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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月31日 (月)

共感ではなく否定が持つ対話の力

 このブログのコメント欄を通して、もうRosamondeさん、カレンの夫さん、繭さんという3人のアスペルガーサイド(?)の方が、繰り返し発言をしてくださるようになりました。お3人共に共通して指摘してくださる問題もあり、でもお3人ともにすごく個性的で、文章から感じられるお人柄もそれぞれほんとに違う。こういう状態をパンダ語(定型語かどうかは私にはわかりませんが)で「豊かな対話の空間(場)が生まれはじめている」と表現します。それは私にはとても嬉しいことです。

 いただいているみなさん(上のお3人だけではなく)のコメントの一つ一つに、なかなか個人的にはお返事が出来ないこともありますし、またむしろ私が割り込まないで、みなさん同士で話が展開することが良いような気がして、書き込みを控えさせていただく場合もあると思います。さらには個人的にお返事するより、ブログの記事でもっと沢山の方と一緒に考えてみたいと思って控えるときもあります。そのあたり、失礼なこともあるかと思いますが、どうぞご了解下さい。

 なお、今日のタイトルにまた「対話」という言葉を使いました。これについてはRosamondeさんが対話なんて自閉さんには難易度ウルトラEだ、とコメントを下さいました。Rosamondeさんは対話という言葉を、もしかすると状況に柔軟に合わせて、「あうんの呼吸」を使い合うことだ、という意味で使われているのかも知れません。もしそうなら対話が自閉さんに困難というのはわかります。しかし、私が対話という言葉で意味しているのは、例えばRosamondeさんが、「あなたの言うことは無理ですよ」と教えてくださり、それに私がまた「それはこういう意味です」と説明し直すような、そういう「お互いの無理解を理解し直す」というプロセスのことで、「あうんの呼吸」ではないコミュニケーションのことです。つまり、私の理解では、Rosamonde,さんのそういうコメント自体がもうそれで対話の一部になっていると思っています。

 さて、今日書いてみたいなと思ったことは、昨日に引き続きアスペと定型のコミュニケーションの大事な道具としての言葉の力についてです。ブログを始めて間もない頃に、アスペルガーの随随さんからいただいたコメントに、「大切なのは、言葉にとらわれないこと。そして、身体的なもの、物理的なものに主(注:パンダのこと)自身が注目することだ。」という言葉がありました。

 たしかにそうなんです。定型とアスペとのコミュニケーションでは、同じ言葉が同じ意味を表さないことがよくありますから、言葉に囚われてしまうと、お互いに相手の意図を掴み損なって大変な摩擦を生じさせることがよくある。さらに私の経験から言うと、それは音や文字で交わす言葉に限らず、表情などの身体を使った「身体のことば」とでも言うようなものについても、やっぱりなかなか意味が共有されない事が多い。だから、言葉にとらわれないこと、と随随さんが言われたことはその意味でよくわかる。

 と同時に、ここでもうひとつの言葉の力に注目してみたいわけです。それは随随さんが「大切なのは、言葉にとらわれないこと」と定型の人間に注意をしてくださった、その注意もまた「言葉」によって行われているということです。

 日常生活の中で私たちがことばを使うとき、たとえば「その机の上のみかんひとつとってくれない?」と相手に話すとき、私たちはほとんど何も考えずにそのことばを言うでしょう。つまり、そのことばが相手に伝わる、ということをまるで前提にしてしまっています。だからその人がみかんではなく、たとえば台ふきを投げてよこしたりすれば、「なんだこいつは!」と喧嘩になりかねません。

 アスペルガーの方は、しばしば定型の側が「共感」とか「共有」とかを強調することに違和感を示され、「私の考えていることと相手が考えていることが一緒であるかどうかはわからないのになぜそういうことを前提に出来るのか」という疑問を語られます。私の感覚で言ってもとくに日本の社会は「同じ」ということをとても重視する傾向が強く、人にも同じであることを強く求める社会である、と感じられますので、定型の私でもそう感じてしまう出来事に出会うことはしばしばあります。

 とはいえ、上の例のように「みかんとってくれない?」というようなレベルの言葉の場合、たとえアスペルガーの方であっても、「みかん」とか「とる」という言葉の理解が相手と共有されていないということは想定していないのではないでしょうか。

