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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月24日 (月)

アスペの人のブログを見ることの効果

 私は基本的にめんどくさがりやのさぼり好きなので、他の人のブログとかもなかなか見ることはないのですが、アスペと定型のコミュニケーションの問題など、自分自身やむにやまれず見ずにはおれない、という状況になったりして、それでぼちぼち読ませていただくと、ほんとにいろいろな発見があります。

 中には「私はアスペルガーだ」ということをタイトルに掲げて書かれているブログを読んでいると、いくら読んでも私のイメージするアスペルガーの像とは重なってこないものもあります。たとえばなんだか自分はこれほど天才的なのにどうしてみんなは私を認めてくれないのか、というような話が延々と続いていて、「人から私はどう見られているのか」のみに関心が向いているような感じだったりする。不思議に思って私のパートナーに聞いてみても、やっぱりイメージずれるみたいなブログもあって、なんだかこの人自分勝手に「アスペルガー」ということを売り物にしているんかなあと、釈然としない思いをするものにも出会います。
 
 ただ、もちろんそういうのは一部に限られていて、先日「いい人って?」でご紹介したしろさんのブログでもそうでしたし、ほんとに純真な心で辛い世の中を傷つきながら生きている、という感じが伝わってくるものもあるし、狸穴猫さんみたいに、ある意味壮絶な生活暦を持ちつつ、「関西の元気なオバチャン!」というような感じで、世間的な「マイナス」をそのままプラスに変えちゃって、ほんとにたくましく「障がい」を足場に堂々と生きていらっしゃる姿に出会ったり、やはり理解しがたい定型の世界の中で傷つき傷つきながら、一体こんなに自分を傷つけている仕組みはなんなんだろうかと、ひとりの世界の中でこつこつこつこつと自分なりの理解を積み重ね、それをブログにさまざまな怒りや悲しみをも時折交えながら、ぶつぶつとつぶやき続ける方もあるし……

 で、以前alonaさんはコメントの中で自分はそうならないと書かれていたので、これから書くことがどこまで一般的に言えることなのかはわかりません。ただ、私にはそういう効果があるような気がするし、アスペと定型のコミュニケーションを考える上でのひとつの手がかりになるのではないか、ということで書いてみたいと思います。

 人間関係をうまく成り立たせるための格言の一つに「自分がされて嫌なことは人にするな」というものがあります。多くの場合、これはかなり言えることな訳ですが、けれども定型とアスペの関係ではここがものすごく落とし穴になり得ますよね。それは「つらいときにどうしてほしいのか(2010/12/21)」にも具体的に書いたことがあります。相手のためには自分はしてほしくないこと、をしなければならなかったりすることがある。

 もちろん定型間でもそういうことはあり得るわけですが(たとえば自分は嫌いな食べ物だけど、それが好きな人のために作ってあげるとか)、そのズレのレベルがやっぱり違う。定型の想像の範囲を超えた形で違いがあったりするわけです。「つらいときにどうしてほしいのか」にも書いたように、場合によって定型の側がそれをすることに罪悪感すら抱くようなことだったりするわけですから。

 つまり、「自分がされて嫌なことは人にするな」という格言は、自分と相手の感じ方は同じだろう、という前提があって成り立つことです。そして定型とアスペとでは、まさにそのかなり基本的な感じ方のところでズレが起こってしまったりするので、その格言が通用しなくなってしまう場面が沢山出てくることになります。ということは、自分の感じ方を基準にやりとりを考えられず、相手の感じ方を理解することがどうしても必要になる、というややこしい話になってくるわけです。そうすると、「頭では相手がこうしてほしい、ということは理解できても、気持ちでは納得しきれない」というような状態も起こる(「頭で納得することと気持ちで理解すること」)。みみさんの議論で言えばこれもダブルバインドの一種なのかも知れません。

 この状況を(とりあえず定型の側からですが)越える方法はあるのだろうか?ということがこのブログで考えてきたことの一つです。そしてふと思いついたことが、私がアスペルガーの方のブログを読んだときに感じたことだったのです。それは何かというと、「この人は、ほんとに辛い思いをしているんだな」ということがなんだかじわーっと、あるいは時にはショッキングな形で伝わってくる、その感覚です。

 いや、これを言うと、パートナーに怒られそうなんですけど (^ ^;)ゞ というのは、「私があれだけ言っても理解しないのに、なんで他の人のブログで納得するの?私のいうことは結局信じていないわけ?」と言われそうな気がするので……

