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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年1月

2011年1月31日 (月)

共感ではなく否定が持つ対話の力

 このブログのコメント欄を通して、もうRosamondeさん、カレンの夫さん、繭さんという3人のアスペルガーサイド(?)の方が、繰り返し発言をしてくださるようになりました。お3人共に共通して指摘してくださる問題もあり、でもお3人ともにすごく個性的で、文章から感じられるお人柄もそれぞれほんとに違う。こういう状態をパンダ語(定型語かどうかは私にはわかりませんが)で「豊かな対話の空間(場)が生まれはじめている」と表現します。それは私にはとても嬉しいことです。

 いただいているみなさん(上のお3人だけではなく)のコメントの一つ一つに、なかなか個人的にはお返事が出来ないこともありますし、またむしろ私が割り込まないで、みなさん同士で話が展開することが良いような気がして、書き込みを控えさせていただく場合もあると思います。さらには個人的にお返事するより、ブログの記事でもっと沢山の方と一緒に考えてみたいと思って控えるときもあります。そのあたり、失礼なこともあるかと思いますが、どうぞご了解下さい。

 なお、今日のタイトルにまた「対話」という言葉を使いました。これについてはRosamondeさんが対話なんて自閉さんには難易度ウルトラEだ、とコメントを下さいました。Rosamondeさんは対話という言葉を、もしかすると状況に柔軟に合わせて、「あうんの呼吸」を使い合うことだ、という意味で使われているのかも知れません。もしそうなら対話が自閉さんに困難というのはわかります。しかし、私が対話という言葉で意味しているのは、例えばRosamondeさんが、「あなたの言うことは無理ですよ」と教えてくださり、それに私がまた「それはこういう意味です」と説明し直すような、そういう「お互いの無理解を理解し直す」というプロセスのことで、「あうんの呼吸」ではないコミュニケーションのことです。つまり、私の理解では、Rosamonde,さんのそういうコメント自体がもうそれで対話の一部になっていると思っています。

 さて、今日書いてみたいなと思ったことは、昨日に引き続きアスペと定型のコミュニケーションの大事な道具としての言葉の力についてです。ブログを始めて間もない頃に、アスペルガーの随随さんからいただいたコメントに、「大切なのは、言葉にとらわれないこと。そして、身体的なもの、物理的なものに主(注:パンダのこと)自身が注目することだ。」という言葉がありました。

 たしかにそうなんです。定型とアスペとのコミュニケーションでは、同じ言葉が同じ意味を表さないことがよくありますから、言葉に囚われてしまうと、お互いに相手の意図を掴み損なって大変な摩擦を生じさせることがよくある。さらに私の経験から言うと、それは音や文字で交わす言葉に限らず、表情などの身体を使った「身体のことば」とでも言うようなものについても、やっぱりなかなか意味が共有されない事が多い。だから、言葉にとらわれないこと、と随随さんが言われたことはその意味でよくわかる。

 と同時に、ここでもうひとつの言葉の力に注目してみたいわけです。それは随随さんが「大切なのは、言葉にとらわれないこと」と定型の人間に注意をしてくださった、その注意もまた「言葉」によって行われているということです。

 日常生活の中で私たちがことばを使うとき、たとえば「その机の上のみかんひとつとってくれない?」と相手に話すとき、私たちはほとんど何も考えずにそのことばを言うでしょう。つまり、そのことばが相手に伝わる、ということをまるで前提にしてしまっています。だからその人がみかんではなく、たとえば台ふきを投げてよこしたりすれば、「なんだこいつは!」と喧嘩になりかねません。

 アスペルガーの方は、しばしば定型の側が「共感」とか「共有」とかを強調することに違和感を示され、「私の考えていることと相手が考えていることが一緒であるかどうかはわからないのになぜそういうことを前提に出来るのか」という疑問を語られます。私の感覚で言ってもとくに日本の社会は「同じ」ということをとても重視する傾向が強く、人にも同じであることを強く求める社会である、と感じられますので、定型の私でもそう感じてしまう出来事に出会うことはしばしばあります。

 とはいえ、上の例のように「みかんとってくれない?」というようなレベルの言葉の場合、たとえアスペルガーの方であっても、「みかん」とか「とる」という言葉の理解が相手と共有されていないということは想定していないのではないでしょうか。

 コメントでカレンの夫さん繭さんが共通して指摘されている「思いやり」という言葉への違和感について、繭さんは控えめに「戸惑う」という表現にとどめられていますが、カレンの夫さんの場合はさらに「白けた気分になったり、強い怒りを覚えたり、徹底的に戦って論破してやろうと決意し実行したりするわけです。」と、そこから戦闘モードに突入されるようです。

 で、なぜ「戸惑う」とか「強い怒りを覚える」ということが生じるのか、と考えてみると、その前提にあるのはやっぱり「自分が想定していたことと違うことを相手が言う(あるいはする)」という事態がそこにあるからではないでしょうか?もしそうだとすれば、そのときには無意識にだろうと思うのですが、「私と相手は同じ理解を共有していると思ってやりとりした」ということがあったのではないでしょうか。だからこそ「相手がそれから外れたことをやり返してきた」という事態に出会って「戸惑」ったり、「怒りを覚え」たりしたということはないでしょうか?

 もしこの私の理解が的外れでなければ、ですが、そうすると問題は「定型は共感とか共有とか、同じであることを押しつけてくる」と言う風にアスペの側の方が感じるのは、アスペの方には共感や共有がないからではなくて、共感や共有の仕方が違う部分があるからだ、ということにならないでしょうか。

 ただし、アスペの方は少数派ですから、通常同じような感じ方をする味方のいない、孤立した状態に置かれやすくなります。そうすると多数派の定型という「集団」に対して、アスペの人は大体は「個人」で対抗しなければならなくなり、そこでは「共感し共有している定型集団」対「孤立したアスペ個人」という構図が生まれてしまう。

 それで、実際には定型は定型なりの、アスペはアスペなりの共有や共感の仕方があるにもかかわらず、「共感や共有を重視し、ひとりひとりの違いを無視する定型」と「共感や共有という幻想を抱かずに、個人として考えるアスペ」というような理解の仕方になっていっている可能性はないでしょうか。私は今はそういう理解をしてみています。

 さて、ここで随随さんのコメントを例に最初に書かせていただいたことに戻ります。随随さんは「言葉にとらわれるな」と書いてくださいました。そのことの実際の意味は「定型の持っている言葉の理解の仕方にとらわれるな」ということではないでしょうか?一見同じに見える言葉や表情、身振りなどが、実際に何を伝えるものかが定型とアスペでずれている場合がよくある。だから定型は定型の言葉の使い方で判断するな、ということを、随随さんの言葉は意味しているのではないかと私は理解します。

 私は「言葉が通じない」ように思える状態を、「その言葉が何を意味しているのかの無意識の理解がお互いにずれている状態」だと理解してみています。そしてそれを調整する試みがアスペ語と定型語の「翻訳」なのです。そしてここで大事になると思えるのは、そのような言葉によるコミュニケーションの調整を可能にするのもまた言葉だ、ということです。

 その調整の力を一番良く現している言葉、それは「共有」の言葉や「共感」の言葉ではなく、実は「そうじゃない」という否定の言葉ではないでしょうか。どうしても共有できない、共感できない世界をお互いに持っているのに、それに気がつかない状態、そこから生まれる様々な激しい葛藤がある。そこで「そうじゃない」という一言が、お互いの考えていることにずれがある、ということをお互いに気がつくきっかけの言葉になると思えるのです。
 

 

2011年1月30日 (日)

言葉を話すということ

 ここ数日、コメント欄でコメントしてくださっている方同士でのやりとりが増えてきたようで、嬉しいんですが、ブログという形はそういう横の交流というのが形としてちょっとやりにくい仕組みだなと感じました。その点は掲示板とか、ああいう形の方が議論の流れもわかりやすいですね。

 それはさておき、コメントでは、次々にとても大事な問題が提起されているように感じます。で、ここでも少しずつ考えていきたいんですが、昨日の夜中からちょっと取り込んでいたり(え?誰です?サッカー見てたんでしょう!という突っ込みは。聖母みみさんでしょう!……はい、その通りでした (^ ^;)ゞ )、昼間はお洗濯を畳んだり、お茶碗洗ったり、お昼寝したりで忙しかったので、つっこんだ議論はお休みさせていただきます m(_ _)m

 ところで、このブログでは、お互いに自分の常識だけで相手を理解して、不必要な誤解を積み重ねたり、必要以上におかしな否定的見方をしてしまったりすることを避けるためにも、定型とアスペの「違いを理解する」ということを大事にしています。けれども、ただそうやって誤解が発生する、ということは、「誤解を生み出すことのできる<共通の>土台がある」ということも意味しているんだ、ということを改めて感じています。

 詳しくはおいおい書かせていただくこととして、カナータイプの(知的な発達の遅れを伴った)自閉の子どものことについて、昔こんな文章を読んで感動したことがあって、ご存じの方もあるかも知れませんが、今日の所はそれをご紹介するにとどめておきたい気がします。

 著者は岡本夏木という、発達心理学の研究者で、養護学校の校長先生をされていたときに、卒業式で体験されたことを「子どもとことば」(岩波新書)という本の「おわりに」で紹介されています。
 
 ひとりの自閉症の中学部の子どもが卒業することになりました。集団的な行動や人とのやりとりが難しく、小学校の卒業式では岡本さんはその子のところまで降りていって証書を渡したりしました。中学生になって三年がたち、その子はそれでもなんとかひとりで登壇し、岡本さんの所まで進んできました。

 岡本さんが早く終わらせてあげようと急いで証書を読んでいると、なにかいつものようにぶつぶつ独り言を言っているのが聞こえてきます。気がつくと、それは「どうもない、どうもない」という言葉だったのです。

 これは普通の意味でのコミュニケーションの言葉にはなっていません。「どうもない」という関西弁は、相手が不安になったり心配したりしているときに「大丈夫だよ」という意味で投げかける励ましの言葉で、岡本さんはべつに最初から「どうもない」わけですから、その子からわざわざ言ってもらう必要はない。そうではなく、実はその言葉はその卒業生が、自分に向けて語っている言葉だったんですね。

 ではどうしてそういう言葉を語るようになったのか。その言葉は(私の想像ですが)たとえば先生と散歩に行って、路肩のコンクリートを平均台のようにこわごわ歩くときなど、先生に手で支えられながら、「どうもない、どうもない」と励まされてきた、そんな言葉だろうと思います。

 「この先生が私の気持ちを支えてくれている、頑張れと言ってくれている、その気持ちに応えて、自分は頑張ってみよう」とか、そういう複雑なことを理解しているのではないだろうと思います。でも、その子にとっては自分に困難なことにあえて挑戦するとき、それは自分を支えるおまじないとして、生きた力を持つようになっていたのでしょう。そしてひとりで壇上にのぼって証書を受け取るという、とても緊張する事態で、彼はその言葉で自分を支えたのです。

 彼に「この言葉はあの人からもらったお守りだ」という意識はなかったとしても、でも彼がその言葉を獲得したのは、そしてそれを自分の支えとして使えるようになったのは、あくまでもその言葉をかけ続けてくれた回りの大人達がいたからです。そしてそこで彼を励まし続けた大人達の願いを、彼は彼なりの仕方で受け入れ、そしてそれに彼なりの仕方で支えられたのです。

 アスペと定型の間では、お互いを傷つけ合うために使われているようにも思える言葉、お互いの不信感を高めるために、相手に対する絶望を深めるために投げつけ合うようにも思えるその言葉も、アスペであろうと定型であろうと、かつてそういう大人から子どもへの願いと共に語られたことを、それぞれの形で受け止め、自分のものとしたのだということを、いつも頭の片隅に置いておきたいと、そんな風に思います。


2011年1月29日 (土)

対話というギブアンドテイクの模索

 ご自身で自分のことをアスペルガーであると理解され、そこからそれまでお互いに傷つけあってきた定型のパートナーとのコミュニケーションを、どう調整していったらいいかを模索されていらっしゃるという繭さんが、このブログを見つけてくださって、コメントを頂けるようになりました。joさんも悩んでいらっしゃったように、定型が男性、アスペが女性のカップルは少ない(rosamondeさんはそのような男性の立場をダブルマイノリティーと表現されています)、ということもありますし、さらに定型の側からではなく、アスペルガーという立場から、定型とアスペのコミュニケーションをどう工夫していけるのか、という問題を一緒に考えてくださる方が少しでもこの場にも加わってくださると言うことは、ほんとに願ってもないことと言う気がします。


 社会的に言えば、アスペルガーの人は少数派で、そのコミュニケーションスタイルはやはりその中で「異端」扱いされます。私を含め、定型のコミュニケーションスタイルしか知らずに、それを当然と考えて生きてきた人間からすると、昨日ほんの一部(でも長々と(^ ^;)ゞ)ご紹介させていただいたように、アスペルガーの人のコミュニケーションスタイルは時にとてもショッキングなものであるわけです。だから多くの場合、結局多数派からだんだん排除され、隅に追いやられていくことにもなる。

 そういう「弱い立場」のアスペルガーの人に対して、定型は「障がい者」という枠組みの中で理解し、定型的な善意の中でその人たちを社会的に「サポート」しなければならない、というふうに考えるようになる。私も昨日の記事では何度もその言葉を使いましたけど (^ ^;)ゞ 。そして医療関係者は「アスペルガー」という「障がい」を一生懸命定義しようとする。そのときの定義はもちろん定型の視点から、定型のコミュニケーションを<正解>として、そこから外れる部分を整理して作るものです。そんなふうに「定型の視点」から定義され、そして「定型の視点」からサポートされる。

 そんな状況は、例えば繭さんのコメントの一つにもこんな風に書かれています。「アスペルガーについての情報は書籍等で手に入っても、定型の人の心の模様の成り立ちを知る術はなかなか見つかりません。定型の方にとっては当たり前過ぎて、語られることは少ないのでしょう。」問題を抱えた対象として語られるのは常に、圧倒的に少数派の方であるアスペルガーの人であって、多数派の定型ではない。

 つまり、排除にせよ、サポートにせよ、結局の所「定型の視点」からそれが行われるようになる、ということ自体はある意味で同じなわけですね。いや、もちろん排除よりサポートがより正しいのは間違いないと、私は思っています。ただ、私個人はその先に出来るならば足を踏み出していきたいと思うわけです。つまり何らかの意味で、対等なパートナーとしての関係を作り上げると言うこと。それがこれまでギブアンドテイクという言葉で表現してきたことの別の言い方にもなります。

 もちろん、それがどんなに難しいことであるか、といことは、たとえばjoさんの痛みに満ちたコメントひとつだけを読ませていただいても明らかでしょう。定型だってみんな悪意に満ちているわけではないですから、出来る限り頑張って関係を良くしようとする。でもどんなに頑張っても、どうしようもない無力感にうちひしがれるような状況がたくさんあり、それでも頑張り続ける人は結局自分を鬱にまで追い込んでいくことになるし、命を失う方だってあるわけです。

 しかもアスペルガーの方達が悪の軍団なのか、と言えば、個人的なレベルでは悪い人もいるでしょうけれど、それは定型だって同じで、決してアスペルガーだから悪意で定型を傷つけようとしているのではない。再び繭さんの言葉です。「私は人を傷付けたくはありませんし、傷付けられたくもありません。もし、相手を知ることでその両方が回避できるのであれば、その方法を知りたいと思っています。」昨日の記事では私がパートナーの言動にどう傷ついたかの例を書きましたけれど、そのパートナーも、アスペルガーという自分の特性を理解し、自分の意に反して私が傷ついていたことを知ったとき、そのことでほんとに大きな衝撃を受けていました。

 悪意があるのなら、ある意味簡単です。スーパーマンなどハリウッド映画のお定まりパターンで、正義の味方に来てもらって、悪者を退治したら良いんですから。でもそんな簡単な問題では決してない。だからこそ、joさんもものすごく傷つきながら、「悪者退治」ですませられずにさらに苦悩を深められていくことになるのだと思います。「奈落の底に落ちていく」と書かれていましたよね。

 そういう状況の中で、私が願っているのが、定型の視点だけでなく、アスペの視点だけでなく、そのお互いの視点をやりとりすることで、なにかお互いの特性を前提にした上での、新しい関係を模索していくことです。私はそれを「対話」と呼びたい気がしているんですけれど。もちろんここでいう「対話」というのは、「なんでも話し合ってなかよくしましょうね。けんかはいけませんよ」というようなお気楽なものではありません。どうやってお互いに理解したらいいのかわからない、話し合えばお互いに傷ついてばかりいる、そういう状況の中でなお向き合って理解し合おうとする、そんなある種の覚悟が必要な言葉だと思います。

 そういう対等の「対話」(これもギブアンドテイクの一つの形でしょう)が成り立つこと自体、ほんとに難しいわけですよね。沢山の方が述べられているように、とくにアスペと定型の間では。すべてのカップルでそれを今成り立たせるなどということは夢の又夢と言っても良いと私は思います。すべてのカップルでそれを追求するのはあまりに非現実的だし、そんなことを要求された人はたまったものではないと思います。だからこそ、たとえば繭さんのように、自ら対話的な姿勢で臨んでくださる方の参加は、とても貴重なものに思えるし、ほんとに嬉しく思えるのです。

 繭さんは昨日こんなコメントを書いてくださいました。

 「私には自分のことしか分かりませんが、それがパンダさんとパートナーさんや他の方達のお役に立てるのなら、それはとても嬉しいことです。……定型か否かを問わず、他人が分かるとその分だけ自分を見つけることが出来るように思います。そういう意味でも、お互いに理解しあえるということは素敵なことと思えるようになりたいですね。」

 「自分の言動が相手の役に立つのが嬉しい」、というのは、定型語で「翻訳」すれば「共感的な関係」そのものだという気がします。「相手を知ることで自分を知る事が出来る」、というのも定型語で「翻訳」すれば「お互いを理解する」ということだと思います。「人を傷つけたくはありませんし、傷つけられたくもありません」、というのは、これも定型語で「翻訳」すれば「思いやりの関係」でしょう。

 もちろん「翻訳」には誤訳がつきものですし、またそうでなくても微妙なニュアンスのズレが伴うのはもう避けようがありません。でも、そういう誤訳やニュアンスのズレをも少しずつ調整しながら、対話的な関係を一歩ずつ、それが可能な人との間で深め、さらにはその周辺の方達に広げていく。どこまでできるのかは全然わかりませんけれど、世の中にそういう試みはあってもいいのではないでしょうか。それはこれまでの「排除する・される」関係とはもちろん正反対のものだし、「サポートする・される」というある種の上下関係を前提にしたものとも違う、新しい、何らかの意味での対等なギブアンドテイクの模索になるような気がしています。