 コメントでカレンの夫さん繭さんが共通して指摘されている「思いやり」という言葉への違和感について、繭さんは控えめに「戸惑う」という表現にとどめられていますが、カレンの夫さんの場合はさらに「白けた気分になったり、強い怒りを覚えたり、徹底的に戦って論破してやろうと決意し実行したりするわけです。」と、そこから戦闘モードに突入されるようです。

 で、なぜ「戸惑う」とか「強い怒りを覚える」ということが生じるのか、と考えてみると、その前提にあるのはやっぱり「自分が想定していたことと違うことを相手が言う(あるいはする)」という事態がそこにあるからではないでしょうか?もしそうだとすれば、そのときには無意識にだろうと思うのですが、「私と相手は同じ理解を共有していると思ってやりとりした」ということがあったのではないでしょうか。だからこそ「相手がそれから外れたことをやり返してきた」という事態に出会って「戸惑」ったり、「怒りを覚え」たりしたということはないでしょうか?

 もしこの私の理解が的外れでなければ、ですが、そうすると問題は「定型は共感とか共有とか、同じであることを押しつけてくる」と言う風にアスペの側の方が感じるのは、アスペの方には共感や共有がないからではなくて、共感や共有の仕方が違う部分があるからだ、ということにならないでしょうか。

 ただし、アスペの方は少数派ですから、通常同じような感じ方をする味方のいない、孤立した状態に置かれやすくなります。そうすると多数派の定型という「集団」に対して、アスペの人は大体は「個人」で対抗しなければならなくなり、そこでは「共感し共有している定型集団」対「孤立したアスペ個人」という構図が生まれてしまう。

 それで、実際には定型は定型なりの、アスペはアスペなりの共有や共感の仕方があるにもかかわらず、「共感や共有を重視し、ひとりひとりの違いを無視する定型」と「共感や共有という幻想を抱かずに、個人として考えるアスペ」というような理解の仕方になっていっている可能性はないでしょうか。私は今はそういう理解をしてみています。

 さて、ここで随随さんのコメントを例に最初に書かせていただいたことに戻ります。随随さんは「言葉にとらわれるな」と書いてくださいました。そのことの実際の意味は「定型の持っている言葉の理解の仕方にとらわれるな」ということではないでしょうか?一見同じに見える言葉や表情、身振りなどが、実際に何を伝えるものかが定型とアスペでずれている場合がよくある。だから定型は定型の言葉の使い方で判断するな、ということを、随随さんの言葉は意味しているのではないかと私は理解します。

 私は「言葉が通じない」ように思える状態を、「その言葉が何を意味しているのかの無意識の理解がお互いにずれている状態」だと理解してみています。そしてそれを調整する試みがアスペ語と定型語の「翻訳」なのです。そしてここで大事になると思えるのは、そのような言葉によるコミュニケーションの調整を可能にするのもまた言葉だ、ということです。

 その調整の力を一番良く現している言葉、それは「共有」の言葉や「共感」の言葉ではなく、実は「そうじゃない」という否定の言葉ではないでしょうか。どうしても共有できない、共感できない世界をお互いに持っているのに、それに気がつかない状態、そこから生まれる様々な激しい葛藤がある。そこで「そうじゃない」という一言が、お互いの考えていることにずれがある、ということをお互いに気がつくきっかけの言葉になると思えるのです。
 

 

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コメント

私自身が、「定型」というものをある種の幻想、物理の理想状態みたいなもんだと捉えています。うちの場合、私の方が「定型」と称されているものに、たぶん近いだろうという認識です。(標準知能検査をすればプロファイルの凸凹が、より少ないだろうな、程度のこと)。その上で「定型」「非定形」みたいな表現をさせてもらいます。

「定型」側に、ある種の耐性が強く備わっているほど、問題がより深みにはまってしまうんではないかと感じています。好意的に解釈して問題を先送りにできる能力みたいな。異文化とか異なる思想、考え方に一時的に共鳴する、深読み能力みたいな。これは「定型語」では「共感」だと思うのですが。「定型×定型」の場合には、小さな誤解は先送りすると霧消することが多いので、これが有効な平和的戦略になり得るはずですが、そこに非定型の「純粋定型批判」みたいな無邪気な論理と、フラッシュ記憶みたいな強力な原始的感覚が介入してきて、先送りしたはずの小さな誤解が、ものすごい破壊力で爆発してしまう。そんな感じってありませんか?