 ただ、言い訳をさせていただくと、やっぱり現実に生活を一緒にしているパートナーとの間では、積み重なった矛盾がすごく大きくあるので、なかなか自分のある種の「利害(立場への固執)」を越えて、素直に相手の状況に身を重ねてみる、という余裕自体が出てきにくいんですね。あ、これは耳監督に指摘されたことで、耳かきくらいしかない私の度量の問題なんかもしれませんが (^ ^;)ゞ、ま、とにかく俗物の私としてはそうなわけです。

 ところが、ブログで読むと、その人との間にはなんと言っても距離がありますし、これまでの「恨み辛み」みたいなものは全然無いし、直接の利害関係がからまない分冷静になって、自分の小さな度量を仮に大きくして読むことが可能なのでしょう。相手の視点で問題を感じやすくなるんだと思います。それでその人の抱えているしんどさも相対的に感じやすくなる。

 そんな風に相手の人の「痛み」を感じられるようになると、俄然相手の人がリアルな人として実感されるようになったりするようです。ま、私の場合、ということなんですけど、勝手にこちらから共感が成り立っちゃったりする。「そうか、自分も辛いんだけど、この人も辛い思いをしてるんだなあ」みたいな感じで。

 その時点でも、具体的に何に痛みを感じるのか、とか、そういうことはやっぱりすごく違っていたりはするわけですね。ただ、その「形」の違い以上に、痛みという「中味」の方で共感が成り立ったりする。何かが共有されたような気分になったりする。それは「頭での理解」ということを一つ越えた何かなのではないか、という気がするわけです。

 そういえば、阪神淡路大震災で家族を亡くしたり、苦しみを背負った人たちの自助グループに関わっている人の話を聞いたことがあるんですが、その参加者のそれぞれは自分の苦しみは最終的には完全には誰にもわかってもらえるものではない、という実感を強く持っているそうです。だから、その自助グループのメンバー間でもそれは同じ訳ですね。それじゃあ自助グループになんの意味があるかというと、「あんたの痛みは私には理解しきれないし、私の痛みはあんたには理解しきれない。そういう重たいものを抱え込まされてしまった。」ということを、お互いに「共感」しあえることに意味があるという訳です。

 「共感が不可能なこと」を「共感する」という、なんだかコペルニクス的転回?みたいな話ですけど、でもそれがほんとに大きいと言うことで、それは私もなるほどなあ、とわかる感じがするんです。「人間って、最後はひとりで死ぬわけだし、結局孤独だよね」といってお互いに孤独であることに「共感」し合ったり、それと同じような感じですよね。

 アスペルガーの人のブログを読むというのは、そういう新しい見方に自分が移行するための、ひとつの道になるのかも知れないなあと、ちょっと思いました。

 

 

 

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コメント

はじめまして、私はアスペルガー傾向を持つ者です。
夫が定型で、やはりコミュニケーションのすれ違いがあり、模索中です。パンダさんのブログはとても興味深く読ませて頂いています。

私は五感のレベルですら人は皆同じ感じ方をするだろうとは思えないので、基本的には周りの人達と同じ感覚で、心の動きも同じプロセスを持つと信じることの出来る世界というのは、どのように感じられるのだろうと不思議に思います。

ただ、嬉しいとか悲しいという気持ちが相手にも自分にもあることは同じだと感じています。そこへのアプローチの仕方が人それぞれなのだろうと。
ですので、「自分がされて嫌なことは人にするな」という格言は「相手が嫌がることはしない」に変換されて私の中にインプットされています。
ですが、同じ事柄を同じような心の動きで受け止められないことが悲しいと言われたりすると困ってしまうのです。

ぱんださん、ブログ、ごくろうさまです!また、うちの話になってしまうけど、豪華オールスターを見ていると、本当に面白いんですよ!車の運転なんか、モロ出ますよね。
例えばうちの母と兄。
兄が運転中、お喋りしてて、後ろの車にピタッとくっつかれたりすると、大変
「なんだ!後ろの車(怒)ピッタリくっつきやがって(怒)40キロ出てんのに(怒)ここは制限速度40キロなんだよ(怒)嫌がらせか?わざと速度落としてやれ!」とか言って、速度20キロ位まで降ろします。

