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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月16日 (日)

「翻訳」に果たす「文法」の意味

こちらでも何度か紹介している、「配偶者の会」の掲示板常連のカレンさんが書かれていることには、私にはとても刺激的なことが多くて、ほんとにありがたいんですが、最近こんな話もされています。

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文字通り日頃から、夫の言葉を聞いたり、…… Aspergers in Love や The Other Half of Aspergerを読んだり、よそで発達障害があるとされている方のお話を伺ったりしているので、その中で、皆さん……共通しておっしゃっていることが、今や「この方たちの語法や文法」のように私の中にストンと来ているのかもしれません。

例えば日本語でも英語でも手話でも、大多数の人が日常的に一番使っている用法が「語法・文法」として集約されますよね。それらを外国語として学ぶ人たちは、その「語法・文法」を学び、それらを頼りに翻訳したり解釈したりする・・・

今、あらためて考えると、たぶんそんなことをしているのだと思います。
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誰かとコミュニケーションするときには、そのための決まりみたいなものがあります。たとえばリンゴ、と言えば何を指すのか、ということがある程度はお互いに共有されていないと話が通じない。

今思い出したんですが、笑い話のような実話でこんなのがあって、関西の大学の野球部で、関東からやってきた新入部員に先輩がバットの握り方を指導していたんだけど、どうもうまくない。それで先輩は一生懸命「いや、そうじゃない。自分はこうやって握ってるだろ?そうじゃなくて、こう。自分はこう。」とか教えるんだけど、いっこうに直らない。新入部員も頭が混乱してきてしまったということなんだけど、秘密は「自分」。

関西の人はご存じの通り、この場合の「自分」は関東で言う「あんた」のこと。それが混乱しちゃって、先輩が「自分のはこう」と、悪いやり方を見せられるときに、「先輩の(正しい)握り方はこう」と教えられていると思って、自分の悪い握り方を繰り返したというわけです。で、コミュニケーションが失敗した。

「あんた、私、叩いた」と「私、あんた、叩いた」とは意味が反対になってしまうから、語順は大切とか言うのが文法みたいな約束事ですよね。それも間違えるとコミュニケーションがうまくいかない。

アスペと定型のコミュニケーションが難しいのは、結局そういう「語法・文法」にあたるような約束事のところのズレが、お互いに結構シビアだったりするからだということになります。だから、相手の人たちの「語法・文法」が学べるようになるとだいぶ変わってきて、翻訳したり解釈したりしてある程度コミュニケーションが取れるようになってくる。

もしかすると「アスペ」=「障がい者」、「私」=「健常者」という視点でだけ一方的に考えてしまうと、この問題は「アスペが正しい文法を学べない」、あるいは「アスペは文法を不十分にしか学べない」という風に理解されるかも知れません。でもたとえばこれもよく引き合いに出させていただくアスペルガーライフblogの狸穴猫さんたちがアスペ同志で共感的に語り合っているように、アスペの人は定型と異なる「語法・文法」をそれなりに共有されているんですね。

だから立場を変えてみれば、定型の人間の方がアスペの人たちが持っている「正しい語法・文法」を理解できないやつらだ、ということになります(実際、定型のほうを「障がい者」と呼ばれる人もあったりしてますし。これ、ほんとに面白い)。そういうことを具体的にわからせてくれるという点でも、あのブログは偉大だなあとつくづく感じてます。それと、このところはアスペルガーの問題とカナータイプと言われる、知的障害を伴う自閉症の問題とが大きく異なるところだと思います。アスペルガーの人たちは、それなりに「私たち」の世界を持つ。

おかしかったのは、どっかのブログで紹介されていたんですが、IT関係のプログラマーの世界とか、どうもそういうアスペ的「私たち」の世界が優勢な職場とかもあるみたいで、定型の人が「おはようございます!」とか言って職場に入っていくと、「なんだあいつ?」みたいな冷たい風が吹くんだそうです。そこでは多数派と少数派が逆転してて、定型の方がむしろ「KY」なんですよね。結局その定型の人は職場を変えたらしいですが。でもカナータイプの自閉症の場合はそういう「私たち」の世界を作るのはかなり困難になっちゃいます。