定型が好意的に解釈するための包容力も、負担ゼロで発揮しているわけではなく、先の見通しに支えられて、かなりの精神的負担をしながら先へ進むので、「定型」の側でも耐性の余裕部分がすでに損なわれています。借金状態で自転車操業してる。これは「究極の打算」というように翻訳されるかもしれないものですよね。

言葉だけでなく、表情とか行動様式とか、服装やらヘアースタイル、それに仕事の出来栄え、結果みたいなものまでも、ともすれば心的態度として捉えられてしまう「定型的」日本社会の文脈の中で、うまく表現しきれませんが、「翻訳」に期待しすぎるのは、どうかな、という危うさを感じますけど。

「翻訳」は、結局、「翻訳」でしかないことを心せよ、ということを、パンダさんも言ってるのかな。

>だからこそ「相手がそれから外れたことをやり返してきた」という事態に出会って「戸惑」ったり「怒りを覚え」たりした

かつて、まだお互いにASのことを知らない時、夫はよく、「俺は、今こういう状況においてはあなたは○○という反応をするはず、と思っている。なのに、どうしてあなたは○○という反応をしないんだ(怒)?」と言っていました。

そして、今も私は「(怒)」という表現で、当時、私の側で感じていた夫の感情を書き表していますが、喧嘩しながら、あるいは後になっていろいろ夫から聞いたところによると、これは、必ずしも「怒り」だけではなかったようです。「(怒)!=怒り」というようにしか私には見えなかったけれども、実はそれは、「戸惑い」だったり「悲しみ」だったり「困惑」だったりしたわけです。

>「定型の持っている言葉の理解の仕方にとらわれるな」ということではないでしょうか?一見同じに見える言葉や表情、身振りなどが、実際に何を伝えるものかが定型とアスペでずれている場合がよくある。だから定型は定型の言葉の使い方で判断するな、ということを、随随さんの言葉は意味しているのではないかと私は理解します。

ここの理解も、全くパンダさんと同じです。

上の書いたこととも関連するのですが、「言葉・表情・身振りの使い方が、どうも夫は私と違うようだ」・・・そんなことが漠然とわかり始めたのが3年半前。

そして、その3年半前、時期を同じくして、私はある方からこんなことを言われました。「カレンさんには、怒りながらでも向かい合ってくれる人がいるのが羨ましい」と。私は、「あー・・・!」と思いました・・・「そうか、怒っているようにしか見えないけど、それはそれで、夫が私に向かい合ってくれているということなんだ・・・!」当時はASのことを何も知りませんでしたが、夫の「(怒)!」に対しての私の考え方が大きく変わったのはそこからです。

「"何か"を理解できなくて怒っているのではないか="何か"を理解したいということの裏返しなのではないか」
「夫が(夫本人は気がついていないかもしれないけれども)何かを理解したいと思っているのであれば、私はそれが何なのかを見極めて理解したい」
・・・そんなことを考え始めることができたのです。

夫と私が、「お互いに、違う感覚や思考パターンを持った人間同士」という点で考え方を共有するまでには、それからさらに1年半、そして、共有し始めてから現在までの2年間も、次々に違いに気づいては、その違いを理解したり・違いについて議論したり・時には、この違いはどうしようもないと見極めあったり・・・という感じで過ごしてきています。

「違いを認識」した後、いつかパンダさんが書かれていたように「違うからもうダメだ」という選択をすることもできたのでしょうが、私は「違うからこそ、理解したい」という気持ちでやってきました。たぶん、それが、それまでの私の生き方であり、夫とのことについても、そうすることが私にとって一番自然だったのだと思います。

その、私にとって一番自然と思えるやり方が、「夫のジャブをバンバン受け&こちらもそのジャブにバンバン返していた」・・・ということなのでしょうね。

夫をして「史上最強の敵」と言わしめた私・・・いったい、皆さんには、どれほどコワ~イ私の姿が浮かんでいらっしゃることやら(^^;)
 

追記ですが、夫は私のことを「初めから、普通の日本人とは違うと思っていた」とか「普通の日本人じゃない」と表しています。たぶん、私自身、一般的な日本の文化や社会の概念とは、かなり違うものを持っているのでしょうね。

>なぜ「戸惑う」とか「強い怒りを覚える」ということが生じるのか、と考えてみると、その前提にあるのはやっぱり「自分が想定していたことと違うことを相手が言う(あるいはする)」という事態がそこにあるからではないでしょうか?