(ただ、こういう発想パターンそのものが、定型(の一部?)に特徴的で、アスペルガーの人にとってあまり意味がない可能性もあるわけですけれど。その辺も手探りですね。)

2011年1月28日 (金)

限られたエネルギーの配分

 引き続きjoさんからいただいているコメントから考えています。(うーん、読み返してみて実にまとまりのわるい、だらだらと長い文章ですが、それも含めて現時点でも私のある真実を現していると考えてこのままにしておきます。読みづらく、わかりづらいかと思いますが、どうもすみません)

 チロさんから新たに頂いたコメントにも書かれていますが、定型とアスペのカップルが抱えた問題がとりわけ難しくなるのは、やっぱり子どもの問題が絡んできたときだろうと思います。(以下、いつものことながら、あくまでも定型のひとりである私の視点からはこう見える、こう感じられる、というだけのことです)

 今ふと思い出したんですが、子どもがまだほんとに小さい幼児の時、私が家にいれば寝るときに一緒に布団に入ってお話しを読んだり、あるいは私の即興のでたらめの物語(ほんとにひどい内容でした (^ ^;)ゞ )をしてほしがったんです。そういうの、子ども時代はとても大事だし良い思い出だと思うし、自分も子どもに喜ばれるのが好きなので、苦手な即興物語作りも冷や汗ものでやってたんですね。

 いや、ほんとにメルヘンのかけらもない、しっちゃかめっちゃかのひどい話でした。物語りの才能のかけらもないことが自分でよくわかりました。子どもにはその意味では「ひどい情操教育」でなんか悪かったなあと思っていたんですが、大きくなってから、あれがすごく楽しかったと言われたんですね。すごいホッとして嬉しかったんですが、まあいずれにせよ、そういうのって、子どもにとって大切な時間だよなあという感覚はごく当然のこととして思っていました。

 だから、読み聞かせや物語が終わって子どもを寝かせ、私にとってもささやかな幸せの時間をすごして布団から抜け出て、隣の部屋にいるパートナーと「寝たよ。なんか今日の話もひどかったけど、おもしろがってた」「そう、よかったね。ごくろうさま。それにしてもひどい話だったね。あなたセンスないね~。もうちょっと面白くできないの?」とか、そういう会話を交わそうと思ったりしてるわけです。ところが実際は子どもの寝ている部屋を出てくるなりパートナーからは「どうしていつもそうやって話をするの?寝る時間が(いつもより)遅くなるじゃないの。」という言葉が、不機嫌そうに見える顔をしながら投げかけられるんです。

 初めての時は「え?」っと思って、自分が何か聞き間違いをしたのか、あるいはパートナーがよほど虫の居所が悪かったのか、話の中身が何か気に障ることがあったのか、ほんとになんのことかわからずに混乱しました。ただ、本気でそう言っているとはとても信じられなかったので、「え?いや、まあ、このくらい大丈夫でしょう」とか自分でも訳のわからない会話になって終わりました。

 しかし彼女自身、本はとてもよく読む人だし(多分その影響で子どももすごく本を読むし、家で本を一番読まないのは私なのですが(^ ^;)ゞ。うーん、そう考えるとパートナーの方がいい教育をしているのかしら?)、そういう物語の楽しみを否定的に捉えるとも思えなかったし、ほんとに訳がわからない。

 にもかかわらずそういうことが度重っていきます。もし本や物語の楽しみを否定しているのでないとすれば、しかも時間がいつもより遅くなるって言ってもほんの10分やそこらのことで、それで子どものあれだけの楽しみを奪おうとするなんて考えられないとすれば、一体何なんだろう?と考え込まざるを得ない。

 私はどっちかというと(というかどっちかと言わなくても (^ ^;)ゞ )もともとちょっと羽目を外して子どもと遊ぶことが大好きで、子どものようになって(あるいは子ども以下になって?)きゃっきゃと騒いでいると、また何か不機嫌な顔(に見える)で否定的なことを言われたりする、というようなことが積み重なるんです。

 そういう中で、「もしかするとこの人は自分が子どもと仲良くすることを嫌っているのだろうか?」とか、自分と子どもをがしっとした枠組みに押し込めて支配しようとしているのだろうか、というような得体の知れない猜疑心、そしてなんとも割り切れない思いがオリのようにつもっていきます。

 今だから頭ではそういうことかと思うんですが、私のパートナーは「決められた時間にきっちり寝ない」ということに、本当に不満か不安か心配か、そこはよくわからないのですが、そういう「割り切れなさ」を感じていたんだと思います。そして本当にそれは子どものためによくないと感じていたんだろうと思います。でも当時はそんな考え方、感じ方が、しかも微動だにしないような固さで存在しうるなんて、想像もしなかった。

 そういうひとつひとつのことはある意味で些細なすれ違いで、自分の思い違いだろうかとか、そんなに深く気にすることでもないとも思えるようなのかもしれません。だから長い時間一緒にすごすような関係でなければ、それを見た人は一瞬あれ?っとは思っても、まあ例外的なこととして忘れてしまうでしょう。よほど子どもの扱いに専門的になれた人なら別かも知れませんけれど。

 でも、私も自分が子どもの頃からの子ども好きで、障がいのある子を含めて、子どもとの付き合いが結構あったし、そこで得られた「こういうことが大事」という感覚からして、何か子どもの成長を考えるときに本質的に重要と思えるようなところで、スッ、スッ、とカミソリで付けられるような心の傷が重なっていきました。そしてその痛みがほとんど一度もといっていいほどに癒されることもなく、積み重なって増えていくんです。

 (ただパートナーの名誉のためにも付け加えると、それは決して「悪気」ではありません。アスペルガーという認識が共有された現在は、どういうときに傷つくのか、ということをずっと話し合いを続け…話し合いの成立自体なかなか大変でしたが…、そして彼女が大きな困難を感じながらも一生懸命理解しようとする姿勢を持ってくれることによって、ごく最近のことですが、この傷の積み重なりがほんとうに無くなってきています。考えてみるとものすごい変化だと思えます)

 立場を変えれば、私の方もそういう傷を知らないうちにパートナーに積み重ねた部分があるんだろうとは思うんです。繭さんもコメントの中で「それまでパートナーである夫と、理解し難い傷付け合いが数多くありました。けれども、お互いに相手が何故痛がっているのか、すぐには分からない事がほとんどでした。」と書かれているように、そういうことは単純に一方的なものではないだろうと思うんですね。

 でもそこをまだ十分実感できないのが、私の今の限界だろうと思いますし、そこはこれからも考えていきたいと思っているんですが、とにかくなぜそういう展開になるのか訳のわからない状況の中で、昨日書いたように子どもが「ああ、やっぱりそうだったか」と思える感じでほんとに深刻な状態になりました。そしてもうこの家族の先は何も見えなくなるという絶望的な感覚の中で、それでも薬を飲みながらとにかくこの状態をどうにか切り抜けなければという気持ちだけをぎりぎり保っていたわけです。

 その段階では仕事はなんとか続けながら、薬で確保したとても限られたエネルギーを一体どう使うのか、そういう問題を突きつけられました。そういう経験を経てのことですが、joさんの話を読ませていただいていて、限られた時間と限られた資源(周囲のサポートや自分自身のエネルギーなど)を前提としたばあい、どうしてもその資源を現時点でどこに一番振り向けることが長期的に見ていいのか、という、ある種優先順位を考えざるを得ないという状況があるのではないかと、改めて思わざるを得ませんでした。

 私の場合はとにかくそのエネルギーをまずは子どものサポートに振り向けました。と言っても子どもとの間にサポートを受け入れてもらえる関係を回復すること自体が大変だったわけですが。もちろん夫婦そろってサポートするのが当然の筈なのですが、そのために話し合いをしようとしても、共有されるのは「子どもが苦しんでいる」という認識までで、なぜそういう状態になるのか、何がポイントなのか、どうすることがいいのか、と言うことについての相手の理解は、お互いに全く了解不能な状況で、そのうちに話し合いも拒まれるようになる。(そのように拒まれた理由については、繭さんのコメントの最後の一節が改めて私にはヒントになっています)

 そうはいっても、子どものことでパートナーも本当に深く苦しんでいることは見た目に明らかで、私に能力とエネルギーがあれば、そのサポートをしなければならないとは思いながらも、私が「こうしたら少しは力になれるのではないか」と考えて行うことはことごとく意味を持たない、と言う無力感を嫌と言うほど味わって、もうそこは目をつぶらざるを得ませんでした。もうそこに使うエネルギーは私には残っていなかったのです。さらに言えば実家との関係も修復を必要とし、両親に対する子どもとしてのサポートをしなければならないことも理解しながら、それはもっと後回しにせざるを得ませんでした。

 そうやって子どものサポートに残りのエネルギーを集中し、ようやく現在は子どもについては基本的に大丈夫だと感じられるところまで来ています。その上で、現時点でも相当のダメージを引きずっている自分自身を改めてケアしながら、パートナーとあらためて向き合う段階に来ていますし、ほんの少しですが、実家との関係にも改めて目を向けることができ始めました。もちろんお医者さんも含め、そのプロセスではいろんな方に支えられてきましたし、また現在ではこういうブログなどを通しての新しい関係の中で支えられ、「次」を考えられるようにもなり始めています。

 ここまでのプロセスの中では、自分自身がもうどうしようもなく破綻するという経験も含め、今考えて私としてはこれができることの限界だった、あるいはすでに限界を超えていたと思います。それ以上の能力は私には備わっていませんでした。だから、もしもたとえばパートナーとの関係がさらにシビアであったりとか、もう少し条件が悪ければ、エネルギーの使い方もさらに全く異なった方向に向かっただろうと思えます。たとえばもっと早い段階で離婚するとか、あるいはさらに厳しい選択肢など。

 そういうわけで、みみさんには怒られてしまうかも知れないのですが(どうかお許し下さい m(_ _)m)、どうしようもない自分の限界を抱えて優先順位ということを考えざるをえない状況では、場合によってはどこかの関係については、少なくともその時点ではあきらめざるを得ない、という状況も出てくるだろうとやっぱり思えるんです。もちろん未来永劫あきらめると決めつける必要は無いし、一旦離婚したけど、やっぱりもう一度やり直してみようということがあってもいい。けれどもある時点ではそれ以上もうどうしようもないということは確実にあると、私には思えるのです。

 なぜそういうある種の確信を持つのかについてはまた改めて書く機会があればと思いますが、優先順位としては一番の弱者をまず守れる状態を作る、ということではないかと私には思えます。また自分が一番の弱者の場合は、やっぱり自分を守ることが優先されるべきだろうと思います。もちろん誰が弱者か、って具体的には判断は難しいとしても、基本線としては、ということです。joさんやチロさんのコメントを見ながら、なんかしきりとそんな気がしました。

2011年1月27日 (木)

困難さのパターン

 私同様、定型&アスペ夫婦の中での少数派である定型男性、jo さんがコメントの最後にこんなことを書かれています。

「母ちゃんや子供の感じ方や、考え方がどのようにずれていくのか、またそのような偏った機能でもって発達した結果がどのようになる可能性があるかを考えると、母ちゃんの言動のある部分が理解できます。それでも、共存できるか(共栄でなくても)という所では、深いため息をついて、奈落の底へ沈んでいきます。。。。。。。。。。。。合掌」

 私も子どもが小さい頃、まだアスペルガーとかそういう判断が全くなかったときですけれども、子どもの将来への影響にとても危機感を(直感的なものですが)抱いて、子どものために離婚をかなり真剣に考えていた時期がありました。ただ、子どもを母親から引き離してしまうことで新たに生じる問題との兼ね合いで、身動きが出来なかったというのが正直なところです。

 もちろん、「アスペルガー」ということがその段階でパートナーと共有された理解になっていたとすれば、状況はぜんぜん違っていたと思います。でも誰にもそういう理解がない状態で、言ってみれば定型の常識の枠内で自分なりに思いつく形で子育ての仕方についてパートナーと調整をしようとしたのですが、それがほんとにうまくつたわらないし、議論が噛み合わない。もう、子育て観の深刻な対立だとしか理解できなかったので、それならばもう子どものために別れるしかないのではないかと、そんな気持ちに追い込まれていたんですね。(すみません。この辺りはあくまでも定型の私の視点からの話なので、どうしても定型の子育てを正当なものとして書いてしまいます。逆に言えば私の子育ての問題点を見過ごし、パートナーのそれを一方的に不当に貶めている部分も必ずあるはずです。そういう限界のある議論だという前提でお読み下さい)

 結局その後も仕事にかまけて子どもたちを(定型的な視点から見て)ちゃんと支えてあげることも出来ずに、思春期に入る段階になってやっぱり深刻な問題となって現れてしまい、そのことへの自責の念が最初の鬱状態の原因となったりもしました。そういう経験から言って、joさんの上のような言葉はやっぱりすごく重たく響くんですね。

 と同時に、joさんの上の文章にも出てくる、ありきたりの理解や試みを経た後の本当に深いため息や、具体的に書いてくださっている深刻な中味を見る限り、お互いが抱えている状況の違い、という面もすごく感じざるを得ないです。

 私の場合、結果的には子どもは命がけと言っていいすぎでないような大変な葛藤を経て、その困難をほぼ乗り切りました。しかもいわばその体験を深く活かす形で自分の足でしっかり前向きに歩み始めてくれています。そして私自身もさまざまな葛藤を経て、周囲の皆さんにも深いご迷惑をかけながら、大きく変わらざるを得なかったし、また自分の中の矛盾をはき出さざるを得なかったし、さらにパートナーとも問題を共有できるようになってきましたから、その大変な時期を、家族全員にとって価値ある時期だったとプラスに受け止めることも将来的には不可能ではないかもしれない、と感じ始められるところまでは来ています。

 もちろん、そこでは私もパートナーも子どももみんな苦しんで、みんな絶望の淵をさまよって、ぎりぎりの努力の中で家族という形態を危うく維持しながら、ようやく今の地点まで来てはいるのですが、でもその経験が jo さんが抱えられている現実に対してどれだけ有効なんだろうと考えると、正直わかりません。なにか私なんかよりももっともっと深刻な、厳しい条件を感じてしまうのです。厳しさという量的な判断でいうことが不適当だとすれば、状況の性格の違いと言っても良いです。

 アスペルガーと言ってもその自閉的な傾向のレベルはほんとに様々です。価値観も様々だし、パートナーに対する態度あるいはお互いの関係だってそれぞれすごく違う。絶対に一色単には考えられません。もう、このことばっかりこのブログでは嫌と言うほど繰り返し書いているような気がしますが、でもほんとに改めてそう感じるんです。

 とはいえ、まだかすかに予感のレベルで思うに過ぎないのですが、自閉のレベルや価値観の持ち方の違いといったいくつかのポイントに注目すれば、それぞれに応じた工夫の仕方や、関係調整のある程度の可能性の範囲(逆に言えば不可能な領域)と言ったものが、ひとつの手がかりとしてある程度は一般的に整理できるのではないか、という気もします。

 たとえば今までも考えてきたことで言えば、多くの方が言われているように、そして自分自身の経験からも強く実感するように、やはりお互いが「アスペと定型のズレ」という問題を、困難はあっても共有しようとする姿勢が持てるかどうか、そこはかなり大きな分岐点なように思えます。もちろんそこが共有されれば、関係が維持され、さらには良い方向に調整されていく可能性はとても大きくなると思えます。

 それが現状で困難な場合は、何がそれを妨げる要因となっているか、ということを整理してみる必要があるように思えます。社会的なものとしてはジェンダーも大きく関係していますよね。性別によって決まる社会的な役割や権力関係みたいなもの。それにものすごく固執するタイプの人とか、あるいはそれに固執させるような回りの環境などが強固な場合は、夫婦間で対等に問題を共有する、ということがとても困難になるだろうと予想できます。だからそこを克服する現実的な可能性がどこまで見通せるか、ということがいろんな判断を分けるポイントになりそうに思う。

 「障がい」というものに対する抵抗感も強く関係するでしょうね。何がその抵抗感の強さを左右するものなのかはそれもまたいろいろでしょう。その人が育った環境の中で、障がいというものに対して著しく差別的な見方が支配的であれば、当然それに影響されて本人自身そういう理解を拒みやすいでしょう。またパートナーやその実家などが障がいをどう受け止める人なのか、あるいはどう受け止める人と感じているのか、も大きく影響しそうです。もちろん私自身がそこに躓いていたように(当事者としてかっこわるく考える)、口先できれい事を言うレベルの話ではなく、実際に当事者としてその場に置かれたときの受け止め方が問題になるわけですが。

 あと、思いつくままに書いてますが、定型の側の人が持っている価値観や性格との相性もやっぱり大きそうに思える。まだほんとに直感的なことで、具体的には何も言えませんけれど。それによっても可能性の範囲はすごく変わるように思えます。このあたり、いろいろみなさんの経験を読ませていただいたりしながら、さらに継続して具体的に考えていくべき事ですね。

2011年1月26日 (水)

障がいと個性

 昨日チロさんからいただいたコメントでも、改めてアスペルガーという「障がい」とその人の個性の関係について書かれていました。それでふと思い出したことがあったんです。

 もう大分前ですが、ある知的発達の遅れを持った子どものお母さんが、そのことを知らされてからほんとに「私はどうしたらいいんでしょう」状態になってしまって、それで、それまで気にもしていなかった子どものひとつひとつの行動がみんな「障がい」のせいなのかも、と思えてしまうようになってたんですね。それで、「この子最近よく笑うようになったんだけど、これも障がいのせいなのかしら」と悩んじゃったりされてたんです。

 もちろんそれはこどもの状態が良くなって、機嫌良く過ごせるようになったし、周りの人との感情的な交流も盛んになってきた、という、すごいいい成長を現していると私には思えたんだけど、でも「この子は障がい児だ!」という思いの中でしかその子を見られなくなってしまっていたお母さんには、きっとすごい不安と共にリアルにそういう心配をされたんでしょうね。

 障がいの問題もそうだし、異文化との接触でもそういうことが起こると思うけど、「自分のそれまで持っていた常識がそのまま通用しない世界」にぶつかると、それまで自分が持っていたすべての常識がどれもこれも全部通用しないのではないか、みたいな不安に襲われるという風にもなるのかなと思うんです。で、あらゆることが「障がい」とか「文化の違い」のせいに見えてきたりする。この状態って、上のお母さんでもそうだし、かなりしんどい気がします。

