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2011年1月12日 (水)

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(3) 「奉仕」編

私の中国の友人のひとりは、日本の一休さんの話が好きで、何度か面白い話として言っていたのはこんな物語でした。

ある時一休さんが歩いていると乞食がいたので、一休さんは施しをした。けれども乞食はありがとうとも何とも言わずに当たり前のようにそれを受け取った。一休さんは面白いなあとおもって(ここで怒らないところがさすがですが)、「なんで御礼をいわないんですか?」と尋ねてみた。そうするとその乞食は「俺はこの施しをもらったが、それであんたは「こいつに施しをしてやった」という喜びを得たはずだ。その上にさらに礼まで言って欲しいというのか?」と答えた。一休さんはそれを聞いてほんとに感心してしまった。

ここではいわゆる社会的な「弱者」に対する援助とか奉仕とか、そういう行為が問題になっています。援助とか奉仕とかは、基本的には直接の見返りを期待しないもの、あるいはしてはいけないものなわけですね。だから「紐付き援助」とか見られるとそれは批判の対象にもなる。ただ、ほんとに見返りが無いのかというと、それはそうは言えないでしょう。たとえばボランティアで老人ホームに行った若者が、老人から「ありがとう」と言われてものすごくうれしかった、というような感想を語っていることがありますけれど、「感謝」というのは結果として立派な見返りになります。また直接本人からでなくても「社会的な賞賛」というような形でこれも立派な見返りになる。これもギブアンドテイクの関係です。

ただし、「そのことを目的にやっている」と見られてしまえば、それは単なる取引であって、その「奉仕」の精神は否定されてしまうわけです。上の一休さんのとんち話は援助や奉仕という行為とそれに対する見返りの微妙なかねあいを上手にあぶり出してくれているのだと思います。一休さんは僧籍にある人ですから、直接の「感謝」とか、社会的な「賞賛」といった形であっても見返りを期待するのは俗っぽすぎることになる。それは悟っていない人のやることだ。というようなことをこの話は乞食の口を借りて実にうまく表現しているんでしょう。

では相手から「感謝」されようがされまいが奉仕したり援助したりする、という行為は、ギブアンドテイクを越えたものなのでしょうか?

このあたりになると、宗教的な奉仕の行為、といったことがかなり絡んできそうです。私は宗教者ではないし、そうなることを自分の理想と思ったこともないので、そういう自分が宗教的に生きていらっしゃる方のことについて語ることには限界があるわけですが、ただ、少なくともわりと親しい宗教者あるいは宗教的な人の生き方などを見ていると、その奉仕の行為は「お返し」として行われている面があるような気がします。それは何に対するお返しかというと、自分が神やその宗教によって苦しみから救ってもらえたこと、それに支えられていることに対するお返しです。

ここでは普通の援助とは順序が逆になっています。援助したから感謝して欲しい、というのではなく、すでにまず自分が援助してもらっているから、だからそのお返しとして奉仕が行われるのだという形。だからその奉仕に対してはお返しは必要がありませんけれども、やはり一種のギブアンドテイクが成り立っていると思えるのです。

あるいは喜捨という言葉があります。仏教的な考え方だと思うのですが、喜んで捨てる。ものに対するこだわりは人を苦しめる煩悩の大きなものな訳ですから、必要な人には必要なものをもらってもらう。その行為自体が自分が煩悩を離れることの一部であり、喜びだということにもなるのでしょう。

イスラーム教の社会などでも乞食は立派な(?)職業の一つであって、金持ちはそれに施しをすることが宗教的な義務と考えられていると聞いたことがあります。それは神の意志にかなう行為であり、神に近づく行為であり、乞食は金持ちに対してそういう機会を提供してあげているのだ、という考えがあるらしい。耳学問に過ぎませんが。

もちろん宗教もいろいろですから、こういう理解に当てはまらないものもあるのかもしれませんが、少なくとも一部はそういう感じのギブアンドテイクが成り立っているのではないかと思っています。まあ、悟っていない人間のここが限界なのかも知れませんけれども (´ε`*)ゝ 

以上、「奉仕」という、一見すると一方向的な行為に見えるものにも、実は精神的なレベルである種のギブアンドテイクが成り立っているのではないか(あるいはそういう精神になるから奉仕が継続できるようになるのではないか)、ということを書いてみました。そうすると、そこまで宗教的な世界に近づいた定型の方の場合には、アスペルガーの人とのコミュニケーションで「見返り」が感じられなくても、自分の喜びとして共に生きる、というコミュニケーションがもしかすると可能になるのかも知れません。

ただ、私はそういう悟りの世界にはいることは考えていませんし、そもそもそんな悟れるような人間ではないので、もっともっと俗な世間の中で、もっと俗な形でギブアンドテイクの問題を考えていく必要があります。そこでもう一度現世に戻って、次に「子育て」の問題について、少し考えてみたいと思います。(しかしこの話、どこに向かっていってどこで落ち着くんでしょう? (^ ^;) )

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