以前、夫と果てしない言い争いになった時に、お互いの前提の違いに気付き、愕然としたことがありました。
「○○するということは、△△と思っているんだね」と夫に言われ、
「違うよ、私は□□と思っていて、○○したことは関係ない」と伝えても、
「(夫)□□と思うのなら何故このようなことをするの!」
「(私)だから、それとこれは別問題でしょう?」
「(夫)別問題じゃないでしょう!」と平行線のまま。
最後には「(夫)君は自覚がないのかもしれないけど△△と思っているんだよ!」となる。
自分としては、気持ちも行動の理由も説明しているのに、相手にはそのように伝わらない。夫が見て聞いているのは私なのだろうか?それとも彼の中にある得体の知れない誰かなのだろうか?と混乱しました。
多分、夫も同じだけ混乱していたのでしょう。上記のやり取りも、夫サイドからは全然違った話になると思います。

夫にしてみれば、「言動」は個人から離れた原則に沿って一致している筈という前提があったようで、
私には、個人から離れた原則の存在は大雑把にしか分からず、「動」の部分は読み取りづらい為に、相手と自分の「言」と、自分がそれまで集めて来た相手の情報が原則という前提がありました。

>「その机の上のみかんひとつとってくれない?」

この言葉には他の意味が入る可能性が低いと考えて、安心して言ったり聞いたりします。
「お茶でも飲まない?」レベルを言われると沢山の意味がある可能性を考えています。
とりあえず頭の中で可能性を列挙して相手の次の言葉に備えます。

最強のカレンさん

> その、私にとって一番自然と思えるやり方が、「夫のジャブをバンバン受け&こちらもそのジャブにバンバン返していた」・・・ということなのでしょうね。

 これ、「あしたのジョー」を思い出しました。
 絶対負けないぞと向き合い続けられたカレンの夫さんと、最強のカレンさん
 そういう関係だからこそ、乗り越えられたものがあるのでしょう。
 この辺、とても重要な問題があるように感じています。


繭さん

>以前、夫と果てしない言い争いになった時に、お互いの前提の違いに気付き、愕然としたことがありました。
「○○するということは、△△と思っているんだね」と夫に言われ、
「違うよ、私は□□と思っていて、○○したことは関係ない」と伝えても、
……
最後には「(夫)君は自覚がないのかもしれないけど△△と思っているんだよ!」となる。

 joさんが私の経験について「全く同じだ」と何度も教えてくださいましたが、
 この繭さんご夫妻の経験も私と「全く同じ」感じがします。
 そして最後の「君は自覚がないのかもしれないけど……」
 という解釈にたどりついてしまうことまで全く同じでした。
 ほんとにそうとしか理解できなくなってしまうんです。

>自分としては、気持ちも行動の理由も説明しているのに、相手にはそのように伝わらない。夫が見て聞いているのは私なのだろうか?それとも彼の中にある得体の知れない誰かなのだろうか?と混乱しました。
多分、夫も同じだけ混乱していたのでしょう。上記のやり取りも、夫サイドからは全然違った話になると思います。

 多分、そういうお互いに理解しがたい感じの
 ズレたコミュニケーションのパターンが定型とアスペの間には
 とても安定して存在するのではないでしょうか。
 カレンご夫妻の所でもそういうのありそうです。

 そして今私がとても心強く感じていることは、
 そういうズレのパターンが存在するのではないか、という理解を
 アスペサイド(へんな言い方ですね (^ ^;)ゞ)の繭さんと
 定型サイドの私(そして多分私たち)と共有できることが
 お互いに確認できたと言うことです。

 これはすごく大きな意味を持つのではないでしょうか。

あしたのジョーは真っ白に燃えつきちゃったんだぞぅ。

冗談はさておき、両方とも心的エネルギーレベルが下がった状態で対面して膠着してるのがネガティブスパイラル状態なのでしょう。カレンさんの半年の別居は、医者が勧める30日の休息入院措置だったのではないでしょうか。次のラウンドをファイトするための。

実は、私が♂パンダさんにそこまで共感できるという事実の説明に苦しんでます。そこまで共感できるのは、一般性が高いということで、多くの人が同じような経験をしたのではないか。なのに自分だけが苦しんで吐き出しているという可能性はないのだろうかって。

ここにジェンダーのマスクがかかっていることにも注意です。私は、例の掲示板の方では、かなりの共感を感じながらも、少し違和感もあり圧力も感じていました。実際、♂の書き込みは、私以外は単発に近いものでした。