後ろの車はヤレヤレ…ッて感じでブーンと追い越して行きます。

すると、今度は、不満たっぷりで、追い越した車に60キロ位で追いつき、ぴったりくっつき、
「おい、トロいんだよ、60キロしか出せないのか?直線なんだから、もっと飛ばしてもらいたいな…邪魔なんだよ(怒)迷惑かけてるってわかんねーのか!」プッツ・プーとクラクションを鳴らし、相手を挑発します。(´ヘ`;)
私「おい、おい…相手も感情ってもんがあるんだぞ…迷惑かけてるのは、あなただろ。矛盾だらけじゃないか…自分の喋ってる事、わかってんのか?どーか相手が怒りませんよーに…どーか神様…」
と思いつつ、「いーのよ、追い越したい人は追い越していけばいいのよ。構わないのが一番よ!」となだめますが、そうすると、その怒りが今度は私に飛んできます。
困ったもんです。横に乗ってて、生きてる心地がしません。
コレを悔しいから…とかじゃなく、いつでもどこでも、まじめにやるんですから…
どうやら、全くミラーニューロン機能を持ってないようです。

繭さん

 はじめまして、コメントどうもありがとうございます。

 結婚されている女性でアスペルガーの方はとても少ないので(アスペは男性が多いため)、ご意見を頂けるのはとてもありがたいです。私のパートナーも繭さんのコメントを読みたいというので見てもらいました。書かれていることに賛成していました。

 繭さんがこのブログで興味を持ってくださっている部分もよろしかったら教えてください。また説明がわかりにくいところや、おかしいなと感じるところもお願いします。定型とアスペの間でどういう問題を、どういう風に語り合い、理解への道を作れるのか、そんなやりとりから少しずつ模索を広げていくことが出来ればと願っています。

 また、繭さんのパートナーの方にも、よろしかったらこのブログをご紹介下さい。ご意見など頂ければ嬉しく思います。

みみさん

 なんとあのrvcar、お兄さんのだったんですか!いや、制限速度ぎりぎりで走ってるから、ついつい追い抜いて、そのあと追っかけられてひやひやしましたcoldsweats02

 また、そういうときは、どうか助けてくださいね m(_ _)m

うちの母ちゃん(診断拒否、PDD疑)、「自分がされて嫌なことは人にするな」と執拗に言います。でも、子供や私の嫌いな食べ物を執拗に食べさせようとします。3日続けて同じ物とか、時には口にねじ込もうとしたり。自分が好きなものだから、子供や私が嫌な思いをしているということが実感できないようです。「それ嫌いだから減らして」ということは伝えていますが、「身体にいいから」と主張します。100%毒か100%薬という食べ物はほとんどないので、対立すると絶対に不毛な水掛け論になります。心に毒だらけの日常に陥るだけです。あらゆる所でそれがおきています。なので、できるだけ一般化した話をしたいのですが、わかりにくくなるので、具体例を一つ使います。

例えば、乳幼児に煎茶は、カフェインを理由として保育所や幼稚園でも出しません。だから私も反対です。でも母ちゃんにかかると、ビタミンと殺菌効果があるので毎日飲ませるべき、になる。(「静岡の幼稚園で煎茶を飲ませて健康」というテレビだか広告だかを見たようです。「テレビでやってた」というのが、この手の人らには、絶対的真実に簡単にすりかわってしまいます。メディアリテラシーの問題ですが、程度概念とか一般化とかが極めて弱いのです。チラッと見たのがフラッシュメモリーに焼きつく感じですね。)

文化的な話をすると、韓国や中東の赤ちゃんはキムチやチリを口にするし、インドの赤ちゃんもカレーを食べるでしょう。でも日本で子育てしてるんだから、常識的な線というのが、自ずから出てくると思うんですね。私だって、もし我が家が仕事の都合かなんかで韓国にいたら、赤ちゃんの口にキムチが入ったりしても驚いたりしないと思います。煎茶を飲ませる文化圏内での子育てだったら、少量のカフェインもやむを得ずと思えるでしょうが、日本でそれをやるというのは、なんか好ましくない物を積極的に摂取させてることになる。なんでそういうことするのか私には(感覚的には)理解できないわけです。でも、母ちゃん側から見れば、その私のダブルスタンダードが理解できなくて敵意をこっちに向けてきます。ここまで頭で理解していても私は子供のために少しでも煎茶の摂取量を制限しようと動かざるを得ない。それを止めるのは難しい。なぜなら、阻止しようとしなかったら、よし、賛成してくれた、という理解に直結するようなので、その次に起きるのは、毎日、煎茶、毎食煎茶、食前食後に煎茶、おやつに煎茶、ということになるのは、経験から考えてみても必定なわけです。「身体にいい」ってわけですから。