以上、ここまでの話は、お気づきの方もあると思いますが、実は前に「アスペと定型のギブアンドテイクの意味(5) 「翻訳」編」にも書いたことを少しふくらませて書いただけという部分が多いです。ただ、今回のカレンさんの上の文章でそれに加えて「あ、ここ大事だな」と思えたのは、「それら(語法・文法)を頼りに」翻訳したり解釈したり、と言う部分です。「それらにしたがって」じゃないんです。あくまでも道具の一つとして、工夫しながら翻訳や解釈をしていく必要がある、と言うことなんじゃないでしょうか。機械的に翻訳すればいいというものではないんですね。

カレンさんは翻訳にも関わっていらっしゃるようだけど、特に文学関係なんか、たしかに機械的に直訳したら悲惨になりますよね。さらに詩とかにもなれば、そもそも教科書的な語法や文法を越えて、新しい表現の可能性を追求するところに意味があったりもするわけだから、ますますそうでしょう。そういう現場で鍛えられた方だから、さらっとああいう絶妙な表現が出てくるんでしょうか。

そういう、状況を見ながら、その都度工夫して翻訳作業をしていく、というのは「これで完全」ということのない、永遠の修行の過程、あるいは創造性を要求される作業なのかも知れないなと思います。もちろん定型同志の人間関係だって、ある意味ではそういうところはありますが。

とはいえ、あんまり創造性ばっかりいつも考えていても疲れて死んでしまうしなあ……。そこ、どう誤魔化したらいいんだろう?なんか怠け者にもお勧めの、手抜きが出来るずるい方法はないかなあ。

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コメント

2人とも(夫婦揃って)自閉さんなので、共通語と言えるような言語(私は『第2言語』と言っています)を使っています。

それぞれ母国語は違うので、一緒に暮らしていくためにはどうしても共通語が必要になってきます。

定型さんがよく使っている『耳から聞こえてくる音声日本語』は、私たち自閉さんではどうしても第3言語以降の言葉になっていきます。

あうんの呼吸は第3言語以降の言葉に当たります。

自閉さん流(基本は私とダンナの場合の話ですが)言語は、声かけの多さという言葉のデコ盛りは混乱することが多いです。

頭の中で翻訳しているので、どうしてもワンテンポ、トゥーテンポずれてしまいます。追いかけようとしても言葉の流れが先に行っているのでウンザリしても~ええやぁ~!であきらめてしまうことがあります。

私は『脳内2人羽織翻訳&通訳』と呼んでいます。

自閉さん流の文法は機能的でシンプルが一番ですわ。

耳から聞こえてくる音声日本語やあうんの呼吸&空気を読むことは外国語を使っているような感じです。

詳しくは自分ウェブ日記(ブログと言う)で書いていきたいかと思います。

Rosamondeさん

定型語が第三言語というのは、へえ、そうなんだ、と新しい発見でした。
Rosamondeさんの場合は自分の言葉が第一言語(母語)、ご夫婦共通の言葉として作り上げてきたものが第二言語、と言うわけですね。

そこで興味を持ったことなのですが、Rosamondeさんにとっての第一言語(母語)と第三言語(定型語)の違いと、第一言語と第二言語(夫婦語)の違いとを比べたとき、どちらが違いが大きいのでしょうか?

やっぱり同じ自閉系と言うことで夫婦語は定型語より学びやすい(または作りやすい)のでしょうか?もしブログにお書きになったら、ブログのアドレスなど、教えていただけるとありがたいです。

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パンダさんのブログからの1月16日の記事で、パンダさんからレスコメントの最後にこう言う質問がありました。 『やっぱり同じ自閉系と言うことで夫婦語は定型語より学びやすい(または作りやすい)のでしょうか?もしブログにお書きになったら、ブログのアドレスなど...... [続きを読む]

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