自分の過去を振り返っても、(仕事とか趣味とかで)すごい頑張れた時期もあり、具体的に何をやってのけたか思い出すと「そんなこと人間技じゃない、あり得ない、ほんとにやったのかな?」と今の自分から見ると夢か嘘のようなことがいくつかあります。だから、ここ数年自分がぶつかってるような壁(家族関係の問題)、ひょっとして通り抜けた人がいっぱいいて、私が「こんな苦しい」と他の人に訴えても「誰でもそうだ」とか「そんなことあるわけない」とか、そういう表現になってるんじゃないか、それで私はカサンドラって思いこんでる、そんなことはないのかなぁ、って思ったりします。

映画『ローズ家の戦争』見たことありますか?久しぶりに見たいです。『惑星ソラリス』も。

理想状態と言ったのは、水が100℃で沸くのは、ちょうど1気圧で温度が何度で、etc. etc. って現実に個々のケースにはあり得ない、ってことです。標準IQ検査で100の横一直線でレーダーチャートが真ん丸の人もあり得ない。この場合は母集団が変化するとますます幻のようですね。それにしても…

うちの子、極めて性格の近いタスク領域で上10%下10%ぐらいまで振れてるんですよ。だから(これができて、これができないわけない)と思われ「なんでできないんだ!ふざけてるだろ!」って怒られる可能性極大です。

うちの母ちゃんも、そう言われて育ってきたんだろうなって考えたら、理解できるところあるんです。なのに、私ときたら「ふざけてるだろ!」って思ったり言ったりしてしまいましたもの。あーあ。

パンダさん、こんにちは。
「対話」、興味深く読ませていただきました。人間関係、すべてはこれに尽きるんだよなぁなどと思いながら。そして、RosamondeさんがウルトラEだとあらわす「対話」とパンダさんの仰る「対話」の違いもよくわかります。

私は非ASなのですが、実は人付き合いが得意ではありません。性格なのか、それともASと思われる両親に家に閉じ込められて二十数年を過ごし、家族(私のほうがマイノリティー!!)以外人付き合いがほとんどなかったためなのか分かりませんが・・・。気を使うとか、雰囲気を読んであわせるとか、できなくはないけれど、苦手だし、自信がないし、疲れます。好きなことも、あげてみると一人ですることばかり。読書とか、編み物とか。
かといって、AS的会話のほうが楽で良いというのとはまったくちがいますが。だから、やっぱり定型の一タイプなんですね、きっと。

でも、そんな私とテンポやペース、感覚の合う人たちも確かに存在して、一口に定型といっても様々なんですよね。そして、その辺を、お互いに「この人はこういう人だから」ということを考慮しながら人間関係を作っているんだと思います。

ところが、ASの夫は、そして息子は、私が「この人はこういう人」で考えられる範疇をはるかに超えたところにいる人だった。まったく理解できない人だった・・・。

私と夫が今までたどってきた道は、びっくりするほどカレンさんご夫妻とよく似ています。なんてあらわしたらいいんだろう、と思っていたことがカレンさんのコメントにそのまま書かれていて驚いた、という感じです。会話パターンもまったく一緒。きっと○○とかに入る単語が違うだけじゃないかと思うくらいです。
そして、わたしも、「夫が見ているのは実際の私ではなく、自分の頭の中に『こうである筈だ』と作り上げた幻の私だ」、と思いました。夫の見ている世界そのものが、現実の世界ではなく「夫の頭」というコンピューター上に作られた、現実にとても忠実に作られた仮想世界、その中で彼はあらゆることをシミュレーションしている。そのシミュレーションを現実であるはずだと思っている。そして、当然生じる本当の現実との差に「なぜだ(怒)?こうなるはずなのになぜならない!?」といつも怒っている。そんな印象を受けていました。

さて、「対話」と「翻訳」です。
「翻訳」なしに夫との「対話」はありえません。ただ、かつてやっていた「翻訳」と、対話が可能になった今やっている「翻訳」は別物だなあ、とパンダさんの記事を読みながら思いました。
どう説明したらいいのか・・・かつてはたぶん、わたしが夫のAS語を習得しようとしたんだと思います。その結果は、洗濯機に落ち込んだハツカネズミみたいなことに・・・。水におぼれ、振り回され、もみくちゃにされ、脱水されて、かろうじて生きてはいたけれどもうぼろぼろで、死んでもおかしくなかった。
今やっている「翻訳」は、まえにAS同士のご夫婦の方が(すみません、どなただったか覚えてなくて)おっしゃっていたのに近いんじゃないかと思うのですが、それぞれが自分の言語をもち、対話するときにはどちらとも違う第三の言語を使っている。そんな気がします。