 でも、改めて素朴に考えてみれば、身体の中を同じ血が流れてるわけだし、家庭や地方や文化によって食べる物や食べ方は違うかも知れないけど、口の中に入ってからあとは同じように消化されていって、で、最後に出てくるもの(お食事中の方すみません m(_ _)m)も、まあ同じようなものが出てくるわけですよね。食べ物によってちょっと柔らかさとか色や「香り」に違いはあるけど(^ ^;)ゞ 。 息をするときに二酸化炭素を取り込んで酸素をはき出す人もいないわけだし。

 ただ、繭さんも言われているように、いろんなことの感じ方とか、それにどう対処すべきかと言うことの理解とかはやっぱりひとりひとり違う。そしてその違いというのは「個性」というレベルで考えられるものもあるし、それを越えて「障がい」と「定型」みたいなレベルで考えられるものもある。Rosamondeさんのところなどは、同じような「障がい」のご夫婦の間で、それぞれになかなか理解しあえない「母語」みたいな自分の世界があって、それを前提に夫婦の共通語という「第二言語」を作る必要もあるくらい、その「障がい」がまたひとりひとり個性的だったりもする。

 なんかその「同じ」というところと「違う」というところの区別というのか、兼ね合いというのか、バランスというのか、組み合わせというのか、なんと言っていいのか難しいけど、そこがなかなかすっとはわからない感じなんですよね。それで苦労することもすくなくない気がします。それでよくわかんない中途半端な状態ってしんどいですしね。

 私自身の実感としては、そのあたり、ほんとに手探りでひとつひとつ確かめている感じです。で、このブログでも私個人の体験を書かせてもらうと、「自分の所と一緒だ!」というようなコメントを頂いたりして、ああそうなんか!と感じたり、あるいは他のかたのブログを読ませていただいて「一緒だ!」と思ったりして、それで単なる個性ではなくて「障がい」というレベルでの共通性を感じることもあるし、逆にiroriaさんご夫婦とカレンさんご夫婦の話を見て、同じアスペルガーの男性でも、全く正反対と言えるほどにこれほど違うんだ!と思えるものもある。

 チロさんが疑問に思われている「夫と価値観が合わないと感じるのは、世間体重視する、弱い立場の人を差別する、エリート意識などです。これもアスペルガーゆえに身につけた性質なのでしょうか?わからなくなります。」という問題などについては、今のところは私は同じアスペルガーでも私のパートナーとはかなり違うなあと言うふうに感じます。たとえばアスペルガーの人って自己評価がものすごく低い人が多いという話をよく見るんですが、私のパートナーもそれには悩まされている感じがします。エリート意識は全然感じません。仕事もいわゆる「弱い立場の人」を支援する方の仕事です。

 ただ、これはすごい一般論からの想像にすぎないんですが、人に対してすごく権力的に振る舞う人って、障がいのあるなしにかかわらず、「相手の人のことを理解することが苦手」な人が多いような気がするんです。だからお互いに納得し合って物事を進めていくよりも、立場や力を利用して強引に従わせようとする。で、それって実はある種の不安や恐怖の裏返しなのかなあと思ったりすることもあるんですね。

 その意味では、アスペルガーの人は特にそのあたり苦手で、そして潜在的には不安を一杯抱えざるを得ないと言うことになるわけですから、そういう苦手を「克服」して不安を押し殺す方法の一つとして、もし自分がなんらかの権力を持てる立場に立てた場合は、それを最大限に活用するという方向にどんどん進んでいく可能性はあるかなという気がします。「男性であること、高学歴であること、大きな組織の一員であること」などはそういう「権力」を社会から保障される立場ですよね。

 そうすると、私の理解としては、権力的に振る舞ったり、そういう価値観になるというのは、アスペルガーだからというわけではなくて、世の中に一定の数そういう人たちはどこにでもいるのだけれど、でもアスペルガーの人は自分の苦手を克服するために、そういう方法をより強く求める場合がある、という感じになるんじゃないかなと思います。いや、具体例として知っているわけではないので、あくまで一般論に過ぎませんけど。そしてもちろんその逆に、弱者の役に立ちたいと思うようなアスペルガーのひともいるのは間違いないと思います。狸穴猫さんなんかもその典型ですけどね。ほんと、あの人すごいなあ。


2011年1月25日 (火)

耳かき並の度量をどう確保するか?

 昨日はアスペの方のブログを読んで、(定型の私が)その痛みに(勝手に)共感してしまう、という話を書いた訳ですが、もちろんそういうのもなかなか困難という場合だってあるんだろうなあと思います。

 自分のことを思い返してみると、耳かき位の度量しかない人間が、それでもブログを読むという形でならアスペの人に共感できることがあった、ということには、いくつかの前提があったかもしれないと思いました。そしてその中で多分大きいのではないかと思えるのは、自分が「アスペと定型のズレの問題に苦しんでいる」ということを、まずは子どもとの間で(子どもも苦しんだので)、そして次にパートナーとの間で、そしてさらにはパートナーに了解を得て親しい何人かの友人との間で共有させてもらえた、ということです。

 定型の子どもや友人については、同じ定型の私がなぜそれに苦しむのかはとてもよく共感してもらえるので、それはすごく支えになります。またパートナーとの間ではお互いに「なんでそれで苦しむのか」が、実感としてはなかなかよくわからないのですけれど、でもとにかくそのズレによって苦しんできたのだという認識は共有され、否定されることはない。だから、ある意味では私は安心して(?)自分のしんどさに向き合える部分があるわけですね。子どもや友人に愚痴も聞いてもらえたりするし。そうするとなんとか耳かき程度の度量はぎりぎり確保されるのかも知れない(ということはそれがなかったらどんだけ度量がないんか!ということですが (^ ^;)ゞ )。

 前にご紹介したiroriaさんの例(iroriaさんの例:「理解の共有」とジェンダーカップルの解消と持続を分けるもの)で、iroriaさんがどれほど辛いだろうと私が思ったことは、なんと言ってもパートナーの方が一切アスペと定型のズレという問題を共有しようとされなかったことです。そしてご自分が本当に頑張りやさんであるために、なかなか愚痴も言えない状況に自分を追い込んで行かれたのではないかと感じられたことです。そういう状況でなおアスペの側の視点を理解しようというのは、もうぼろぼろに傷ついた自分をさらに切り刻みながらの、文字どおり超人的な努力としか言いようがない感じがして、実は私は読んでいて途中からは痛々しく思えてなりませんでした。(いや、私の勝手な思いこみかも知れませんけど)

 やっぱり、異質な他者に対する共感が成立するためには(というか、その可能性が出てくるには、というレベルの話ですが)、まずは自分自身のしんどさについて、共感される場、共感的に支えられる場がとても重要なのではないか。そんなことを思ったわけです。それがあってようやく、初めて少し度量を持って相手の立場を考えられるようになるかもしれないと。

 そう考えると、「配偶者の会」みたいに主に定型の人同士が自分の思いをかなりはき出せるような場や、逆に狸穴猫さんのブログのように、(あそこは定型をも巻き込んでいるすごさがありますが)アスペの人たちが「定型っちゅうのはどうしようもない連中じゃね」みたいな感じで、世の中の定型優位な見方を覆せるような場を共有できる機会がある、ということは、すごく重要なことなんじゃないかと思ったわけです。しかもどちらも決して単純に自分たちの殻に閉じこもるだけの場にはなっていないところがまた重要だという気がします。rosamondeさんの活躍もまたそこにつながるものを持つのかもしれないですね。

 いずれにせよ、ここに書いたことは定型の側の、しかも私という個人の経験に基づいてのことに過ぎませんから、定型の人たちの中でどれだけそう言えるだろうかということもわかんないし、さらにはアスペの人にとってそれが通用する話なのかどうかはさらにわからない訳ですが。

2011年1月24日 (月)

アスペの人のブログを見ることの効果

 私は基本的にめんどくさがりやのさぼり好きなので、他の人のブログとかもなかなか見ることはないのですが、アスペと定型のコミュニケーションの問題など、自分自身やむにやまれず見ずにはおれない、という状況になったりして、それでぼちぼち読ませていただくと、ほんとにいろいろな発見があります。

 中には「私はアスペルガーだ」ということをタイトルに掲げて書かれているブログを読んでいると、いくら読んでも私のイメージするアスペルガーの像とは重なってこないものもあります。たとえばなんだか自分はこれほど天才的なのにどうしてみんなは私を認めてくれないのか、というような話が延々と続いていて、「人から私はどう見られているのか」のみに関心が向いているような感じだったりする。不思議に思って私のパートナーに聞いてみても、やっぱりイメージずれるみたいなブログもあって、なんだかこの人自分勝手に「アスペルガー」ということを売り物にしているんかなあと、釈然としない思いをするものにも出会います。
 
 ただ、もちろんそういうのは一部に限られていて、先日「いい人って?」でご紹介したしろさんのブログでもそうでしたし、ほんとに純真な心で辛い世の中を傷つきながら生きている、という感じが伝わってくるものもあるし、狸穴猫さんみたいに、ある意味壮絶な生活暦を持ちつつ、「関西の元気なオバチャン!」というような感じで、世間的な「マイナス」をそのままプラスに変えちゃって、ほんとにたくましく「障がい」を足場に堂々と生きていらっしゃる姿に出会ったり、やはり理解しがたい定型の世界の中で傷つき傷つきながら、一体こんなに自分を傷つけている仕組みはなんなんだろうかと、ひとりの世界の中でこつこつこつこつと自分なりの理解を積み重ね、それをブログにさまざまな怒りや悲しみをも時折交えながら、ぶつぶつとつぶやき続ける方もあるし……

 で、以前alonaさんはコメントの中で自分はそうならないと書かれていたので、これから書くことがどこまで一般的に言えることなのかはわかりません。ただ、私にはそういう効果があるような気がするし、アスペと定型のコミュニケーションを考える上でのひとつの手がかりになるのではないか、ということで書いてみたいと思います。

 人間関係をうまく成り立たせるための格言の一つに「自分がされて嫌なことは人にするな」というものがあります。多くの場合、これはかなり言えることな訳ですが、けれども定型とアスペの関係ではここがものすごく落とし穴になり得ますよね。それは「つらいときにどうしてほしいのか(2010/12/21)」にも具体的に書いたことがあります。相手のためには自分はしてほしくないこと、をしなければならなかったりすることがある。

 もちろん定型間でもそういうことはあり得るわけですが(たとえば自分は嫌いな食べ物だけど、それが好きな人のために作ってあげるとか)、そのズレのレベルがやっぱり違う。定型の想像の範囲を超えた形で違いがあったりするわけです。「つらいときにどうしてほしいのか」にも書いたように、場合によって定型の側がそれをすることに罪悪感すら抱くようなことだったりするわけですから。

 つまり、「自分がされて嫌なことは人にするな」という格言は、自分と相手の感じ方は同じだろう、という前提があって成り立つことです。そして定型とアスペとでは、まさにそのかなり基本的な感じ方のところでズレが起こってしまったりするので、その格言が通用しなくなってしまう場面が沢山出てくることになります。ということは、自分の感じ方を基準にやりとりを考えられず、相手の感じ方を理解することがどうしても必要になる、というややこしい話になってくるわけです。そうすると、「頭では相手がこうしてほしい、ということは理解できても、気持ちでは納得しきれない」というような状態も起こる(「頭で納得することと気持ちで理解すること」)。みみさんの議論で言えばこれもダブルバインドの一種なのかも知れません。

 この状況を(とりあえず定型の側からですが)越える方法はあるのだろうか?ということがこのブログで考えてきたことの一つです。そしてふと思いついたことが、私がアスペルガーの方のブログを読んだときに感じたことだったのです。それは何かというと、「この人は、ほんとに辛い思いをしているんだな」ということがなんだかじわーっと、あるいは時にはショッキングな形で伝わってくる、その感覚です。

 いや、これを言うと、パートナーに怒られそうなんですけど (^ ^;)ゞ というのは、「私があれだけ言っても理解しないのに、なんで他の人のブログで納得するの?私のいうことは結局信じていないわけ?」と言われそうな気がするので……

 ただ、言い訳をさせていただくと、やっぱり現実に生活を一緒にしているパートナーとの間では、積み重なった矛盾がすごく大きくあるので、なかなか自分のある種の「利害(立場への固執)」を越えて、素直に相手の状況に身を重ねてみる、という余裕自体が出てきにくいんですね。あ、これは耳監督に指摘されたことで、耳かきくらいしかない私の度量の問題なんかもしれませんが (^ ^;)ゞ、ま、とにかく俗物の私としてはそうなわけです。

 ところが、ブログで読むと、その人との間にはなんと言っても距離がありますし、これまでの「恨み辛み」みたいなものは全然無いし、直接の利害関係がからまない分冷静になって、自分の小さな度量を仮に大きくして読むことが可能なのでしょう。相手の視点で問題を感じやすくなるんだと思います。それでその人の抱えているしんどさも相対的に感じやすくなる。

 そんな風に相手の人の「痛み」を感じられるようになると、俄然相手の人がリアルな人として実感されるようになったりするようです。ま、私の場合、ということなんですけど、勝手にこちらから共感が成り立っちゃったりする。「そうか、自分も辛いんだけど、この人も辛い思いをしてるんだなあ」みたいな感じで。

 その時点でも、具体的に何に痛みを感じるのか、とか、そういうことはやっぱりすごく違っていたりはするわけですね。ただ、その「形」の違い以上に、痛みという「中味」の方で共感が成り立ったりする。何かが共有されたような気分になったりする。それは「頭での理解」ということを一つ越えた何かなのではないか、という気がするわけです。

 そういえば、阪神淡路大震災で家族を亡くしたり、苦しみを背負った人たちの自助グループに関わっている人の話を聞いたことがあるんですが、その参加者のそれぞれは自分の苦しみは最終的には完全には誰にもわかってもらえるものではない、という実感を強く持っているそうです。だから、その自助グループのメンバー間でもそれは同じ訳ですね。それじゃあ自助グループになんの意味があるかというと、「あんたの痛みは私には理解しきれないし、私の痛みはあんたには理解しきれない。そういう重たいものを抱え込まされてしまった。」ということを、お互いに「共感」しあえることに意味があるという訳です。

 「共感が不可能なこと」を「共感する」という、なんだかコペルニクス的転回?みたいな話ですけど、でもそれがほんとに大きいと言うことで、それは私もなるほどなあ、とわかる感じがするんです。「人間って、最後はひとりで死ぬわけだし、結局孤独だよね」といってお互いに孤独であることに「共感」し合ったり、それと同じような感じですよね。

 アスペルガーの人のブログを読むというのは、そういう新しい見方に自分が移行するための、ひとつの道になるのかも知れないなあと、ちょっと思いました。

 

 

 

2011年1月23日 (日)

アスペルガーの人の「傷」について

 今、みみさんからこれまでの記事に次々にコメントを書いていただいています。次があるのかもしれないし、全貌はまだわかんないんですけれど、とにかくすごいエネルギーで、ご自身のこれまでの体験からみみさんなりに一生懸命積み重ねてこられた大事な理解を、何とか言葉にして伝えようとして下さっています。

 私の理解力の限界のせいで、どこまでそれを受け止められているのかはわかりませんし、これから書くことも私の誤解とか、あるいは本筋を外して周辺的なことなのかも知れませんが、いずれにしても、これまで私がなんとなく気になっていた問題にぐいぐい迫っていかれている気がしたんですね。

 アスペルガーの人は感情がないとか、感情を理解できないとか、共感がないとか、だから機械のように冷たく論理的にしか考えられないとか、もしかするとありがちな決めつけ的な理解は、アスペルガーの人と親しく接していれば、なんかおかしい、とは感じられると思います。もちろんアスペルガーの人自身もそれを言うこともあります。ただ、定型からすれば「そう見えてしまう」部分があることも間違いない。なんか謎なんです。

 みみさんはその謎を、もともとすごく繊細で、孤独を嫌い、人を求め、その中に入りたいのに、定型の世界があまりにもダブルバインドに満ちていて(このダブルバインドという言葉はすごく深いということで、私はまだちゃんとつかめてはいませんが)、アスペルガーの人には理解しがたく、耐え難く、だからむしろ関係の中に入ることをあきらめて自分の世界に閉じこもってしまい、しかも本人もそういう経過があったということすら忘れてしまっていたりする。という形で解こうとされているのかなと思いました。

 いや、みみさんの言うことがそうなのかどうかも私には自信がないのですが。かなり微妙でしかも大事な部分でもう少し違うことを言われているような気もするし。

 みみさんの議論が私が感じていることになにかひっかかってくるのは、やっぱり、なんかアスペルガーの人が一生懸命訴えてきていることがあると、私自身が感じられることがあるからでしょうか。それは言葉にしてしまうとズレまくって、定型からすれば理解しがたかったり、怒りを生むものであったり、傷つくものであったりする。定型はそのことに驚いて、アスペの人が訴えようとしていることが見えなくなってしまうのかもしれない。

 ああ、そう考えれば、別の掲示板で議論になり(No.3574 - 2011/01/21~)、ここのコメントで改めてみみさんが説明しようとして下さった「アスペの個性」というのは、「障がいの向こうにあるものではない」ということの意味が、私なりにちょっとわかるような気がしてきました。私のその理解は次のようなものになりそうです。

 アスペの人は、やはり他者の理解と言うことについて定型とは違うものを生まれながらにして、あるいは生まれた直後から持っている。でもそれは感情がないとか、人を求めないと言うこととは全然違って、それは確実にあるんだけれど、定型のダブルバインドに満ちた世界の中でわけがわからない状態に置かれ、それに対して一生懸命自分なりになじもうと、対応しようとしていろいろな工夫を重ねていく。その工夫のその人なりの在り方がアスペの人の個性になる。だから、それはあくまでアスペの個性なのであって、アスペの向こうに、そのような「アスペとしての個性的な葛藤や工夫」をはずして抽象的な人間性があるのではない。

 理解がみみさんとずれているかも知れませんが、こういう視点から見ると、何かこれまでと違う見え方がしてくるような気がします。引き続き、ちょっと考えてみたいです。

2011年1月22日 (土)

社会の宝物

 人間関係はどんなものでもそう簡単ではない中で、アスペと定型のカップルが遭遇する困難はちょっとレベルが違うと思います。当事者のブログ(定型にせよアスペにせよ)や掲示板などでは、なんの誇張もなくまさに死線をさまよったり、ぎりぎりで生き延びたりしている方達の言葉が溢れています。