母ちゃんと対立することは、家が刺々しい雰囲気に包まれて耐え難い状態になるわけです。しかし母ちゃんと対立を避けることは、子供をカフェイン中毒にさらしてその子の一生に禍根を残すことになる。この究極の回避-回避葛藤にさらされます。家族という閉鎖された拘束環境の中で。

実験神経症、学習性無力感、心因性うつ状態を作り出す最適環境にいるわけです。これで飲まずにいられないならマッサーマンの猫です。胃潰瘍になったらワイスのヨークト群のラットです。絶望を学習したならゼリグマンの犬です。

私も子もこんな環境で生活しています。生活のありとあらゆる場面が、回避-回避葛藤で展開せざるを得ない状況です。ここまで理解して、なお、その環境を離脱しようとしないことは、すでにゼリグマンの犬に他ならないのではないだろうか?と思います。

ゴミ収集癖も『消費』期限切れ食物廃棄の問題も、アフリカ飢饉と関連して正当化されモラハラです。我が家はゴミと埃の山の地雷原です。発達障害児の療育所で習ったことは、「構造化」「可視化」なんて専門的なことばで自閉の親を説得しているけれど、要は「(定型)人並みに」おかたずけした環境で子育てしてあげてね」ということでした。

で私の説。経験から実感している説ですよ。確かに遺伝器質性の自閉症の存在は否定しません。しかし、PDDの大部分、特に高機能群では、小児鬱病が固定化したものではないかと思います。自身がうつになって視野狭窄になったり、メモリースパンに問題が出てきて、その低下した機能で生活していると、母ちゃんや子供の感じ方や、考え方がどのようにずれていくのか、またそのような偏った機能でもって発達した結果がどのようになる可能性があるかを考えると、母ちゃんの言動のある部分が理解できます。それでも、共存できるか(共栄でなくても)という所では、深いため息をついて、奈落の底へ沈んでいきます。。。。。。。。。。。。合掌

joさんへ。
こんにちは。このブログの初めの方のjoさんの所にも、先日コメント入れておきました!
私は、定型か非定型かわかりませんが、大きく揉まれていくうちに、なんだか、二重人格みたいな、どっちの気持ちにもなるようになってしまったんですね。
joさんのお気持ちはよくわかります。私の母が同じでしたから。
私も、昔は母が完璧おかしい、苦痛だと思ってました。joさんが耐えながら生活しているの、よくわかります。
納得までいかないかもしれませんが、糸口をほどくために、今回は、非定型の立場で書いてみますね。

(もし、私がjoさんの奥様だったら…)
煎茶のお話
joさんいわく、私の行為がTVの見過ぎ、新聞にとらわれ過ぎ、というのであれば、joさんの「煎茶はカフェインが多いからよくない」という主張は、どこからの情報ですか?新聞やTVじゃないにしても、何か、どこからかの情報でしょ?

TVの情報はだめで、他の情報ならいいんですか?同じじゃないですか?なにか、煎茶はよくない、という証拠はあるんですか?
カフェインがよくないと言って、出してない所も多いかもしれませんが、健康になりますよ、と出している所もあるんですよ!
よくないのが一般的?一般的という統計はどこからとったんですか?
何か数値でハッキリ出ているんですか?

私が一方的と言うなら、「それもわからなくないですが」←(ここが大事→)何がおもしろくないか…って、 私を一方的と言って、自分も一方的なのがおもしろくないんです(怒) →けんか
となると思います。

第三者として見れば、どちらも意地で主張を通そうとしてるだけにみえるんですね。
お互いに、お互いの話や意見を取り入れて、「今日のおやつは煎茶にしましょ」「昨日は煎茶にしたから、今日はミルクにしようか」と、子供が喜ぶ物を色々飲ませてあげたらいいじゃないですか。となるわけです。
けんかの問題は、「煎茶」か「それ以外か」と言うよりは、
「お互いを、お互いが、否定して、受け入れようとしていない」部分にあるように思います。
joさんを一方的に否定してるわけじゃないですよ!「お互いに」です。
夫婦って、そういうの、多いんですよね(泣)
子供は敏感ですから、けんかしてる→ママが正しいのか?パパが正しいのか?→ボク、煎茶でも、ミルクでも、どっちでもいいのに、そんなんでけんかしないで仲良くして…→そんなケンカしたら、ボクおやつの飲み物、飲めなくなっちゃうよ(泣)→ボクのおやつの飲み物でけんかがおきちゃう…ボク、もう飲み物いらない。→でも、ホントはパパとママとボクでみんなで楽しく飲みたいな…でも、飲んじゃいけない…またけんかがおきる……(延々)」
これをもし、子供が感じていたら、私は、子供が一番可哀想だと思います。