今の「翻訳」には、慣れてみると、あまり違和感を感じないんです。それは、AS・定型それぞれの立場からの気遣いであり、思いやりであり・・・なんてというと、その意味をめぐってまた混乱が生じそうですね・・・相手を尊重すること(でどうでしょう?)じゃないかなと。

joさん

 っていうお名前、Joeではないけど、あしたのjoに関係有るのかなと
 一瞬思ったことがありました。

>あしたのジョーは真っ白に燃えつきちゃったんだぞぅ。

 なんですよね~。
 あれ、私子どもの頃から大好きだったんですが、思いを込めてそう言ったら、
 パートナーにはにべもなく「私は大嫌い」と「正直」に言われました (^ ^;)ゞ

>実は、私が♂パンダさんにそこまで共感できるという事実の説明に苦しんでます。そこまで共感できるのは、一般性が高いということで、多くの人が同じような経験をしたのではないか。なのに自分だけが苦しんで吐き出しているという可能性はないのだろうかって。

 前にもちょっと書きましたけど、私はjoさんの状況は私よりさらに厳しい部分がある
 という感じがしますし、その苦しみを訴えたくなるのは当然のように感じます。
 共感については私もあまりに同じでびっくりというのが続くので、
 まあお互い様でしょうか。

>映画『ローズ家の戦争』見たことありますか?久しぶりに見たいです。『惑星ソラリス』も。

 あ、まだ見たことない(忘れていなければ)です。

> この場合は母集団が変化するとますます幻のようですね。

 ここ、すごく大きい問題のように感じます。
 お母さんの集団が変わると……(←うそうそ。冗談です (^ ^;)ゞ)

> うちの母ちゃんも、そう言われて育ってきたんだろうなって考えたら、理解できるところあるんです。なのに、私ときたら「ふざけてるだろ!」って思ったり言ったりしてしまいましたもの。あーあ。

 これ、相手が子どもの時とパートナーの時では絶対同じ対応は出来ないですよね!
 ここは暗黙の内に期待しているギブアンドテイクの性質が違うんだと思います。
 ま、単に私たちが人間的に未熟と言うことなのかも知れませんが (T T)

jo の由来は、掲示板の中のお一人には、話したことあるんですが、オフラインでお話するまでとっておきです。

ななさんが言ってる脳内世界と現実ってのは『惑星ソラリス』で描かれてること、ほぼそのままです。小説や映画で描かれる現象というのは、デフォルメしたりしてるかもしれないけれど、結局それほど特殊じゃない、はずですよね。共感の得られる範囲でないと鑑賞されるわけないので。だから、前に書いたような、その、ASだ、ASだと騒いでいる自分は、自分を自分の脳内で勝手に特殊化(フツウ化かな?)しちゃってないか、という不安というかなんというか、へんな感じがするんですよ。

パンダさんが、自称ASの人らのブログ読んだら、気持ちは分かるけど、パートナーさんの言うことでは、ストレートに入ってこなかったというのも当然ですよ。他人の話だと、所詮、どう転んでも自分に影響ないですもん。心のキャパの余裕部分が全然ちがいますよ。「耳かきほどの度量」があれば全く冷静でいられます。でも家族の行動は、自分がもろに影響を被ります。

子供が入ってきてキャパが一杯になって関係がパンクしちゃうというのも根は同じかな。子供は必然的に、心のリソースの余裕部分を余す所なく吸い取る存在ですから。耳かきほども残りません。

あっと、それから、もう一つ、老化に伴う脳の機能低下が、何かの役割を果してそうな気がします。みんな、人生のある時期は、四苦八苦しながら生き延びてたのに、ある時期に問題が表面に浮上しますよね。それってなぜ?心のある部分を酷使しつづけたために、その部分が疲労骨折したみたいな表れ方もあるでしょうし、何かの事情で、何かの能力が下がったら、問題が現れるとか。ウツもあるでしょうし、それが、青年期の終わりだったり、壮年期の終わりだったり、そういうのもちょっと気になります。医者が考えてくれてると思うけど。