 自己主張を控え、まず相手に配慮し、そして相手を傷つけること、そしてあからさまに対立すること恐れ、我を張ることなくお互いに譲り合い、同調すること、同じであることを確認し合うことを人間関係の基本に置こうとする、この日本社会の中で、アスペと定型のカップルは、どうやったってそういうやり方では解決がつかない問題を、カップルという逃げ場のない関係の中で抱え続けているのだと思います。

 その日本社会の特質は多分、自己主張を基本とし、対立を恐れない欧米や中国などの社会と比べて、問題を一層重く、大きなものにしているのではないかと、(欧米や中国などのアスペルガー問題を具体的に知らないので想像に留まりますが)そう思えてなりません。

 日本社会が抱えている大問題、「極めて理解が困難な、異質な人たちとどう共存できるのか」という問題の、ある意味で最前線で、命がけで苦悩しているのがこのカップルの人たちではないのだろうか。最近そのことをひしひしと感じるようになりました。みなさんほんとに壮絶な闘いを日々生きていらっしゃるのです。

 そのほとんどは全く表に出ない闘いであり、模索であり、そして誰にも知られることなく、場合によっては本人も気づかずに、押しつぶされそうになったり、あるいは実際に押しつぶされてしまっている膨大な数の人たちがいるはずです。ネットはそういう人たちに、お互いにつながり合う本当に貴重な機会を提供しましたが、そのような機会を役立てられた人はまだごく少数に留まるのでしょう。

 だとしても、すでにその少数の中からでもいくつもの交流や支え合い、情報の交換や新しい試みが生まれてきている。そこには今までの日本の社会が解決できなかった多くの問題への新しい挑戦、新しい対応の仕方の種が、たくさん生まれつつあるのではないか。そんな気がしています。

 命がけの苦悩の結果、そのカップルがさらに関係を継続しようとするのか、あるいはそれぞれに新たな道を独立して歩むことになるのか、それは全くどちらでも構わないと思います。それぞれのカップルの歴史と、それぞれの状況と、それぞれの人々の個性の中で、ひとつひとつのカップルがそのカップルにとって最善の道を選べばいい。大事なのはその結論に至るまでのプロセスなのですから。もし「あるべき結論」が最初から決められてしまっていたのなら、それは個性的な生き方への抑圧であり、しかも結局は弱者への問題のしわ寄せによる「解決」にすぎなくなると思います。

 ひとりひとりの幸せの在り方はそれぞれに異なる。人は自分の幸せを探していくべきでしょう。その幸せを求める道をどのような人たちとどのように歩むかは、千差万別であるに違いないのですから。その点は定形同士のカップルであっても定型とアスペのカップルであっても全く変わりはありません。逆に言えば定型とアスペのカップルにのみ「あるべき結論」が決められているのなら、それ自体がひとつの障がい者差別に他ならないと私は思うのです。

 だから結論はどちらでも構わない。ただその結論に至る、文字どおり壮絶としか言いようのない過程が、私には本当に尊いものに思えてくるのです。そして上に書いたように、それはその人自身にとって尊いだけでなく、この日本の社会が抱えている困難をも背負い、それを乗り越えようとしているという尊さでもあると思えるのです。そしてその先には日本を越えた世界が拡がってくると思うのですが。

 そう考えたとき、死屍累々たるこの膨大な苦悩と、それにもかかわらず今も人知れず続く沢山の命がけの模索は、私たちの社会にとっての大きな宝物なのではないでしょうか。

 ブログを始めるまで、そしてこのブログなどを通して、何人もの当事者の方とネット上で出会うまで、私はそのことに気づかずに生きてたのですね。

 

2011年1月21日 (金)

いい人って?

 人付き合いをするとき、その人がいいひとかどうか、というのはとても大きな意味を持ちますよね。とくに友だちとか関係が深い人の場合はなおさらのこと。

 で、たとえば次のような人はみなさんにとっていい人の部類に入るでしょうか?その人はある職場に入ったのですが、いろいろと傷つくことが重なり、体調も悪くなって、結局仕事を辞めざるを得なくなりました。その人は職場についてこんなことを書いています。(少しだけ単語を入れ替えたところがあります)

「ですが、もうこの職場で働くことに疲れました。この職場の人は本音を隠すのが上手いだけに、クレーマーにも丁寧な対応をするのですが、その電話を切ったあとに「なんなんだあのババア!」と暴言が飛び出してきたりします。また、社内に「宇宙人」扱いされている、ちょっと話の通じないらしい外務員がいるのですが、内務員用携帯にその人から電話がかかってくると、皆出たがらなくてたらい回しにされ、この間はたまたま近くにいた外務員に出てもらっていたりと、いじめと言えば大袈裟かもしれませんがいじめ的なことがあって不快です。内務員が、普段その宇宙人さんが事務室にいないのをいいことに堂々と陰口を言っているのを聞くことがあったりして、辛いです。

 人に対する愚痴や陰口、特に知っている人に対するそれを聞くのが私はとても辛いです。愚痴や陰口のない職場に行きたいですが、そんな場所はあるわけないので我慢しています……が、限界です。以前は愚痴が言われる場所というのが主に休憩室だったので、休憩室への出入りを極力減らすか時間をずらすかしていればよかったのですが、最近は事務室内で堂々と愚痴や陰口が出てくるようになり、不快にならずに仕事ができる場所がなくなってきています。」

 その位のことなら、職場の雰囲気を何とか変える努力をするとか、なんとか頑張ってみたらどうだろう?というようなことを思われる方はあるかも知れません。でも、知り合いへの愚痴や陰口に傷つき、辛い思いをするこの人のことを、悪い人と感じる人はまあほとんどないんじゃないでしょうか。むしろ「ちょっとナイーブすぎるかも知れないけど、でも気持ちの優しいいい人だ」という位に感じられないでしょうか。

 では次の人はどうでしょう?(一部省略しています)

「家に帰ったら、母が「どうして心配をかけたと思ったらまず家に連絡しないの?」と言う。……母は「駐車場についたら一言着いたと電話をくれるくらいするのが当然。職場には遅れるって連絡してあるんだから急ぐ必要がない」と言う。だが、私は「できれば遅刻したくない」という気持ちでいっぱいだったし、……母には一切連絡しなかった。結局、母から連絡が来て、無事職場に着いたということが伝わった。……私は相手に心配をかけたということが全然分からない。この記事にも書いたが、「誰かが私のことを心配してくれた」ということがとにかく全く分からない。「心配した」とはっきり言ってもらえればわかるのだが、そう言われないと分からない。……なので、誰かに心配をかけるような状況が発生すると、トラブルも起こりやすく、難儀する。」

 そうです。これはアスペルガーの人の文章です。典型的ですよね。で、私にもそういう経験がありますが、ものすごく心配していろいろ気を遣ったのに、それが全く伝わっていないようなので、「すごく心配しているのに、どうなっているのか連絡をもらえないとしんどくなります」と話したら「なら心配しなければいい」と言われました。さてこの人を「気持ちの優しいいい人」と感じられるでしょうか?ある定型の知り合いにこの話をしたら、その人は切れそうになっていました。私も大変にショックを受けました。

 ということで、そろそろ種明かしなのですが、お気づきになった方はありますでしょうか?この二つの文章、どちらも同じ方のブログの違う日付の記事からお借りしてきたものです(他者と私とアスペルガー症候群:それぞれ2010/12/20 、2010/03/18)。最初の文章で少し単語を入れ替えた、というところは「この職場」と書いてあるところ、元々は「定型発達者(の中)」となっていました。そういう定型発達者の言動に傷ついたりして、体調不良がひどくなり、休みが多くなってついには退職へと追い込まれていったのです。

 作者のしろさん(後に白崎やよいと名乗り直す)は、大学院生時代の旧版ブログでは、「定型発達の人との意思の疎通は難しいです。本当は発達障害の人同士の意思の疎通も難しいのかもしれませんが、私の周囲には定型発達の人しかいないので、分かりません。さて、今回は定型発達の人と議論したときに気づいたことです。」というような感じで、具体的な会話事例を取り上げながら、何がずれてしまうのかを一生懸命分析して、なんとか通じ合えるように努力もされています。

 今は残念ながら手に入らないとのことですが、ご自分のこれまでを振り返って「私の正体 アスペルガー症候群当事者の手記」という私家製の本も作られていて、今でもPDFでその目次や序章だけ読むことが出来るのですが、なんだかとても素直な良い文章で、読みやすくて、わかりやすくて、できることなら全部読みたいと本当に思わせられます。自己分析もものすごくやられているんですね。

 定型との関係を、一生懸命つなごうとそうやって頑張っているアスペルガーの人たちがいます。でもその人も「心配かけた」ことはわからないし、そういう状況は「難儀」なんです。母親とも「気遣い」をめぐって繰り返し衝突をして来られたようです。先に私の体験としてご紹介した「なら心配しなければ」と言った人も、おどろくほど気持ちのやさしい人です。定型から見れば、矛盾の固まりのようです。

 でもそれは定型の理屈で見るから矛盾なんですよね。アスペの人の理屈から見れば、きっとどこにも矛盾はないし、逆に定型の方が矛盾だらけなんでしょう。そこをどう解きほぐしていけるのか、それは無理なのか。

 さて、しろさんはいい人と考えるべきでしょうか?それとも「いい人」「悪い人」という枠ではなくて、何か別の理解の仕方で考えるべきなのでしょうか?これ、現実の生活の中では、結構シビアな問題のように思えます。

 ちなみに、私のパートナーに「アスペルガーの人ってある意味ですごく純粋な人が結構多いんじゃない?」と言ってみたら、しばらくして、「こういうときは、私は<ありがとう>って言えばいいわけ?」と聞かれました (^ ^;)ゞ

2011年1月20日 (木)

カップルの解消と持続を分けるもの

 iroriaさんのその後のブログを、現時点での最終ページ(2010.11.12)まで拝見しました。昨日書いたのとはまた少し違う意味で圧倒される展開でした。

 どういう言葉で表現したらよいのか、迷いを感じるのですが……

 まずひとつ感じたことは、高機能自閉と診断された娘さんとの関係と、ASと思われる(ある医者は結婚して仕事をしている人はASではない、と15分足らずの診断で断言されたそうですが、そういうおろかな「専門家」の話は無視することとして)夫との関係の、ある意味で鮮やかな対比です。

 ASと高機能自閉(HA)とは明確に違うものだとiroriaさんは主張されていて、その点については私は現時点で何も明確な根拠ある判断できませんが、いずれにせよ両者は少なくとも苦手なポイントや有効な対処の工夫などについて、とても共通性が高いということはiroriaさんも否定されないでしょう。

 その娘さんに対して、ほんとに様々な工夫を独自にされて、拝見していて思わず声を出して唸りたくなるような素晴らしい子育てを続けてこられた。そして実際に娘さんはとても大事な力をひとつひとつ蓄えて育っていっているように感じられます。生まれた後の育ち方で左右される二次障害の危険性と言うことを考えても、それに陥らないための理想的な接し方をされたように感じるし、そこで書かれている工夫の数々は、沢山の方に大きな参考になると思えます。

 そこではiroriaさんの「献身」は余すことなく実を結んでいると言える。昨日のブログで少しご紹介した「翻訳」への模索も、確実に娘さんとの関係作りには背景として役立っていると思えます。

 けれども、夫との関係ではその「献身」は結局実を結ぶことなく、ただ裏切られ続け、iroriaさんの心身をむしばみ続ける形になってしまったようです。ブログで拝見する限りは、iroriaさんの夫は結婚後、ただの一度としてまともにiroriaさんに向き合おうとすることは無かったように見えます。

 それはカレンさんの夫とは本当に違うと感じました。カレンさんの夫は人生で出会った最強の、最も手強い相手として、アスペルガー的ではあるかもしれないけれども、一生懸命カレンさんに向き合おうとされたことを感じます。その感じはiroriaさんの夫には全くと言っていいほど感じられない。ASの人なりの誠実さ、といったものが見えてこないのです。

 そういう状況の中では、iroriaさんの「翻訳」への努力も、どうにも力を発揮することは出来ませんでした。iroriaさんが不可欠と考えてこられた「アスペルガーと定型とのズレ」という共通認識は、とうとう成立しなかったのです。

 ちょうど「配偶者の会」の掲示板の方で、KSさんがカップルの関係を解消すべきかどうかを判断するときの、KSさんの基準のようなものを書いていらっしゃいました(No.3541 - 2011/01/18)。それはKSさんの長い葛藤の後にたどり着いた答えなのだろうと思いますが、私には多くの人に共有されうる判断基準なのではないかと感じられます。

 まずこれは大事だと思ったこと、それは関係を続けるか否かの判断は、相手がASであるかどうか、障がいがあるかどうかの問題ではなく、「障がいの先にある人間性」の問題だと書かれていることです。定型にもいろんな人があり、伴侶としての選択に失敗もあるように、ASにもいろんな人があり、愛せるかどうかはその相手との相性によるわけです。問題は「障がい」ではなく、「その先にある人間性」なんだということ。

 次に、仮にその人間性に於いて自分が愛せる人、求める人であったとしても、ASという特性から来るコミュニケーションの困難さが無くなるわけではない。そこは定型のカップルとは違う努力がお互いに求められるところになります。だからそういう困難を乗り越えて努力したいと感じさせる「何か」(KSさんの言葉)がお互いに必要でしょう。これも広く言えば上の「人間性」につながるのかも知れませんが。

 そしてこれも当然と思えるのですが、その人がその人の個性として持っている「素質」や「資質」、性格といったもの、それを無視しての判断は意味がないと言うことです。それらは努力である程度の範囲なら調整できるものですが、その可能性の範囲には自ずと限界がある。その限界を含めて他の誰でもない「この自分」なのですから、他の人がこなすことを自分はどうやってもこなせないこともあるし、その逆もある。そういう自分の限界を甘受し、卑下することなく、そこから出発することの必要をKSさんは書かれる。全く同感です。

 そして最後に、ぎりぎりの判断基準として「自分が壊れないこと」。、それはある意味で絶対的な基準のように思いました。何が自分を壊すのか、それは人によってみんな違うだろうから、ある人には問題ないことでも別の人には深刻な問題であることもあるでしょう。けれどもそれは絶対にその人に能力のあるかどうかといった問題ではないと思います。

 それはあくまで個性の問題なのです。つまりその人その人が歩んできた人生や、持って生まれた性格や、それから周囲の状況、そういう「その人だけに与えられ、その人だけが持っている個性的な状況」によって決まるものであって、一般的に良いとか悪いとか、優れているとか劣っているとか言えるものではない。何がその「自分」を破壊するかは、その人の「自分」がどのように成り立ち、何に支えられているのか、によってそれぞれ千差万別なのだと私は思います。と同時に、それは「自分が壊れてしまうかどうか」という形で抽象的に表現すれば、多くの人に共有可能な基準なのだろうと思えるのです。

 iroriaさんの場合は、KSさんが書かれたそういう判断基準から見ても、ある意味で当然にカップルを解消する方がよいという判断に傾く状況に置かれ、その上でその方向で当然の判断されようとしているのだと、私には見えました。

2011年1月19日 (水)

iroriaさんの例:「理解の共有」とジェンダー

 今、アスペルガーの夫と高機能自閉症の診断を受けた娘と暮らすiroriaさんが書いたブログ「サボテンと雪椿」を読ませていただいているところです。あくまで定型である私の感覚や視点からですが、ほんとうに大変な状況を、鬱になりながらも信じられないほどの誠実さと工夫で頑張って生きてこられたその過程は、読んでいて圧倒的ですし、学ぶこと、納得すること、考えさせられることもどれほど多いかと思えます。

 このブログのコメント欄で私に合わせて「アホ」になってくださっている(!?)みみさんもそうですし、幾度も紹介させていただいたカレンさんもそうですし、「配偶者の会」の掲示板などで発言されているみなさんなど、この問題で苦しんできた方達はなんてすごい方達なんだろうと、心底圧倒されざるを得ない、というのが正直なところです。その「人としての深さ、厚み」がどれほどの代償を払いつつ得られたものなのかと想像すると、ちょっと言葉を失う感じがあります。それも一種のギブアンドテイクなのだろうとは思いますが、なかなか気楽にそういう言葉で括ることにためらいを覚えるような思いもあります。

 で、iroriaさんのブログ、今次の所まで読み進んだところで、一度これを書きたくなりました。

  2010年5月22日付け「誤解が多い発達障害

 iroriaさんはご自分でも時々書いていらっしゃいますが、もともととても明るい、人への気遣いも細かな、そしてとても頑張り屋さんということが、文章の端々から感じられます。いつも笑顔が絶えないと回りから言われていたiroriaさんも、十数年の必死の生活の中で、娘に対してはそれを保とうと努力されつつ、ついに普段の笑顔がその顔から消えるようになってしまった。夫とは離婚も現実的に繰り返し考えながらも、娘を育てる上で今はそれは出来ないと考えられている、そういう状況の中で鬱を抱え込みながら、書かれたのが上の文章です。

 定型とアスペのカップルでどうギブアンドテイクの関係を見つけてコミュニケーション関係を持続させていくことが出来るのか(あるいはここは大切だと思いますが、その限界はどこなのか)、ということを考えるとき、このブログでは、お互いにものすごく違う言動の理解の仕方について、どうしても「翻訳」という過程が必要だろう、ということを書いてきたわけですが、それをiroriaさんはご自分の経験の上に、ここまでかなり独力に近い形で作り上げてこられた。詳しくは直接お読みいただくこととして、いくつかさわりだけご紹介しましょう。

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ASの人がよく「失礼な事を言う」のは、定型は自分の言葉によって相手がどう思うか、を考えなら話す事が可能ですし、相手と話しながらアレコレ考えつつ、色々なものを読み取りながら会話を進めるのに対し、ASの人はコレができません。なので、相手を騙したりする事は不可能に近いのです。

……

定型が攻撃的になる時(または人格障害【※1】など)、相手への怒りの感情を攻撃という形でぶつけるのに対し、ASの人は得体の知れない不安と自己防御によるパニック状態から、攻撃と思えるような言動に出ていると思います。