みみさん>(もし、私がjoさんの奥様だったら…)

そのとうりだと思います。そのあたりまで彼女の思考回路は読めています。それで喧嘩にしないで中庸の落とし所をさぐるところに、不毛なエネルギーのブラックホールがあります。自閉系は白黒思考なので「だいたいこのぐらいで」とはならない。

第三者に相談すると中庸を提案するけど、カサンドラにとってはそれはあり得ない。アポロはそうではないですからねえ。(うちやパンダさんちはジェンダーが逆ですが)。母ちゃんの虐待(と私が感じている)事実も誰も信じてはくれませんでした。例えば、母の後追いをする赤ん坊を蹴飛ばしていました。でも目撃者は私一人なんですから。人に言っても私がきちがい扱いされました。「そんなことあるわけない」って。そうだよなぁ。あるわけないよなあ。「俺の頭がおかしいのかなあ。ありもしないものが見えていたのかなあ。。。」本当にカサンドラの日々でした。

みみさん>ケンカしたら、ボクおやつの飲み物、飲めなくなっちゃうよ(泣)

子がダブルバインドに陥ってそのように反応してしまうことも私は父親だけれど直感してたから、口論になりかけたら「その話は子供が寝てからしよう」とコントロールを試みていましたが、母ちゃんはとても我慢できないんですよね。感じたその瞬間に暴発してました。「少しが待てない」ってのも幼児(=発達障害の大人)の特徴です。

加えて、子供に気取らせないで、大人どうしでシグナルを交換することも、(例えば、目配せ(=後で話そう)。定型×定型ならそういうことするでしょう、ドラマや小説にも出てくる)、うちの母ちゃんには無理でしたね。微妙な仕草やゼスチャーや表情をキャッチすることができない。これもよく言われている発達障害の特徴です。

みみさん>子供が感じていたら、私は、子供が一番可哀想だと思います。

子供の反応もそのとうりです。「ボク、どうしたらいいかわからない!」と言ってフリーズしてました。それがようやく最近わずかずつですが、ほどけてきて、パニック頻度が下がってきたのは、子供自身の知力、とりわけ一般化能力が遅蒔きながら成長してきて保育所や学校の先生の言うこと「おかたずけしないと、次使うとき困るよ」とか、ヨソの大人とか、ヨソの家族がどんな暮らしをしているのか、「○○ちゃんとこ、すごいキレイに片付いてたよ」、「冷蔵庫開けっ放し。ピーピーって怒ってるよ」などの情報がキャッチできるようになり、自分なりの情報処理ができるようになってきて、「お母さん、それ変!やめて」と言うことができるようになってきたのと軌を一にします。

一番恐れていたのは、子供の知力が混沌の中に取り残されて、成長が閉じてしまうことでした。(それが自閉だと私は感じている)。そこのところは一安心ついているところですが、そのように、療育所に通ったり、日常の困りごとを穏やかに指摘したりして、知育を後押しして混沌の中から彼を救い出すことが、同時に子供の中の母親像を貶めることとなり、ここでもダブルバインドが生じます。

私が命を助けてもらったと思っているケースワーカー氏によれば、「大なり小なりの遺伝的素質は一つの要素としてありますが、それを開花させてしまうのは、環境だというのが定説になって」るそうです。だから環境を整備してやるのが唯一できることなのだと。『両親』という環境は、どこまで行っても子が選べない環境ということになるのでしょうか。人類すべての個人個人に深い深い影響を及ぼし続ける。。。。。おや、おや、。

