定型の人間にとっては驚きであったり、傷つくものであったりする場合がよくある、ということはもう沢山言われ続けていることだし、その結果、アスペの人が定型の人間から集団的に攻撃されたり、排除されたりしてしんどくなることもよくあるわけですよね。

もちろんそういう状態が良いとは私は思わないので、なんとかお互いの違いを前提に、折り合いを付けていく道は無いものだろうかと考えるわけですが、そのためにはなんで相手がそういう言動をするのか、お互いに何に傷つくのか、ということを少しでも理解する必要があります。

私もそうやっていろいろ話し合いをしたり、努力をして少しずつ理解が進んでくるところもあるわけですが、そうすると、これもASの当事者の人がブログなどにときどき書かれているように、「ほんとうに」悪気があってそうしているわけではない、ということが見えてくるんですね。だんだんと、ですけれども。

もちろん場合によってはそれまでのつみ重ねの中で、本当に「悪気」があって相手を攻撃するような場合もあるのかもしれません。でもどちらかというと、それは「攻撃は最大の防御」という形でそうなってしまっている可能性もありそうに感じます。

そうやってある種の理解、それは心からの理解とはやはり言えなくて、頭でああでもないこうでもないと考えての理解に留まるのですけれど、そういうものが進んできて「悪気がない」ということを「頭で理解」できてきたとして、それはたしかにひとつの進歩とはいえると思います。そのことで確かに関係が多少なりとも良い方向に変わってくるのですから。

けれども、「頭で理解」ということは、やっぱり「気持ちの上で納得」との間に随分距離があるんですね。「悪意はない」とわかっていても、でもやっぱり「気持ち」は傷ついてしまう。これはどうしようもない事実です。ただ「悪意はない」と「理解」できるようになるだけ、ダイレクトにそれに対して傷ついていた状態よりは、少し守りが出来たり、余裕が出来たりするということにまだ留まってしまう。

そして、難しいのは、「悪意がある」と思っている内は、ある意味でストレートに「怒りをぶつける」という可能性もあります。「正しいのは自分だ。相手が悪い」と確信することで自分を守ることもある程度出来る。でも「悪意がない」と理解出来はじめた時点で、そういう形で自分を守ったり、ストレスを発散したりすることは出来なくなってしまうわけです。それは別の形での苦しみになります。

異文化間の摩擦、カルチャーショックについても、ある意味で同じような経過をよくたどります。最初は自分の常識とあまりに違う相手の言動に衝撃を受け、特に自分が相手の社会に入り込んでいるような場合には、自分の方が少数派ですから、いろんな意味で脅威にもなる。相手は下手をすると悪意の固まりの悪魔の集団にさえ見えてくるかも知れません。でも、付き合いが深まるにつれて、そういう理解では収まらない相手の善意が見えてきたりする。そしてそれまでは「これは悪意があるのではないか」と思っていたことでさえ、実はこちらの誤解であることがわかってきたりする。ただし最初はあくまで「頭でわかる」レベルであって、実際の場面ではやはりそういうことをされると傷ついたりするわけですが。

ところがさらに付き合いが続くにしたがって、だんだんと「頭の理解」に留まらず、感情的にもなんとなく相手のやり方「も」納得できるようになったりすると言う変化が起こります。で、その文化の人たちとつきあうときは相手のやり方に入ってそれなりに楽しく、楽に暮らせるようになったりもするし、逆に元々の自分の文化の方が却っておかしいものに見えたりすることも出てくる。

私が今一番気になることは、アスペと定型という、ある意味でものすごく異なる文化を持った人間同士の間でも、いつかそういう「頭の理解」を超えた納得が生まれるのかどうか、ということです。精神科医なんかは「アスペルガー」という話を聞いた段階で、「もうそれは不可能」という断定を下す人もいます。実際そうなのかもしれません。でもまだ自分では本当にそうなのか、判断しがたいんですね。

ということで、どう理解したら少しでも納得できるような関係に変わっていくかという模索が続くわけですが、その状態がまた「悪意のなさ」を知っているだけに辛い部分が出てくる。

まあ、人間関係とはなんとむつかしいことでしょうね。

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コメント

ここで、パンダさんが書いた事、結構大切な事ですよね?!

ほんとに、相手に悪意がないと気付いてからが…大変なんですよね、こちらは。

ほぼ、自分との戦いになってしまいますもんね。

でも、パンダさんはもう、なんとなくわかってきたでしょう?

自閉の方は、本当は、とっても素直で繊細で、みんなと一緒にいたい!仲良くしたい!と思っているのです。
(勿論、気づいた時には、既にそういう感情を消されてしまって、持っていないかたもいます。)
ただ、そう思っても、それは凄く疲れてしまう事。どちらが悪い、とかではなく、単なる言葉のズレから問題が起きてしまいます。「何もしていない、お話しているだけで…」問題がおきてしまう…

ダブルバインドの呪文から、説いてあげてください。 どうしてもらいたいのか、聞いてあげてください。

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