……

こうやって書くと、ASやHAの人が会話すべてができないように思うかもしれませんがこれは「人の感情面」の会話に対してのものに限定されます。……要するに、データ化できない、見えないもの=心の面での会話です。視覚的な事は理解しやすい、という特性からきているのかもしれませんね。見えない、確認できないものに関しては、とても怖いのです。
これは、相手の気持ちだけではありません。なんと、自分の気持ちに対しても、同様なのです。たとえば「今日どうだった?」「調子どう?」なんて、世間話のスタートではありがちな台詞ですが、ASやHAの人にとっては、こういう不確かな質問はとてもストレスを感じる事なのです。ですが彼等は、それを表に出すまいと、外では必死に頑張っています。なので、定型が感じないストレスを、常に感じているという事になるのでしょう。

ASやHAの人の不機嫌=不安、という解釈が正しいでしょう。決して、相手に対して攻撃しようとか、相手の気遣いに腹を立てているということではないのです。「どう返答してよいかわからず、困っている」というわけです。
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第三者が客観的に「分析」しているわけではありません。定型とアスペのコミュニケーションの仕方のズレのせいで、ぼろぼろに傷つきながら、それでもなお、iroriaさんは相手の言動の意味を、何とか自分でも理解可能な形に翻訳しようとされ、そしてここまでの、私たちにもわかりやすい言葉にほぼ独力で持ってこられた。なにかほとんど驚異的とでも言いたくなるようなことに思えます。

もちろん、このような「翻訳」の仕方を導き出したとしても、それだけでiroriaさんが夫とのコミュニケーションで傷つかなくなるわけではありません。そして、それだけで次の展開が見通せるかというと、そこには大きな壁が立ちふさがる。そのことをiroriaさんははっきりとこう書かれています。

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・・・とはいえ、こういう日常会話のひとつひとつの言葉を選んで会話するのは、定型にとってもストレスですし、とても困難です。なので、互いの関係をスムーズにさせる方法は

何をおいても「本人が自覚する」という事が不可欠です。
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昨年5月22日以降、どう展開されたのかは、私はまだ読んでいません。この段階ではiroriaさんのパートナーの方は「理解の共有」に対してとても拒否的で、iroriaさんの努力でなんとか診察の予約をとりつけたところまでです。

「カレンの夫」さんは比較的すっとその理解を受け入れられたとおっしゃっていますが(上記掲示板No.3518 - 2011/01/16)、iroriaさんの夫は強い拒否的態度を示されていました。もっともそれはこの問題に限ることではないのかも知れません。結婚以降すべての領域に於いて、とても強い「亭主関白」的スタイルで自分を守ろうとされているように感じました。このあたり、以前にも考えてみたジェンダーの問題が深く絡んで、パートナーごとの関係の違いや「理解の共有」可能性あるいはその困難さの違いを生み出しているのかも知れません。

2011年1月18日 (火)

個性的な現実と一般的なパターン

定型同士のカップルでも関係を解消するカップル、状況で別れられないカップル、別れたくないカップルといろいろあるように、アスペと定型のカップルもそれは当然同じですね。その分かれ道がどこで決まるか、ということも、本人達の関係(相性とか)に主な原因がある場合も、子どもの問題が絡んでくる場合も、実家が絡んでくる場合も、あるいは友人関係などとか、さらには場合によって地域が絡んでくることもあるかも知れません。それも一緒でしょう。

どんなカップルでも問題が一度も起きないカップルというのは私は想像できないのだけれど(無いとは断言できないにしても)、その問題が比較的解消しやすい場合も、蓄積していく場合も、一回で強烈なダメージを与えてしまう場合も、いろいろでしょう。そこにも当事者自身の性格や価値観、周囲の人々の態度やサポートのありかたなど、いろんなものが絡んで、その問題が結局どういう方向にカップルを導くかを変えていく。

このブログでは「ギブアンドテイク」が何らかの形で成立するかどうかが大事ではないか、という視点で一応考えてきているわけですが、そのギブアンドテイクについての考え方だって、ほんとにいろいろで、「亭主(女房)元気で留守がいい」というのだって、それを一種のギブアンドテイクと考えてカップルを維持する場合も現実には十分ありうるわけですね。

つまり、結婚は続けてあげる(ギブ)から、「お金だけ持ってきてね」というテイクとか、お金は持ってきてあげるから(ギブ)、「家事とかだけはしっかりやってね」というテイクとかいうドライな割り切り方にする。そういうのは、私個人の感覚からは違和感があっても、その人の置かれた状況などによっては、もしかすればそれが妥当なこともあるかも知れない。あるいはそう思うことにしか現実的な選択肢が残されていない場合とか。

もちろんここでいう「現実的」というのは、その人の目に見えている「現実」ということで、他の人が見たら別の見方も出来るかも知れませんけど、でも本人にはその他の見方に触れる可能性がない、あるいは受け入れられる可能性がない場合は、そのこと自体も広い意味で逃れようもないリアルな現実の一部だと思うんです。

そういえば、アスペの人が書いていたブログの中に、「これ以上どうやって努力しろというのか?」という悲痛な叫びを書かれている人がありました。仕事の中で、アスペ特有の傾向でどうしても定型のようにはこなせないものがあり、それは定型の上司からすれば、全く理解できないものだから、「こいつ、ふざけてるのか」と思ったり、「やる気がない」「怠けている」「努力が足りない」といった見方しかできなくなる。だから叱り方としては「真面目に努力しろ」というような言い方しかできなくなってしまうのでしょう。でもいわれた側はただ追い詰められるだけで、もうどうしようもない訳です。

立場を変えて定型の側だって、アスペの人を理解しろ、とか、配慮しろ、と言われたところで、もう自分で考えつくぎりぎりのところまでやりきって、「これ以上どうしろっていうの?」という所まで追い込まれることもある。もしかすると第三者の目には、別のやり方が見えるかも知れない。でもその当事者にそれがどうしても見えないとき、あるいは置かれた状況が到底そういうやり方を受け入れさせないようなものであるとき、それはその人にとっては絶対的な「現実」なわけだし、そこを足場に考えるより、どうしようもないことだと思います。

自分がなんでこんなことを今うだうだ書いているんだろうかと思うんですが、本当は上のようなことを書こうとしているのではなくて、アスペとのカップルで定型の側が感じる困難には、ほんとに共通性があるんだなあと言うことをあらためて実感することがあって、そのパターンみたいなものを少し自分なりに少しずつ整理してみたかったんです。

で、それはだんだんとやってみたいわけだけど(関係書籍にはもう常識として書かれていることかも知れませんが)、ただ、「こう理解すれば大丈夫」とかは絶対に言えないし、ましてや「こう理解しないのはおかしい」などということはもちろんない、ということを前提に書いていくことの大切さを、改めて自分の肝に銘じておきたい気がするんです。

それは私の理解力が限界があるから、とか、そういう話ではなくて(いや、もちろん限界だらけというか、限界そのものなんだけど (^ ^;) )、なんというのか、生きていくことの「真実」というのは、あくまでもその当事者本人がどう感じるかにあるので、「第三者が客観的に見てどうだ」というのとは根本的に違う話だと思えるんですね。

どんなにすごいお医者さんがすばらしい診断を「客観的」にし、「このようにすべきだ」というような意見を言ったからといって、でもそのことが本人が見ている「現実」の中で意味を持たなければ、それはやっぱり生きた「真実」とは言えないように思う。死んだ「客観的真理」に命はない(……死んでるんだから当たり前か (^ ^;) )。

「こうやったら幸せになれる」と言っても、幸せを感じるのも不幸を感じるのもその当事者本人以外ではあり得ないのだから、他の誰でもないその人にとってどうなのか、ということで判断されるしかないと思えるわけです。

こんなことは言うまでもないことなんじゃないかと自分でも思ったりするんですが、パターンを整理すると言ったって、それはあくまで私から見てそう見えたと言うだけのことで、もしかしたら他の方にもその見方が共有されたり参考になったりするかも知れないし、あるいは全然あてはまらないずっこけのものかもしれない。もちろん今はすごく賛同できるけど、後には見方が変わって、いや違うなあ、ということになるかもしれないし、その逆もありうる。そういういろんな可能性を含めて、今私にはとりあえずこんな風なことが見える、私にとっての「真実」ということでしかない。

なんだか、下手な話をする前に、予め「しょうもない話ですよ」と一生懸命言い訳してるような感じもしないではないですし、実際しょうもない話なんだと思うんですが (^ ^;) 、ひとりひとりが抱えている個性的な現実、ということを私はついつい見過ごして一般化してしまう傾向がかなり強いような気がするので、改めて戒めとして書いてみました。ですから、これからもいろいろ書くと思いますけど、「あんたそう書いてるけど、そんなの私の現実とは違うよ」みたいな話もいろいろあると思うので、是非そのときにはバシっと教えていただければとてもありがたいです。

2011年1月17日 (月)

当事者としてかっこわるく考える

アスペルガーの人と言ってもほんとに千差万別、という感覚が私の中で日に日に強くなっていく気がします。これって、どういうのか、たとえば昔白人の人を見慣れない頃は、みんな似たような顔に見えたり、アフリカ系のアメリカ人を見ても、ほんとに一緒の顔に見えたりしたけど、だんだん見慣れてくるとそれぞれ個性的に見えてくる、というのと似たようなことかも知れませんね。よく知らない人たちについては、自分たちとの違いの面が「過度に」強調されて、その他の個性的な部分が見えなくなってしまう。異文化の人を理解するときでも同じですね。みんな「○○人」で一色単に見てしまう。

だから、アスペルガーと定型がうまくいくのか、というような一般論はやっぱりちょっとおおざっぱすぎるところがあって、アスペルガーでもあるAさんと定型でもあるBさんはどうなんだろう、という、そういう具体的な問題として考えることがとても大事なんじゃないかと、そういう感覚が私の中でだんだん強まってきました。もちろん「アスペルガー」とか「定型」とかの共通性の部分に意味がないとは言いません。それはそれでたいせつではあるんだけど、でも<でもある>ということの重要性と言いますか……

いや、私は他の方と比べれば障がいを持った子どもとかと接する機会やその親御さんと話をしたりする機会もわりとあったし、学生時代以来障がいを持った知り合いもそれなりにあって、そんな経験からも「まず個人としてみる」ことの大切さ、みたいなことは一応頭の片隅にはあるのはあるんですけどね。にもかかわらず、改めてアスペと定型という問題については今更のように少しずつそういう感覚が強まりつつある、というのは不思議というか、情けないというか。

もしかすると(もしかしなくても?)、自分自身がその問題のど真ん中で当事者になって感じたり考えたりすることと、その問題に関わったとしてもある程度は距離を置いて関わる場合の決定的な違いなんでしょうか。これもよく言われることなんだと思うけど、結局ひとのことなら頭で考えていくらでもきれい事は言えるけど、自分がいざ当事者になったらそんな簡単な問題じゃない、ということなんでしょうね。

そう考えると、偽善とまでは言わないにしても、過去の自分の浅はかさとか情けなさを改めて思うし、今だっていろんな問題についてそうなんだろうし、と思えます。でもそういう自分をこれから克服出来るとも思えないですけれど。いつまでたっても場面を変えて情けない思いを繰り返すんだろうなあと思います。もし可能なことがあるとしても、そういう自分として何ができるのか、ということ以上ではないんだろうと思います。

あ、すいません。自分のリハビリのためにという、基本的に自分本位の理由で始めたブログなので、自分の情けなさを書き連ねるという、これも情けない話になってますね。ただ、そいういうのにもし意味があるとすれば、第三者的にかっこよくこの問題を考えるスタンスではなくて、当事者のひとりとしてウジウジしながらかっこわるくこの問題を考える、ということに居直ることの必要でしょうか。まあ自分が鬱状態になったのも、かっこつけて頑張りすぎたからという部分も確実にあるわけですし。それで解決に至ればいいのかもしれないわけだけど、そんな力は自分にはなかったですしね。そして結果として多くの方にほんとに迷惑をかけてしまったわけだし。

うん、目指せかっこ悪さ!(というか、単に自分の本来のかっこ悪さを「自覚」しろ、ということなんだけど (^ ^;) )

2011年1月16日 (日)

「翻訳」に果たす「文法」の意味

こちらでも何度か紹介している、「配偶者の会」の掲示板常連のカレンさんが書かれていることには、私にはとても刺激的なことが多くて、ほんとにありがたいんですが、最近こんな話もされています。

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文字通り日頃から、夫の言葉を聞いたり、…… Aspergers in Love や The Other Half of Aspergerを読んだり、よそで発達障害があるとされている方のお話を伺ったりしているので、その中で、皆さん……共通しておっしゃっていることが、今や「この方たちの語法や文法」のように私の中にストンと来ているのかもしれません。

例えば日本語でも英語でも手話でも、大多数の人が日常的に一番使っている用法が「語法・文法」として集約されますよね。それらを外国語として学ぶ人たちは、その「語法・文法」を学び、それらを頼りに翻訳したり解釈したりする・・・

今、あらためて考えると、たぶんそんなことをしているのだと思います。
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誰かとコミュニケーションするときには、そのための決まりみたいなものがあります。たとえばリンゴ、と言えば何を指すのか、ということがある程度はお互いに共有されていないと話が通じない。

今思い出したんですが、笑い話のような実話でこんなのがあって、関西の大学の野球部で、関東からやってきた新入部員に先輩がバットの握り方を指導していたんだけど、どうもうまくない。それで先輩は一生懸命「いや、そうじゃない。自分はこうやって握ってるだろ?そうじゃなくて、こう。自分はこう。」とか教えるんだけど、いっこうに直らない。新入部員も頭が混乱してきてしまったということなんだけど、秘密は「自分」。

関西の人はご存じの通り、この場合の「自分」は関東で言う「あんた」のこと。それが混乱しちゃって、先輩が「自分のはこう」と、悪いやり方を見せられるときに、「先輩の(正しい)握り方はこう」と教えられていると思って、自分の悪い握り方を繰り返したというわけです。で、コミュニケーションが失敗した。

「あんた、私、叩いた」と「私、あんた、叩いた」とは意味が反対になってしまうから、語順は大切とか言うのが文法みたいな約束事ですよね。それも間違えるとコミュニケーションがうまくいかない。

アスペと定型のコミュニケーションが難しいのは、結局そういう「語法・文法」にあたるような約束事のところのズレが、お互いに結構シビアだったりするからだということになります。だから、相手の人たちの「語法・文法」が学べるようになるとだいぶ変わってきて、翻訳したり解釈したりしてある程度コミュニケーションが取れるようになってくる。

もしかすると「アスペ」=「障がい者」、「私」=「健常者」という視点でだけ一方的に考えてしまうと、この問題は「アスペが正しい文法を学べない」、あるいは「アスペは文法を不十分にしか学べない」という風に理解されるかも知れません。でもたとえばこれもよく引き合いに出させていただくアスペルガーライフblogの狸穴猫さんたちがアスペ同志で共感的に語り合っているように、アスペの人は定型と異なる「語法・文法」をそれなりに共有されているんですね。

だから立場を変えてみれば、定型の人間の方がアスペの人たちが持っている「正しい語法・文法」を理解できないやつらだ、ということになります(実際、定型のほうを「障がい者」と呼ばれる人もあったりしてますし。これ、ほんとに面白い)。そういうことを具体的にわからせてくれるという点でも、あのブログは偉大だなあとつくづく感じてます。それと、このところはアスペルガーの問題とカナータイプと言われる、知的障害を伴う自閉症の問題とが大きく異なるところだと思います。アスペルガーの人たちは、それなりに「私たち」の世界を持つ。

おかしかったのは、どっかのブログで紹介されていたんですが、IT関係のプログラマーの世界とか、どうもそういうアスペ的「私たち」の世界が優勢な職場とかもあるみたいで、定型の人が「おはようございます!」とか言って職場に入っていくと、「なんだあいつ?」みたいな冷たい風が吹くんだそうです。そこでは多数派と少数派が逆転してて、定型の方がむしろ「KY」なんですよね。結局その定型の人は職場を変えたらしいですが。でもカナータイプの自閉症の場合はそういう「私たち」の世界を作るのはかなり困難になっちゃいます。

以上、ここまでの話は、お気づきの方もあると思いますが、実は前に「アスペと定型のギブアンドテイクの意味(5) 「翻訳」編」にも書いたことを少しふくらませて書いただけという部分が多いです。ただ、今回のカレンさんの上の文章でそれに加えて「あ、ここ大事だな」と思えたのは、「それら(語法・文法)を頼りに」翻訳したり解釈したり、と言う部分です。「それらにしたがって」じゃないんです。あくまでも道具の一つとして、工夫しながら翻訳や解釈をしていく必要がある、と言うことなんじゃないでしょうか。機械的に翻訳すればいいというものではないんですね。

カレンさんは翻訳にも関わっていらっしゃるようだけど、特に文学関係なんか、たしかに機械的に直訳したら悲惨になりますよね。さらに詩とかにもなれば、そもそも教科書的な語法や文法を越えて、新しい表現の可能性を追求するところに意味があったりもするわけだから、ますますそうでしょう。そういう現場で鍛えられた方だから、さらっとああいう絶妙な表現が出てくるんでしょうか。

そういう、状況を見ながら、その都度工夫して翻訳作業をしていく、というのは「これで完全」ということのない、永遠の修行の過程、あるいは創造性を要求される作業なのかも知れないなと思います。もちろん定型同志の人間関係だって、ある意味ではそういうところはありますが。

とはいえ、あんまり創造性ばっかりいつも考えていても疲れて死んでしまうしなあ……。そこ、どう誤魔化したらいいんだろう?なんか怠け者にもお勧めの、手抜きが出来るずるい方法はないかなあ。

2011年1月15日 (土)

理解の共有を可能にする条件って?