あ、野菜かいにいかないと。

〉joさん

joさんも、かなり大変ですね…
何かを感じて、対策は色々とってるんですね…ほんと、辛いと思います。
それと、かなり我慢に耐えてらっしゃって、男性なのに…すごいと思いました。子供の事を一番に考えてあげてるんですね。
せっかく、ここまで、joさんが、頑張ってやってきた訳です。今までの事をムダにしないように、何とか道を見つけていけるといいですね!
仮に、奥様と縁を切っても、子供とは縁がきれませんもんね。
もし、joさんが、未来のお子様の事や、自分の身を考えるなら、離婚して、子供を大切に育てていくか、うまくいく方法を見つけるか、どちらかしかないと思います。
今のままでは、ご家族、それぞれ3人が苦しんで悩み、身も心も壊れていくだけだと感じました。
私が言いたかった事は、私(奥様が)が反論した内容の一つ一つに、(疑問)を持っていて、(屁理屈とは違う)そこが解決されないうちは、わだかまりは(絶対に)取れません。奥さん自ら気づかない限り(絶対)です。
自閉の人は、感じ方が強いため、深く物事を考えてしまいます。その謎が解けないことには、次に進めないのです。産まれてから、「わだかまり」の「塊」なのです。

非定型のみみになります。(例)
「一方的に主張しないで、カフェインの証拠を出して、やさしく説明して教えてください。私は子供が健康になってほしいんです。でなければ、俺も一方的だった、と認めて、謝って下さい」
「結婚した時は、私を愛してる、と言ってくれたのに、あなたは私の意見を聞かず、否定ばかりしますね。愛している人の意見は普通、聞くんじゃないですか?嘘だったんですか?何がしたいんですか?」
となります。
多分、joさんも、思っている事は同じですよね?
人によっては、それ(わだかまり)が、理由で、夕食も作らず、子供に当たってしまったりもします。
「あなたのせいだ」「何でオレのせいなんだ?」となりますよね…

子供も心配です。そのような会話を毎日聞いていたら、大きくなってからだって、職場で「お茶どうぞ!」とか、彼女に「お茶飲むぅ?」なんて聞かれただけで、「お茶」イコール「いけないもの」みたいなフラッシュバックが起きたり、自閉度が強ければ、強いほど、「お茶」という言葉に反応して、いきなりパニックを起こしたり…「そんなのいらない!(怒)」と怒鳴ったり、する場合もありますよね…(泣)
周りからみたら、理解できない、何か訳わかんない…みたいな事でも、本人にしたら、「重要な悪いもの」として、頭にのこってる場合もあります…
自閉症児の、変な、訳わからないこだわりって、そんな所からきているんだと思います。

joさん、「その話は子供が寝てからにしよう」ではなく、「お前の意見も聞いてみたいから、子供が寝たら、ゆっくり2人で話そう。」に変えてみませんか?
それでも騒いだら、「大事な事だから、ゆっくり話がしたいんだよ![(明日早いから、あまり聞いてあげられないかもしれないけど、一時間位なら聞けるから)←ここはダブルバインドになるので言ってはいけない。]…後でゆっくり話そう」
みたいに言ってくれれば、奥さんは納得すると思いますし、子供が聞いてても、マイナスにはなりません。

私は最近、書きまくっているうちに、広汎性発達障害は、治る見込みのある障害なんじゃないか?とも思えてきました。もちろん、年齢の問題や、周りの過酷な努力、学校、職場などのサポートも必要ですが…

joさんの辛いことの一つに、(書いてありましたが)「そんな妻は、周りから悪い人と思われてない」「自分は変な事をいうキチガイと思われている、思われると思う」という所が、強くあると思います。
そこは、本当に、経験しないとわからない辛さですよね。ダブル…トリプルパンチですもんね。まして、男性なのに…
そこで、くじけないでくださいね。誰もわかってくれなくても、この掲示板の人達は、みんなわかってくれると思います。
長々と、失礼しました。

「自分がされて嫌なことは人にするな」
これが苦しみの入り口だったような気がします。

平気で色んな男性と飲みに行っちゃうわけですよ。二人きりで。
お決まりの議論になっちゃいますよね。
俺が同じことしたら嫌じゃないのか?って。

これがダブルバインドって言われてることの一つなんですよね?
自分が嫌だって明言しながら、それを実行したら云々って。
向こうにしたら、嫌なことを何故するの?何なのあなたは?って話になっちゃう。

論調変えて、なんかあったらどうするんだ
友達って言ったって所詮男と女だろっ、てなるじゃないですか。
ASにとってはこれがネガティブな否定的言動であって
悪口を言ってると受け取られてしまう。

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