標準IQ検査ですが、どこで読んだか忘れましたが、タスク毎の平均値の見直しを何年かに一回するらしいんですね。人間のIQ平均が年々変わっているからって。そうすると、同一タスク達成の平均値は、50年前と今じゃずいぶん違ってしまう。細かい計算は忘れましたけど、50年前のほとんどの人が今のメジャーで計ると知的障害になっちゃう。それってオカシイだろうって、何かで読みました。

joさん

> ななさんが言ってる脳内世界と現実ってのは『惑星ソラリス』で描かれてること、ほぼそのままです。小説や映画で描かれる現象というのは、デフォルメしたりしてるかもしれないけれど、結局それほど特殊じゃない、はずですよね。共感の得られる範囲でないと鑑賞されるわけないので。

 ここまではわかりました。
 デフォルメは似顔絵と一緒でわかりやすい「典型」を作って
 多くの人に共感を与える役割をしますね。
 逆に「なんだこれは?」という得も知れぬ違和感を残す、というのも
 特に「前衛的」な作品ではありだと思うけど、
 それも「違和感」が発生する範囲内とも言えるかも。

 で、そこまではとりあえずわかった気になったとして
 (間違ってるかも知れませんが (^ ^;)ゞ)

> だから、前に書いたような、その、ASだ、ASだと騒いでいる自分は、自分を自分の脳内で勝手に特殊化(フツウ化かな?)しちゃってないか、という不安というかなんというか、へんな感じがするんですよ。

 ここに書かれた意味がもうひとつ良くわかんないまんまなんですが、
 もう少し教えていただけます?
 自分自身の実態から離れて、ASという物語にあった形に改造して
 わかりやすい形でアッピールしているのではないか、とか
 そんな感じのことでしょうか?

>もう少し教えていただけます?
> 自分自身の実態から離れて、ASという物語にあった形に改造して
> わかりやすい形でアッピールしているのではないか、とか
> そんな感じのことでしょうか?

ええ、そんな感じのことです。みなさん異口同音におっしゃるのは、カサンドラ状態(他人に説明してもわかってもらえない)で「自分の認知の中の現実」を見失い「おかしいのは自分の方??」って思ったりしてるうちにウツになる。それで壊れそうになっている、んですよね。

だれでも「自分の認識」に整合する形でしか『現実』を認知できないです。原始人にヘリコプター見せて、翌日に絵で報告させたら、たぶん鳥か虫みたいな絵を描くでしょうね。知識の枠にはまっていないから、何も見てないと報告する可能性だってある。

仮にASとADHDが生活しているとします。ある性質を取り出して見るとASとADHDでは、定型からのずれ方が正反対だとしましょうよ、仮に。ASが「あいつはADHDだ」と言うのと、ADHDが「あいつはASよ」というのは、整合するし、どちらも正しい場合があります。もし『現実』がASと定型でも、定型とADHDでもやっぱり整合するし、それぞれで、どちらかが正しい場合がある。しかも、分類がスペクトラムだから、(ASぎみ)定型と(ADHD)ぎみ定型では、ASやADHDと定型よりもっと距離が離れている可能性だってある。しかも、ウツになっちゃた後は、すでに「健全」に機能できなくなってるし。しかも、ウツの症状と発達障害の状態像はかなり似ているし。こうなったら「おかしいのは私の方??」という言明すら『現実』にすごく近づいていたりします。

もう地獄絵ですけど。ほんとにスパイラルでもがいているのって、そういう感じじゃないですか。そういう状況下で、「おかしいのは自分の方かもしれない」という可能性を担保しないで進むことは、どこか理性的じゃないと私には思えてしまいます。

その「自分に何かが見えていない」可能性を担保することは、「ええっ、なんだ、そうだったのか!」という感動と理解に到達できる可能性を確保することだと思いますが。

joさん

『惑星ソラリス』に釣られました。あの世界観が好きなのです。
『ローズ家の戦争』は見たことがないのですが、脳内世界への信頼感という意味では『イノセンス』もそんな感じでやっぱり好きです。

>私自身が、「定型」というものをある種の幻想、物理の理想状態みたいなもんだと捉えています。

以前、夫と喧嘩をしている時に「私を状態方程式に当て嵌めないで!」と抗議したことを思い出しました。自分がそのように反応できないことは分かっているのですが、知ることも必要だなあと思います。

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