昨日は自分自身の個人的な経験を整理しながら「アスペルガーという理解の共有」の意味について考えてみたんですが、そういう個人的経験を語ることで、それを読んだ方から「自分も一緒だ」と教えていただく、ということが随分大きな意味を持つんだなと、そんなことをしみじみ思いました。

自助グループというのはつまりそういう働きがあるわけですよね。ありきたりの言い方かも知れないけど、「こういうしんどさを抱えているのは自分だけじゃないんだ」と思うことで、それだけで支えられる感じがあるし(この感覚について、アスペルガーの人がどうか、ということはとても気になりますが)、それから「もしかするとこういう思い、こういう感じ方は自分の過剰な思いこみとか、ゆがんだ見方なんじゃないか」という、ある種の不安がなくなっていくことにもなります。ある意味、自分の個人的なしんどさを「肯定してもらった」という感じにもなる。

私の場合、自分が鬱状態に陥って、周囲の方達にいろいろご迷惑をおかけすることになって、そのとき何人かのごく親しい人にこれまでのことをいろいろ聞いてもらえたんですが、そのときもすごく支えられました。ただ、そういう支えられ方とはまたちょっと違った支えられ方ですね。経験が共有されている、ということは。

ああ、定型の側でパートナーのことを「アスペルガーだと理解する」ということも、そういうことと似た意味があるのかも知れないですね。なんというのか、自分の感じ続けてきた違和感、しんどさを「社会的に公認してもらった」みたいな感じになる。そういう違和感やしんどさを持つことは「当然のことなんだよ」と認めてもらえるような意味を持つ。定型の側はショックと言うよりも、ようやく自分の苦しみがわかったような気になって、ホッとする方が大きいかも知れません。

逆にアスペルガーの人の側はそこのへんはどうなんでしょう?言ってみれば「お前は障がい者だ!」という、社会的には決してプラスイメージにはつながらない決めつけをされることになりますよね。人によっては開き直って「どうせ自分は障がいを持っているんだから、何か文句を言われても自分のせいじゃない」というような姿勢になることもあるだろうけれど、やっぱりショックを受けたり、傷ついたりする人の方が多いんじゃないでしょうか。だからそういうある種の「決めつけ」をされそうな状況は出来るだけ避けようとするのも無理はないような気がします。

もちろん、アスペルガーの人もそれまでの理解不能な苦しみについて、ようやく「原因」がわかる、と言うこと自体がプラスの意味を持つこともあるでしょう。それがショックを上回る力があればそれほど問題は無いのかもしれません。でもそうでない場合は?

アスペと定型のカップルが、単なる一方の従属とか「奉仕精神」とかではなくて、カップルとして生き残って行くには、やはり当事者同士でなんらかのギブアンドテイクの関係が成り立つことが必要だと、ここでは考えてきているわけですが、そのためにはどうしても「あなたのギブは私にはテイクにならない」「私のギブをあなたにはテイクと思えない」という、お互いの感覚のズレにまず気づく必要があります。その上でカレンさんのことばを使えば相手のギブの意味を「翻訳」する仕方をまずは知る必要があるし、それだけではなくて、相手のギブが自分にとってテイクとして実際に感じられるようになることが大事だと思える。

そうすると、そのためにはやはりそのお互いの「ズレ」というものを認め合えない限り、話は先に進まないことになりそうです。そこが難しい場合はそれをどう乗り越えたらいいんでしょうか?このあたり、単純な一般論はむつかしそうにも思いますが、でも何かある程度のポイントはあるような気もします。

たとえば本人には病識がない状態で統合失調症で苦しんでいる人を医療につなげようとするときは、「しんどそうだから、ちょっとお医者さんに調べてもらいましょう」みたいな感じで、どちらかというと、曖昧な形で病院に連れて行こうとする、ということも少なくないと思うんだけど、多分そういう形にはならないですよね。ある意味、もっと「対等」な感じで「納得」があって進めていくのだろうと思います。でもそこで「対等」って何なんだろう?「納得」って何なんだろう?

うーん、なんかいろんな問題が絡んでいそうで、すっきりしません。

2011年1月14日 (金)

アスペルガーという理解の共有について

配偶者の会の掲示板でKSさんがAstonさんと言う人のAspergers in Loveという本(まだ邦訳はないみたい)の冒頭の部分を以下のように紹介されていました。

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「診断の有無はどちらでも良いが、カップルの両者が自分達の間の問題はアスペルガーが原因かもしれない、と気づいていれば、そのカップルは前に進めるし、彼らが直面している困難と取り組むことが出来る。しかし、アスペルガーかもしれないパートナーが自分に障害があるかもしれないことを認めず、2人の関係で生じる問題を、すべて他のことや他人のせいにするようなら、この関係が生き残るのは難しいだろう。しばしば、責めはアスペルガーでない方のパートナーに向けられる。これは、両者と、その関係に破壊的影響をもたらす。」(要約してあります)
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ちょうどそろそろこの問題を書いてみようかなと思っていたところだったので、この本は私は読んでいませんけれど、KSさんのここの紹介を使わせていただいてその問題を私なりに考えてみたいと思います。

ここで書かれていることは、カップルのいずれかが第三者(経験のあるお医者さんとかアスペを知っている人とか)からみて「アスペルガーだな」と判断できるような場合、そのカップルご本人がどう思っているかで事態は随分違うよ、ということですよね。理屈から言えば次の四パターンがあるわけでしょう。

1.カップルの二人とも、アスペルガーのことを知らない
2.定型の方の人が、相手がアスペルガーだと気づいたが、当人は知らない
3.本人はアスペルガーだと気づいているが、定型の人は知らない
4.両方知っている

定型の側から見たとき、1の状態の時は、何人かの方がブログその他でも書いていらっしゃるし、私もそうでしたけど、最初、恋愛関係にあるときには、「個性的な人」くらいには思うだろうけど、でもその個性がまた魅力に感じたりする部分もあったりして、結構ハッピーだったりもします。でも付き合い続けていくうちに、何か不思議なズレを感じてきて、それが半ば無意識的な感じで自分の中にオリのように少しずつ溜まっていく感じになる。

まあそれでも無事ゴールインと言うことになって、引き続き二人はハッピーな状態も続く。定型の側は愛する伴侶を得たわけですし、アスペの方の人も、それまで人間関係で違和感を感じ続け、人からはじかれたり、いじめられたり、いろいろ苦労してきている人が多いわけですから、初めてその自分を受け入れてくれる人がいた、という感じになったり、嬉しいわけです。(あ、この辺は微妙にひとひとで違うかもしれませんけど)

で、「暗雲」はまずはその二人の外部との関係から見え始めるような気がします。というか私の場合は思い返すとそうだったと思えるんですが、たとえば定型の側の実家との関係。本人達はまだあつあつだからそんなに深く気にしないことでも、さめた目で見ている周囲の人は、やっぱりアスペの人の言動を見て驚かされたり、ということがあるわけです。なんかそのあたりで周囲を巻き込んだ関係の中でぎくしゃくしたものが生まれ始める。

定型の側はなんだかわけのわからない違和感がだんだんと胸の内に成長してきて、そこに実家の人間が触れてきたりすると、逆に必死で否定して怒ったりとか、そんなこともあったりするようになる。当然アスペの方の人も、だんだんと得体の知れないしんどさが出てくるでしょう。子どもができない、または作らないで続く夫婦の場合は、こういう違和感がいずれ何かのきっかけで衝突を生むようになるはずです。

私の場合は、これも思い返せばそれが非常にはっきりと出てきたのは子どもが出来てからですね。私の場合は特に赤ちゃんとか幼児大好き人間で、スキンシップしまくり (^ ^;)。 で、子どもの頃は大人との共感的関係って大事だと思うし、私自身そういうのが好きなので、別に無理するわけでもなく、喜んでそういう風になる。何かできたら一緒に喜んだり大げさに褒めてやったり、からかって遊んだり、一緒に笑ったり驚いたり。子どもの喜びを一緒に喜んでそれをのばしてあげる、とか、子どもの悲しみを一緒に悲しんで支えてあげる、という感じになる。そしてそれがほんとに大事だと心の底から感じている。

ところが、その一番大事だと思えるところで、定型の側から見れば「え?」という関わりを相手が繰り返すことに、いろんな場面で少しずつ気がつき始めるわけです。仮に同じような質のことを自分にされても、微妙な違和感はあってもまあ我慢できることであっても、相手が子どもと言うことになれば心中穏やかでいられなくなります。で、それはまずいんじゃないか、というようなことを遠回しに言ったりするけど、いっこうに定型の視点から見て「改善」されない。で、だんだん強く言うようになったり、あるいは「こういうふうにしたらいいんじゃないか」と具体的にやってみせたりするんだけど、全く効果がないし、受け入れられた感じがしない。

そうなってくると二つの不安が頭をもたげてくることになります。ひとつは切実な問題として、子どものことが心配になってくる。もうひとつは自分の言うことをまともに聞こうとしてくれていないのではないか、自分が拒否されているのではないか、という思いが出てくる。

このあたりは細かく書くときりがなくなるので、たとえばそういうような、ということですませて次にいきましょう。とにかくそんなことをきっかけに年を重ねるにつれ、こじれ始め、しんどさが溜まってくるわけですね。けれどもそのしんどさの原因が何なのか、得体が知れない状態が続くわけです。それで相手の人格を疑うようになったり、あるいは自分の対応が悪いから相手をそういう状態に追い込んでしまっているのではないかと思ってみたり。

さらに自分との関係でも共感的に支えてもらえなかったり、あるいは支えようとしてもそれが拒否されるように見えたり、という状態が続いていって、そんなこんなで鬱状態になったりもします。アスペの側の人も、職場や周囲の人々との関係で自分には理解しがたい攻撃や排斥を受けて苦しむし、家庭でもパートナーから責められたりすればますます追い詰められてやはり鬱になる人も少なくないようですね。

で、場合によって2か3に移行するわけですね。私の場合は2に移行しはじめたのがせいぜいこの2年以内くらいだったのではないかなと思います。あまり明確に「そうだ!」となったのではなく、そうではないか、と思い始めた感じで、最終的に間違いなく「そうだ!」となったのは私の場合は4の状態になって、パートナーが自分自身で納得したときでした。

2の段階ではやはりこの問題が理由で苦しんでいた子どもとそういう話ができるようになって、なんでそんなふうになってしまうのかを話し合う中で「アスペルガー的」という理解が成り立っていった。けれども本人との関係で確かめたことでもないし、そういう形で本人を問い詰めるようなこともできなかったので、「的」という感じが続いたわけです。でも、こちら側だけに共有された「的」という判断であっても、「ああ、そういうことだとすればわかるよね」という了解が出来る部分が少し出てくる。「なるほどね」とか。そうすると、多少は「ああやっぱりまたこれか」という感じでその都度の違和感やショックを多少和らげて受け止めることが出来る部分も出てきます。

けれども、こちらの側で一方的に「そうかもしれない」という理解が成立したとしても、当然のことですがパートナーとの間で状況が大きく変わるわけではない。もしそうなら無理もない、あるいは仕方ない、とこちらが勝手に思ったとしても、やっぱり傷つくことは傷つく。そしてそのことで相手を追い詰めない方がかえって改善するだろうと期待しても、常にその期待は裏切られ続ける。ある意味ではますます絶望的な気持ちになっていくわけです。

私の場合はとにかく子どもを支える、ということに必死になり、なんとか子どもが精神的に自分の力で歩んでいけるところまで来たところで、もう力尽きた感じになりました。その延長に二度目の、今度はかなり本格的な鬱状態になり、そういうプロセスの中でパートナーが自分がアスペルガー(苦労しながらも仕事は続けられるレベルですが)であることを自覚したんです。そうだとすれば、これまで自分が腑に落ちなかった過去のいろんなことがとてもよく理解できるということで。そうやって4の状態になりました。

そうすると、事態はかなり劇的に変化することになります。どんなかたちであれ、とにかくお互いの違和感や葛藤を、相手のせいとか自分のせいにしてしまうのではなく、アスペルガーと定型のズレ、という問題として共有できる可能性が出てくるからです。ただ、私の家の場合はそういう共有にすぐになるわけではなく、まずはパートナーが「すべては自分のせいだ」と自分をひたすら責める状態になってしまったのですけれども。

この辺りの展開は、同じアスペルガータイプの人でも、男女差や個人差が大きいかも知れません。どういう育てられ方をしたかもものすごく大きな影響があると思います。そのあたりはアスペルガーライフblogの狸穴猫さんが「二次障害を防ごう」と一所懸命になっている部分でもありますが、私のパートナーの場合、子どもの頃からの「二次障害」で自己否定的な傾向が著しくなってしまっていたように思います。

いずれにせよ、ここではじめて「問題が共有され始めた」ということになります。だから、その「共有された問題」にお互いにどう向き合うのか、どう折り合いを付けるのか、ということが「共通の課題」として捉えられる可能性が出てくる。「可能性」と控えめに言わざるを得ないのは、状況によってそれを拒否するパートナーもいるだろうからです。

このときも定型の側が男性か女性か、というジェンダー的な問題も影響しやすいように思えます。私の家の場合はやっぱり私がリーダーシップをとる形で「共通の課題」にしようとしたわけですが、それは自分の方がやはり男性という強い立場にあるからで、弱い立場に置かされている女性の場合はそれも困難な場合が多いのではないでしょうか。もちろん絶対とは言えませんが。

私の場合はそういう状態になってから10ヶ月ほどかかって、ようやくこのブログをリハビリのつもりで始められるところまで自分自身を持ち直してきました。というか、ようやく谷底に降り着いたという感でしょうか。ギブアンドテイクの問題もなんとか話し合えるようにもなってきています。もちろん結論はわかりません。結局お互いが本当に必要とするテイクは得られない、ということが納得されるのかも知れないし、なんらかの折り合いがつくのかも知れないし。ただそういうことが一つずつ、ようやく共通の課題になってきています。

ではなんで4の状態の意味が大きいのか、そこに至るのと至らないのではものすごく大きな違いがあると思うし、また至った後もその至り方でその後の展開に大きな差が出てくると思うのですが、そのあたりがどういうことなんだろうか、ということを、またぼちぼち考えていきたいと思います。

(お断り:私について書いている部分は当然のことながら「私の目で見て、私が語った」ことにすぎないので、定型の見方の特徴とか、私個人の物の見方のひとりよがりが入っているはずです。当然、私のパートナーを含め、他の方やアスペルガーの人から見たら事態はまた違う側面を見せるのだろうと思います)

2011年1月13日 (木)

当事者のつぶやき

アスペルガー当事者のとうふさんのブログ アスペルガー社会人のBlog を覗いてみました。2006年5月からずっと息長く続いているブログです。とても全部に目を通すことは出来ませんけれど、毎月少なくても数回、多ければ20回くらいずっとずっと書き込んで今に至っています。

そしてコメントが結構毎回いくつもあるんですね。なぜかというと、本文で「職場でこういうところがうまくいかなかったんだけれど、なぜなんでしょうか?」とか「どうして定型の人たちはこういう行動をするんでしょうか?」とか、「こういうときはどうしたらいいんでしょう?」といった質問を良くされているのに対して、訪れた人たちがそれぞれ答えてあげているんです。5年余りで45万ヒットを越えたらしいですが、それも驚きです。

トップの猫の絵も可愛いですが、なんか応援したくなる人が多くなるんでしょうか。いろんなアドバイスをされている。これもアスペルガー当事者の人へのサポートのひとつの在り方なんですね。職場での困難はやっぱり続くようだけれど、でもきっとそういうサポートに支えられ続けているんだろうと思います。

職場でも、わりあいうまくサポートしてくれる上司もあったし、そうでない上司もあって、そういうときにはやっぱり困ってしまってという感じです。でもブログの方ではずっと応援されているのかな(とびとびに一部だけしか読めていない、その範囲の中でのことですが)。

そこで「距離」ということを頭に思い浮かべるんです。こういうネットでのやりとりは、うまく使えば適当な距離を保つことが出来る。ギブアンドテイクの関係も、一緒に暮らしているような状況で定型が求めるようなギブアンドテイクになる必要もなく、比較的淡泊にアドバイスをして御礼を言われて、そんな感じで続けられる。こんなに続くのも、そのあたりがちょうどいい距離感にはまっているからなのかもしれないなと思ったりします。

それから、このことを一番書きたかったんですが、自分はアスペルガーのことを、アスペルガーの人のことをやっぱりわかってないなあ、と感じました。なんていうのか、単にアスペルガーに関する知識がないとか、そういうことだけではなくて、アスペルガーの人が生きるっていうこと、しかもひとりひとりがそれぞれの人生の中で生きるって言うこと、そのことをどこまで感じ取れているかと言えば、ぜんぜんだなあとしみじみ感じるし、もっと言えば、そんな当たり前のことを改めて感じるような自分の薄っぺらさみたいなことも今更ながら思ってしまいます。ま、もともと薄っぺらいんだからしょうがないんですけど (^ ^;)

アスペルガーの人もやっぱりいろいろ気を遣って、悩んで、日々苦労してますよね。「そんなの当たり前じゃないか!」と怒られそうですが……。なんかちょっとこんな風にちょっと距離を置いて読むことで、そういうのがふとしみじみ感じるようになるのかも。

2011年1月12日 (水)

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(6) 「仮完結」編

随分長くなってしまいましたが、そろそろとりあえず、現段階で思うことをまとめてみたいと思います。

始めに書いたように、人間関係の中で「ギブアンドテイク」というのは、現物のやりとりであっても、気持ちのやりとりであっても、とても重要でそこから人間は逃れて生きられないと思います。それなのに、アスペと定型の間ではそのギブアンドテイクにものすごく大きな困難が現れる。それは私個人の数少ない経験から言っても、ほんとうにもう絶望的な思いに何度もなるようなもので、その感じをこのブログでも「ブラックホール」とか「砂漠に水を撒く」というような表現で書いてみました。また「別の通りすがり」さんははっきりと定型と非定型(アスペルガー)にはギブアンドテイクはないと断言されています。

そういうギブだけがあってテイクがないような一方的な関係の中で、なおギブを続ける、というのは一つには「奉仕」のような関係で、それが行き着く一つの先は宗教的な精神ではないのか、ということを考えてみました。そしてそういう「聖なる次元」ではなく、俗世間の中でありうるもう一つの可能性は「子育て」に見られる一方的なギブの関係だろうと考えてみました。とはいえ、そのいずれも別の形ではギブアンドテイクにはなっているわけで、その意味で始めに書いた人間関係の形と本質的には変わるものではないだろう、ということも書きました。

ただ、「奉仕」と「子育て」に違いがあるのは、聖なる次元か俗の次元かといいうことだけではなく、それが「特定の人に対するものかどうか」ということです。「奉仕」は万人に対する、そして「子育て」は特定の人に対するものになります。

ではカレンさんと「別の通りすがり」さんの間で問題になった定型とアスペの関係はどちらかと言えば、当然夫婦という「特定の人との関係」になります。夫婦の間でお互いを思いやるのは、一方的な奉仕ではない。もし一方的な奉仕になってしまえば、それは一方が他方に従属することになるか、あるいは宗教的な境地に達して「万人を受け入れる」かのような意味で目の前のパートナーも受け入れる、といった関係になるでしょう。それはいわゆる夫婦という関係のレベルを越えてしまっています。もちろんそれはそれで素晴らしいでしょうけれども、世の中に相当の数苦しんでいらっしゃるだろう定型とアスペのカップルの中で、そういう悟り的な関係を求めることは不可能です。もしそれを求めてしまえば、結果的には単に一方が他方に従属するだけの関係になってしまう可能性が大でしょう。

そうすると、大多数のカップルにとっては、あくまで俗の関係の中で、そのレベルで問題に向き合っていかなければならない。あくまでも「特定のこの人との関係」がどうにかならないといけないわけです。ということは、そこで目指されなければならないのは俗のレベルで「ギブアンドテイク」の関係をどう作るか、と言うことであり、それが出来れば関係は持続できるだろうし、出来なければ関係は解消されることのほうがお互いのために良いかも知れません。

ではどうすれば「ギブアンドテイク」の関係に近づけるのか。「別の通りすがり」さんは今回は絶望を表明されています。多分多くの方が同じ思いを抱いていらっしゃると思います。とりわけ女性が定型というカップルの場合、前に「ジェンダー」の問題を少し考えてみたように、そういう状況に追い込まれてしまう圧力が確実にあると思える。あたかも母親が子どもを受容し、苦しみも一手に引き受け、自己犠牲の精神で子育てに取り組まなければならないと思われているように、アスペの夫を忍耐によって抱え込まなければならない、という構造に陥りやすい。

多分、カレンさんの夫婦関係では、幸いにしてそういう圧力が相対的に弱かったということがあって、それが背景的には幸いした部分もあるのではないかと勝手に想像します。ですから、その点ではもっとシビアな状況の中で解決を模索せざるを得ない方もありそうです。私の知っている範囲でも、古い嫁観念を持った農家などではそういう状況に追い込まれ易いように思います。

そういう問題はあるにせよ、それにしても別に宗教的な悟りに至るのでなくとも、俗の世界の中で、関係を「ギブアンドテイク」的なものに近づけていく道はあるのではないか。ということを、たとえばカレンさんの体験は示して下さっているように思えるし、またここでご紹介させていただいているいくつかのアスペルガー当事者の方達の試みなどを見ても、そう思えるのです。

もちろんそこに至る道も容易ではないでしょう。今は想像もつかないような壁がいくつもそこにあるのだろうと思います。ひとりひとりが抱えた状況も千差万別なわけですし。ただ、私個人はわずかずつでも、そのあたりについて、可能性を引き続き考えていきたいと、今の段階では思っています。

最後に、こういう議論は果たしてアスペルガーの方にはどう読まれるのか、ということは全くわかりませんし、こういうところでも交流が可能であればなあと思ったりします。

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(5) 「翻訳」編

さていよいよ本題だったアスペと定型のギブアンドテイクの問題です。

ここでは先にご紹介した「別の通りすがり」さんの、アスペルガーのパートナーといい関係になれたというカレンさんの書き込みを「偽善」と断言するような強い反発はなぜ生まれるのか、ということも考えてみたいし、「別の通りすがり」さんが不可能と断定したアスペと定型のギブアンドテイクの可能性についても考えてみたいと思います。(以下、私の勝手な想像ですので、「別の通りすがり」さんや「カレン」さんの考えられていることをどこまで追えているかは全くわかりません。とんでもない誤解かも知れませんし、もしお二人がお読みになることがあってそう感じられたらいつでもどうぞご指摘下さい。)

「別の通りすがり」さんの主張はおよそこういうものです。カレンさんがパートナーとうまくいくようになったのは、カレンさんが一方的に我慢して(自制して)相手に合わせているからだ。アスペルガーの相手は決してカレンさんが相手に対してするような配慮はしないはずだ。だから、自分が一方的に我慢して成り立っているような、ギブアンドテイクが成り立たない関係など偽物の関係に過ぎない。

つまりここで「別の通りすがり」さんはカレンさんとパートナーとの関係を「奉仕」のような関係と捉えたということのように思えます。相手からの見返りを期待せずに相手のために行為する。そう捉えたから、最後に「カレンさんの境地は、ある意味、教祖の域にあります。凡人には、無理です。」という言葉が添えられることになるのでしょう。そういう一方的な関係が成立するのは(3)で述べたような、一種の宗教的な境地でしかあり得ない、というふうに感じられたからだと思うのです。

だから、「別の通りすがり」さんが今まさに抱え込んでいらっしゃるだろう(具体的にはわかりませんが)、凡人として生きる俗の世界の苦しみにはその話は通用しない、あるいはそんなものを自分に求められてもどうしようもない、と思われた。そんな話を美化されたら、一体この自分の苦しみはどうなるのか、と。これ以上ただ一方的に我慢を続けろというのか、と。

それに対してはカレンさんは、これは自制しているのではないし、一方的なものでもない。自分もテイクできるようになってきているのだ、ということを語られ、「私は凡人です。教祖の域など、とてもとても、まだまだ、です。」ということで、「教祖の域はまだまだ」という風に書かれているように、ある種の宗教性の方向に向かれていることでは「別の通りすがり」さんの理解と矛盾はしていませんけれども、けれども現在の状態はそういう「悟り」の段階のようなもので達成されている状態とは違うんだと答えられています。

カレンさんが悟りの段階に入られた方なのか、あるいはそういうふりをしている偽善者なのか、ということについては私がどうこう言うべき話ではないでしょう。そんな資格が自分にあるわけではありません。ただ、カレンさんがどういうふうにうまく行くようになったか、ということを説明されている言葉の中に、いくつか大事なポイントがあるように思います。そしてそれは悟っているかどうかとは関係なく、この俗の世界の中でのギブアンドテイクの問題として考えられることのように思えるのです。

まず「別の通りすがり」さんが「定型ならば、こちらが、思っているように、相手にも、思ってほしい、というのが、「普通」であると思います」と主張されていることに対して、「私が思っているように相手に思って欲しいとは、今は思っていません。」と答えられています。つまり、自分が考えていたギブアンドテイクの関係(同じ思いの共有など)とは違う考え方になったのだ、ということと理解できそうです。ですから次に「夫が私の思いやりのように配慮してくれているとは思いません。」と書かれています。ではやっぱりギブアンドテイクは成り立たないのか?

続けてカレンさんが言うのは「別の通りすがり」さんの指摘を肯定した上で、「でも、それ(夫の行為)が、夫の私に対する愛情の表し方であると、今はすごくわかります。私は私のやり方で、夫は夫のやり方で」という形で、ちゃんとギブアンドテイクになっている、ということです。

そこで大事なことだなと思うのは、それぞれの相手のやり方は、自分にとっては「思いやり」とか「愛情」の表現にはならないものだ、ということです。にもかかわらず、お二人はその相手のやり方が相手にとっては「思いやり」や「愛情」の表現なのだ、ということをわかり合った。それをこんな風に表現されます。「お互いのやり方の違いをわかって、お互いのやり方の意味を翻訳して解釈して、ちゃんと「ギブアンドテイク」になっていると感じています。」

私がとても重要と感じるポイントはこの「翻訳」あるいは「解釈」という部分です。自分とは全く異なるような、自分には想像も出来ない形で、しかし相手は自分に「思いやり」や「愛情」を表現してくれていた。言葉や行動は全く異なるけれども、その意味はつながるものがあった、ということを見いだされたということになります。それが「解釈」であり、その作業が「翻訳」という、いわば俗の世界での工夫です。そうすれば悟りの世界でなくとも、異なる言葉や行動を持つ人間の間にも、別の形でギブアンドテイクの可能性が出てくることになります。

では、そのような「翻訳」も困難だったお二人が、なぜ今のような状態に変わってこられたか。そのことを私が理解しようとするときに手がかりになりそうなのが「夫のかつての「俺が一生懸命やってるのが、なんでわからないんだ?」という悲痛な叫びのような言葉を思い返したりしながら、」というところです。言葉や行動で伝わらない真剣な思いがそこにある、ということを、カレンさんは心のどこかで感じずにはいられなかったのではないでしょうか。自分だけが苦しんでいるわけではないし、自分だけが伝わらなさに絶望的になっているのではない。相手も同じなのだ、という感覚。「伝えたいのにどうしても伝わらない」という切ない思いがそこでは逆説的に共有されたのだとも言えそうに思うのです。

ということで「別の通りすがり」さんが考えるギブアンドテイクと、カレンさんが考えるギブアンドテイクの具体的な内容にズレがあり、「別の通りすがり」さんにはカレンさんの関係が「ギブアンドテイク」とは見えなかった。だから一方的な「奉仕」である宗教的な関係に見えた、ということなのではないでしょうか。

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(4) 「子育て」編

さて再び現世に戻ってきました。「子育て」です。

生まれて初めて親というものをやっている人間にとって「子育て」がいろんな意味でどんなに大変か、ということについては、経験者の方には共感できる方が少なくないと思います。アスペルガーの人も、子育てで悩んでいる方は多いのではないでしょうか。「うんそうだ」と思っていただけたら、定型的にはそれを「共感が成り立った」と表現したりしますけれど。(「うんそうだ」の内容が微妙にずれていたりするかも知れませんけれどもね)

「子育てにおけるギブアンドテイク」という問題を、すごくドライに考えると、今育ててやって恩を売っておき、年取ってから世話をしてもらうという形で恩返しをさせるためだ、という見方もあります。実際老後の社会保障がない社会などは、子だくさんにして将来の安定を図る、ということがあったりするわけです。この考え方をさらに深めて儒教なんかは「孝」を基本にして社会全体を支える、というような理屈を作り出したりもしています。「孝」の考えが色濃く残っている社会では、その人が信用できる人かどうかを判断する重要な基準に「親を大切にしているか」というのが実際あったりします。

でも老後は社会保障で、という社会では子育てをしないかというと、もちろんそんなことはありません。このあたりは生物学の方から言わせれば、「自分の遺伝子を残すためだ」という説明になるのでしょう。もちろん人間も生物ですからベースにそういう力が働いていることは当然でしょうけれども、その仕組みはさすがに人間はものすごく複雑で、その結果「子供を作らない」という考え方の夫婦だって決して少なくはないわけです。それを単に「例外」と無視してしまうことは人間の社会の大事な部分を見ないことになってしまいます。

人間社会は「個人の利益」というものをいろんな形で犠牲にする、ということをたくさんやることで成り立っている。奉仕の問題などその典型でしょう。先に書いたように、そこにもギブアンドテイクが絡んでいるだろうとは私も思うのですが、それは「自分の遺伝子を残す」という枠を越えてしまうし、また物質的な利益を得る、という範囲も超えて精神的なレベルで成り立つものだったりする。(回り回って間接的に利益になる、という話はもちろんあり得るのですが、直接と間接の違いは大変大きく、そこにこそ、人間社会の仕組みのキーポイントがあるんだと思っています)

あ、少し脱線してしまいましたが、とにかく子育ては大変 (^ ^;)。新生児を抱えた家庭など、夜中にあの泣き声で何度たたき起こされるか。泣きやまない子どもをだっこしてどれだけ部屋の中をうろうろさせられるか、おろおろさせられるか。赤ちゃんに対する虐待だってぼちぼち生じてしまうほどに、やっぱり大変なわけです。でも、そういう虐待してしまう親の中にも、泣きやんで眠っている子どもの寝顔を見て、ほんとに可愛く思い、泣いて自分を責めるという人もあったりする。このすごい矛盾みたいなことが子育てなんだろうなと思います。

で、素朴に考えてこのしんどい子育てを、それでもなんとか続けられるのは、やっぱり「可愛い」からなんですよね。あのにこっとほほえんでもらったと思ったときのうれしさ(ある動物行動学者は「実はあれは赤ん坊がうまいこと親を籠絡したと思ってほくそ笑んでいるんだ」と面白いことを言っていましたが)。後追いをされたり、帰ってきたらにこにこと喜んで向かえてくれるときのうれしさ。はじめて子どもが言葉を話したときの喜び。それはやっぱり子育てというギブに対する親の側のテイクになるのは間違いないと思います。

ただし、大人同士のギブアンドテイクと決定的に違うのは、やりとりの方向が一方的だと言うことです。世話をするのはあくまで親の方であり、子どもは「笑顔」などのご褒美を下さるに過ぎない。お小遣いだって一方的にあげるだけで、子どもがそれで家事をやってくれるわけでもない(やらせている家庭もありますけど)。物質的なことで言えば、親はひたすらすねをかじられ、しゃぶられるだけで終わります。だからといってそういう親子の関係を「おかしい」とか「不当だ」というふうに考える人はまずないでしょう。もちろん時代を遡れば、ある程度成長すれば子どもの内から親と一緒に働く、という時代もあったわけですが、まさか乳児の時から働かせるところはありません。

一方向的なギブアンドテイク、ということでは子育ては「奉仕」にも似ていますが、でも「子育ては奉仕である」と言われたらまあ多くの方は違和感があるでしょう。やっぱりそこには違いがあるはずです。ここではその違いを「万人に対する奉仕」と「特定の子どもに対する子育て」というふうな言い方で考えてみたいと思います。奉仕の精神は、基本的には特定の人を選ばない。でも子育ては人を選ぶわけです。自分の子どもである場合もあれば、養子である場合もあるでしょうが、とにかく特定の子どもと特定の大人の間の特別の関係です。

というところで、いくつかのギブアンドテイクのパターンを私なりに多少整理してみたところで、次にアスペと定型の間の大人同士のギブアンドテイクについて考えてみたいと思います。

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(3) 「奉仕」編

私の中国の友人のひとりは、日本の一休さんの話が好きで、何度か面白い話として言っていたのはこんな物語でした。

ある時一休さんが歩いていると乞食がいたので、一休さんは施しをした。けれども乞食はありがとうとも何とも言わずに当たり前のようにそれを受け取った。一休さんは面白いなあとおもって(ここで怒らないところがさすがですが)、「なんで御礼をいわないんですか?」と尋ねてみた。そうするとその乞食は「俺はこの施しをもらったが、それであんたは「こいつに施しをしてやった」という喜びを得たはずだ。その上にさらに礼まで言って欲しいというのか?」と答えた。一休さんはそれを聞いてほんとに感心してしまった。

ここではいわゆる社会的な「弱者」に対する援助とか奉仕とか、そういう行為が問題になっています。援助とか奉仕とかは、基本的には直接の見返りを期待しないもの、あるいはしてはいけないものなわけですね。だから「紐付き援助」とか見られるとそれは批判の対象にもなる。ただ、ほんとに見返りが無いのかというと、それはそうは言えないでしょう。たとえばボランティアで老人ホームに行った若者が、老人から「ありがとう」と言われてものすごくうれしかった、というような感想を語っていることがありますけれど、「感謝」というのは結果として立派な見返りになります。また直接本人からでなくても「社会的な賞賛」というような形でこれも立派な見返りになる。これもギブアンドテイクの関係です。

ただし、「そのことを目的にやっている」と見られてしまえば、それは単なる取引であって、その「奉仕」の精神は否定されてしまうわけです。上の一休さんのとんち話は援助や奉仕という行為とそれに対する見返りの微妙なかねあいを上手にあぶり出してくれているのだと思います。一休さんは僧籍にある人ですから、直接の「感謝」とか、社会的な「賞賛」といった形であっても見返りを期待するのは俗っぽすぎることになる。それは悟っていない人のやることだ。というようなことをこの話は乞食の口を借りて実にうまく表現しているんでしょう。

では相手から「感謝」されようがされまいが奉仕したり援助したりする、という行為は、ギブアンドテイクを越えたものなのでしょうか?

このあたりになると、宗教的な奉仕の行為、といったことがかなり絡んできそうです。私は宗教者ではないし、そうなることを自分の理想と思ったこともないので、そういう自分が宗教的に生きていらっしゃる方のことについて語ることには限界があるわけですが、ただ、少なくともわりと親しい宗教者あるいは宗教的な人の生き方などを見ていると、その奉仕の行為は「お返し」として行われている面があるような気がします。それは何に対するお返しかというと、自分が神やその宗教によって苦しみから救ってもらえたこと、それに支えられていることに対するお返しです。

ここでは普通の援助とは順序が逆になっています。援助したから感謝して欲しい、というのではなく、すでにまず自分が援助してもらっているから、だからそのお返しとして奉仕が行われるのだという形。だからその奉仕に対してはお返しは必要がありませんけれども、やはり一種のギブアンドテイクが成り立っていると思えるのです。

あるいは喜捨という言葉があります。仏教的な考え方だと思うのですが、喜んで捨てる。ものに対するこだわりは人を苦しめる煩悩の大きなものな訳ですから、必要な人には必要なものをもらってもらう。その行為自体が自分が煩悩を離れることの一部であり、喜びだということにもなるのでしょう。

イスラーム教の社会などでも乞食は立派な(?)職業の一つであって、金持ちはそれに施しをすることが宗教的な義務と考えられていると聞いたことがあります。それは神の意志にかなう行為であり、神に近づく行為であり、乞食は金持ちに対してそういう機会を提供してあげているのだ、という考えがあるらしい。耳学問に過ぎませんが。

もちろん宗教もいろいろですから、こういう理解に当てはまらないものもあるのかもしれませんが、少なくとも一部はそういう感じのギブアンドテイクが成り立っているのではないかと思っています。まあ、悟っていない人間のここが限界なのかも知れませんけれども (´ε`*)ゝ 

以上、「奉仕」という、一見すると一方向的な行為に見えるものにも、実は精神的なレベルである種のギブアンドテイクが成り立っているのではないか(あるいはそういう精神になるから奉仕が継続できるようになるのではないか)、ということを書いてみました。そうすると、そこまで宗教的な世界に近づいた定型の方の場合には、アスペルガーの人とのコミュニケーションで「見返り」が感じられなくても、自分の喜びとして共に生きる、というコミュニケーションがもしかすると可能になるのかも知れません。

ただ、私はそういう悟りの世界にはいることは考えていませんし、そもそもそんな悟れるような人間ではないので、もっともっと俗な世間の中で、もっと俗な形でギブアンドテイクの問題を考えていく必要があります。そこでもう一度現世に戻って、次に「子育て」の問題について、少し考えてみたいと思います。(しかしこの話、どこに向かっていってどこで落ち着くんでしょう? (^ ^;) )

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(2) 「気持ち」編

次に気持ちのギブアンドテイクの問題に進んでみます。

共感の関係は定型の場合ギブアンドテイクを成り立たせるための大事な前提だと考えられるかも知れません。というのはお買い物のようなギブアンドテイクは基準が「値段」みたいに目に見える形ではっきり決まっていますから、売り手と買い手の感情的なやりとりはなくてもいいわけですが(定価があるものは)、プレゼントでもそうだし、さらに会話みたいなギブアンドテイクの場合は、やりとりされるのは「気持ち」という面が大きくなり、「このプレゼント」とか「この話題」とかが相手にどういう気持ちを伝えることになるか、相手が喜んでくれるのかどうか、ということは「値段」のように「誰でも一緒」とはいかない。その相手の気持ちになって考えてみる、みたいなことがどうしても必要になる。

「これをもらったら相手が嬉しいだろうな。相手が嬉しいと自分も嬉しいな」という感じのプレゼントが理想的なわけだけど、そういうのは共感的な関係を求めていることだし、相手の喜びを想像するというのも共感的な関係の一部といえると思います。で、もちろん「読み間違い」はあって、相手が全然喜んでくれなかったりもするけど、そのときは贈った側ががっかりして、次は良いものを、と考えたりするのはそんなに不自然なことではありません。定型の方はそういう相手との気持ちのすりあわせ、共有みたいなことをずっとやり続けて、ずっとその力を鍛え続けるわけですよね。言ってみれば一生の間。

で、ここの部分が定型とアスペの間の鬼門になっているとされているように思います。何がどうずれるのか、私にはまだよくわからないんだけれど、とにかくうまく共感の関係を共有できない。いや、いろんなブログ(当事者の人のも含む)に強調されているように「全然ない」、みたいな話ではないと思うんです。少なくとも同じテレビを見て一緒に笑ったりとか、自分のせいで相手の傷つく姿を見て自分も傷ついたりとか、そういうようなことは(人によってそのレベル、強さに違いはあるでしょうが)あると思える。

ひとつ例をあげれば、先日自分がアスペルガーであるということを公言しながらドラマーをされている、金田ゆうじさんのブログを紹介させていただきましたが、このブログのその記事を見て、金田さんがツイッターで「とてもうれしいです」という言葉と共にアドレスを流して下さっていました。うれしいということの中身が書かれていたわけではないので、具体的なその中身は想像するだけですが、でも何か共有されるもの、伝わるものがあったのではないかと私は感じたんですね。そして少なくとも私の方はその金田さんの言葉でとてもうれしくなりました。なんらかの感情の行き来がそこにはあったと思うんです。

それからアスペの人同士での感情的な激しい対立とかもあるわけですよね。たとえば先にご紹介したnonono12345さんのブログにある、同じくアスペルガーと思われるお父さんとの厳しい対立関係なんかもその例でしょう。もちろん喧嘩を共感とは言わないけれど、でも気持ちの激しいやりとりではある。だから少なくともこの例では対立的な形ではギブ(怒りと攻撃)アンドテイク(怒りと反撃)が成り立っているわけです。

それだけではありません。アスペルガーライフblogでのアスペルガー当事者同士(本人の表明ですが)のやりとりを見ていても、たとえば「定型ってなんであんなに<共感>とか<一緒>とかこだわるんでしょうね?」と不思議がる、ということでお互いに「共感」しあったりされているように私には見えますし、また周囲に理解されないことでの苦しみのパターンも、多くのアスペルガーの人が同じような経験をしているので、それを書き込み、読むことでやっぱり一種の「共感」が成り立っているようにも感じられる。あのブログが大人気な理由の少なくとも一部は、そういう「共感」に見える展開でアスペルガーの人も何らかの意味で救われるからではないかと思うんです。

ただそういう感情の行き来が定型間のそれと大体一緒なのかどうかもよくわからないし、またそこで一種の気持ちの交流が成り立った状態が、定型の期待するような形では次に展開していかないということはあると思います。それがどうずれるのかも、まだうまく言葉にならないのがもどかしいんですが。で、多くの場合はそもそも共感関係が出来ないという感じになってしまうし、アスペの当事者の方自身も(回りのみんなから常にそう言われ続けるからかも知れませんが)自分たちはそういうもんだとほぼ断言するような感じになっています。

ということで、アスペルガーの人に共感がないかどうか、気持ちのやりとりがないかどうか、ということについて、ここでは何か否定的な決めつけのようなことはしないでおきたいと思います。ただ、少なくとも定型の期待する気持ちのギブアンドテイクがほんとになかなかうまく実現しない、ということはこれはもうどうしようもなくその通りだと思うんですね。ですから、そういうことを前提に、次はその上でのギブアンドテイクってなんだろうということを考えてみたいと思います。

アスペと定型のギブアンドテイクの意味(1)「現物」と「会話」編

昨日のギブアンドテイクの問題、人と人のつながりを考えるときにやっぱり一番基本的な問題で、コミュニケーションがうまく行かないというのは、このギブアンドテイクの関係がうまくとれない、ということがすごく多いんじゃないかと思います。

で、書き始めたらちょっと長くなりそうなんで、このブログでは初めてですが、続き物の形にしてみますね。まずは「現物」と「会話」のギブアンドテイクから。

こんなふうにギブアンドテイクというと、なんだか「相手から何かの見返りを期待して相手に何かをしてあげる」みたいな、計算高い「不純な動機」でつながっているみたいにも感じられるでしょうけれど、でもここではもっと広い意味でギブアンドテイクを考えてみたいんです。

ギブアンドテイクの一番シンプルなのは、お金を払って品物を買う、ということですよね。「値段」という形でギブアンドテイクの基準もはっきり計算できてお互いに損得無し。その場限りで関係は清算されて後腐れもない。別に良いとも言えないし悪いとも言えないけど、それがないと生きていかれない。

プレゼントのやりとりなんかはもうちょっと複雑。お互いの誕生日に贈り物を贈り合うのも時間を隔ててつながる一種のギブアンドテイクで、「プレゼントしあう関係」を作るわけなんだけど、お返しにもらったプレゼントと同じ物をあげることは普通ないし、もちろんその値段にあたるお金をプレゼントし返すなんてありえない。それじゃ買い物と一緒になっちゃう。相手のことを考えて、自分の気持ちをプレゼントに載せて贈り合う、ということをしますよね。そうやってお互いのつながりが作られたり深まったりしていく。逆に言えば変なものを贈ってしまったり、贈り返さなかったりすれば直接文句を言われることは少ないかも知れないけど、関係は危うくなる。

不法なギブアンドテイクももちろんあります。いわゆる賄賂とか買収とかいうやつ。本当は個人の利益がからんではいけないことについて、権限のある人個人にお金や贈り物をギブしてその権限を自分のために使ってもらい、その利益をテイクするタイプ。これも露骨にやると捕まるから、ギブとテイクの関係がどうなっているのかわかんないような工夫をしてやられたりしてますけどね。そのあたりは日本でも検察と政治家の因縁の闘いの場になったりしてます。

というようなギブアンドテイクはプレゼントのように「気持ち」がこもるものもあるけど、いずれにせよ何かしら「現物」のやりとりが絡んでいます。でももちろんギブアンドテイクはそれに限られるわけではない。

たとえばあいさつもギブアンドテイク。一方があいさつするのに他方があいさつを返さないというのはこの関係が成り立っていないのか、それか一方がものすごい支配者で一方的にあいさつされるだけの独裁者みたいな人の場合でしょう。だから定型的にはあいさつを返さないというのは、相手にものすごく尊大な態度を感じるか、あるいは相手が自分と関係を持ちたくないんだな、というふうに理解することになります。

メールのやりとりなんかでも、返事をもらえないときは不安になったり、悲しくなったり、腹が立ったりすることがあるわけだけど、これもギブアンドテイクが成り立たないからですよね。定型とアスペの人の間のやりとりではそういうことが頻発する。定型が当然返事をもらえると思って書いているのに、アスペの人は返事の必要性が明示されていない場合にはその必要を全然感じなかったりする。(すごくパターン化された儀礼的やりとりは大丈夫なことが多いけれど)そうすると、定型の側は「何で返事がないのか?」に悩んだりして、関係がうまくいかない。

もちろんメールに限りません。会話でもそうですね。こちらが何かを話かけ(話題をギブ)、相手がそれに対して返事をする(返事をテイク)。これをお互いにやり合うわけです。で、定型とアスペの間でこのギブアンドテイクがうまく行かないことがとても多い。定型の側で「この話題を振ったのは、次にこういう話に展開したいからだ」みたいな「言外の意味」が含まれることが多いのだけれど、アスペの人はそこはある意味真正直に語られた話題として受け取るから、定型の側が期待する返事が返ってこない。だからアスペの人はちゃんと返事をし、ギブアンドテイクが成り立ってそれでおしまいと思ってしまい、逆に定型の方は何も返事が得られず、ギブアンドテイクが否定されたと感じる。

2011年1月11日 (火)

アスペと定型のギブアンドテイク?

以前ご紹介した「配偶者の会:井戸端掲示板」のカレンさんと夫の体験について、「別の通りすがり」という方がアスペと定型の間にギブアンドテイクは成り立たないのだから、教祖のような域に達したカレンさんが一方的に我慢して気を遣ってるだけで、そんなのは偽善だ、という書き込みをされていました。このギブアンドテイク問題は人間同士のつながりを考えるときにすごく重要ですし、私は以下のように書き込んでみました。こちらにもコピペしてみます。

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「別の通りすがり」さんの

「ギブ アンド テイク」の関係であるといえますか?

 という問いかけは、私もずっと考え続けている問題です。一方が「障がい者」で、他方がそれを一方的に配慮し、世話する「正常人」という関係でいいのか。しかも「正常人」の側が一方的に「被害」を被りつつ相手はただサービスを受けるだけ、ということであれば、やっぱりその関係は破綻してるように思えるし、そこでの「正常人」は「障がい者」に従属しているだけになると思うんですね。もしカレンさんの関係がそういうものであるとすれば、そしてそのことを知りながら無理に美談を語っているのであれば、「別の通りすがり」さんのいう「偽善」と言えるだろうと思います。

 ただ、カレンさんの書かれてきたものを拝見する限りでは、やっぱりカレンさんとパートナーの方なりの形で通じ合うものがあった(と少なくともカレンさんは実感できた)と私には感じられました。「別の通りすがり」さんが書かれているように、それは凡人にはたどれない特別な道筋なのかも知れないですが、だからといってカレンさんにとってそこに嘘が含まれているとは私には感じられなかったんですね。そこにはカレンさんの、カレンさんにとっての真実が含まれていると感じます。それが誰にも通用するものであるかどうかの問題は全然関係なく。

 「別の通りすがり」さんがカレンさんとはまた異なる状況の中で、アスペルガーの相手の方と異なる道を、非常に厳しい形で歩んでこられたこと、その激しい痛みは、書かれている文章から伝わってくる感じがします。それもまたどこにも偽りのない思いなのですよね?ただ、

定型と非定型の間には、「ギブ アンド テイク」の関係は、存在しないと思います。

と断定されていることについては、私は今の時点ではそういう判断はできないなあと思いました。たとえば自分のブログでもこの間紹介したのですが、ネットでアスペルガーの人の自助グループを作ろうとしているある方は、定型の人とのコミュニケーションをうまくとるために次のような5つが大切ではないかと訴えています。

1.相手の言動を、なるべく好意的に解釈する。
2.自分の「当り前」に、とらわれすぎない。
3.相手に「してもらったこと」も考える。
4.すべての人間に、悪意があるわけではない。
5.無口だって、いいじゃないですか。

これって、定型の人間同志がつきあいをするときにも参考になりそうですよね。あと、メジャーなのでご覧になったこともあるかも知れませんが、「アスペルガーライフblog」というところなど、アスペルガー一家の方がたくましく多くのネット利用者を巻き込んで、お互いにうまくやっていくにはどうしたらいいか、アスペルガーの人が社会環境から二次障がいを与えられることをどう防いだらいいか、といったことについてばんばん議論して、とても面白いです。

たしかに何をギブと考え、何をテイクと考えるか、ということのとらえ方は、アスペと定型でびっくりするほどずれている場合も多いのだろうと思います。私もそのあまりのズレに衝撃を受け、しばらく半ば寝込む状態になったこともあります。ただ、ずれているとは言ってもそれで「ない」と断言することも私にはできないわけです。もちろん定型がそうであるように、アスペの人も様々でしょうから、「ない」とか「ほとんどない」人もいるのかもしれませんけれど、すべてのアスペの人に絶対無いとはやはり言えない。実際、私の場合は紆余曲折を含みながらも、お互いの気の使い方を少しずつ調整できてきている部分があります。

長くなりましたけど、「偽善」ということと、それから「アスペにはギブアンドテイクがない」と断言されている部分については、ほんとにそうかなという素朴な疑問を私は感じました。

2011年1月10日 (月)

定型の自助グループ

井戸端掲示板にじいろ(アスペルガーを配偶者にもつ人の自助グループです) という掲示板を見ました。二ヶ月に一度関西で「アスペルガーを配偶者にもつ人」が自由に集まって話し合う活動をされているようで、毎回話し合われた内容の概略も紹介されています。場所は関西で、やっぱり関西はこういうの早いなあと思いますが、それでも掲載されいている最初の集まりは09年8月のものですから、そんなに「老舗」というほどの歴史はまだないですね。

その中の昨年4月の集まりを紹介する文章の最後に、管理人の方がこんな感想を書かれていました。

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上に、(プライバシー配慮のため)具体例を除いた、参加者の方々からの活発なご意見を三つに分けて並べました(重複している文章がありますが、お許しください)。私自身が深く共感をもち書き留めた言葉です。このように何気なく出ている言葉一つ一つが日々の生活で得られない「共感」、「癒し」になります。今までのアスペルガーを配偶者にもっている経験は共感してもらえない、わかってもらえないことの連続でした。困っていること自体がわからなくなっていたのだと、参加者の方々の発言を聞きながら、自分で発言しながら、感じました。
 私自身、混乱しているときは、「ジェンダー」や「異文化」という言葉で、納得しようとしていました。男性と女性という性による社会的な役割からくるもの。結婚はどこの家庭でもそれまでの育った環境が異なることから、異文化だ。もちろん、結婚した男女の関係にはジェンダーや異文化は密接に関係があります。しかし、そうではなく、生得的な異なり(=アスペルガー)の上にジェンダーと異文化があるのだとやっと気付きました。
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アスペと定型のコミュニケーション、あるいは共生を考えるときに鍵になるポイントがいくつかわかりやすく書かれているなあと思いました。(というか、正確に言えば、この集まりは「定型」の人が集まって悩みを共有し、支え合っていくための会ですから、アスペの側の人たちとの直接のコミュニケーションの場とはまた違う、ということは一応前提として頭の片隅に入れておく必要はあると思いますが。)

まずひとつはこういう場が「共感」を得られる場として参加者には本当に大切で、「癒し」をもたらす力を持っていることです。先に金田ゆうじさんのブログを紹介した文で、アスペの人もアスペの人なりの仕方で「仲間」を求めている、ということなんだろうな、という理解をしてみたんですが、ただ、「仲間」であるための要件というか、仲間に何を求めるか、求めないか、ということについてはやっぱり定型とアスペではズレがあるんだと思います。そして定型の側から見たときに、そのズレの最大のものの一つが「共感」という言葉で表されるようなものな訳ですね。

これは私自身の体験からも切実にわかります。大人同士の関係でも親友や恋人、夫婦ともなれば、定型の側はこの「共感」がものすごく大切で、それによって支えられ、しんどい人生もなんとか生きていける、というところがあるわけですが、定型の子どもの場合はその成長過程の中でその重要性はさらに大きい。養育者から共感を持って支えられることを栄養に育って部分が大きいし、それを求める力もほんとに大きいくのですから。けれどもその部分が定型とアスペの関係の中ではほんとに共有されにくい。

定型の側が「そんなこと言うまでもないことだろう」と当たり前のように感じて、その必要性をなんとか相手に伝えようとしても、驚くほどにそれが伝わらない。そしてその伝わらなさがどうにも理解できず、「相手が自分とのまともなコミュニケーションを拒否しているのではないか」と感じてしまうようにもなります。

多分一般に自助グループの大切な役割は、世の中で少数派の状況に置かれていて、なかなか自分の気持ちを理解してもらえない人たちが、そこではすごく共感してもらえる、ということがあるのだと思いますが、その働きの重要性がアスペの人を配偶者にもつ定型の人にはとりわけ大きいのだろうと、経験上もしみじみ思います。

次に「ジェンダー」や「異文化」という視点からの理解がまずあったという話。ここではその下に「生得的な異なり(=アスペルガー)」があるということの方が大事なポイントとして書かれていますが、そのことはまた後で考えることにして、アスペルガーと定型のコミュニケーションを考えるときに、「ジェンダー」や「異文化」という視点が重要だと言うことは、私の場合は逆に最近その意識が強まってきました。

というのは、まず「ジェンダー」についていうと、アスペルガーである人が夫の側であるのか、妻であるのかということの差は、その関係がどう作られ、進んでいくか、ということについて、相当大きな違いを生んでいる可能性を感じるからです。私のように「定型」の側が男である場合は、社会的な権力関係から言えば、やっぱり強いことが多いわけです。もちろん人それぞれで、個性も多様ですから、家庭内での実質的な権力関係が社会的なそれとは逆になる場合だってあるでしょう。でも一般的な傾向としてはやっぱり社会的には男の方が有利なことが多いのだと思えます。

なぜそれを強調するかと言えば、アスペルガーの人によるDVなどを含む深刻な話は、やはり女性が定型であるという場合に目立つように思えるからです。とりわけ女性に「母のように夫のすべてを受容する」ような態度が文化的に強く求められる傾向のある日本の社会では、女性がそういう関係を自分のリーダーシップで変えていくことが困難だし(夫より立場が弱いために)、かといってその状況から自らの意志で逃れることもできず、ひたすら耐えざるを得ない、というふうになってしまうのでしょう。アスペルガーの男性も、社会的には女性に対して相対的に強いとはいえ、その社会の中ではnonono12345さんの例にもあるように、ものすごい迫害を受けていたりしてぎりぎりの精神状態にも追い込まれたりしていることが少なくないのですから、場合によってそのストレスがDVのような形で現れてしまうこともありうる。

逆に女性の方がアスペルガーである場合は、子どもの頃からむしろおとなしく状況を受け入れ、我慢することを良しとされる傾向が強いわけですから(大体モデルとしての母親が多くの場合そうですし)、DVのような形で夫に対して暴力的に出ることは相対的には少ないでしょう。だから逆にそのストレスは直接相手に向けられずに内向する(自傷、物に当たる、抑鬱的になるなど)傾向が強くなると思えます。その我慢のレベルを越えた場合にはまた次の展開もあり得るでしょうけれど。さらにはアスペルガーの女性の方が激しいDVの被害者になるケースだってあり得るはずです。

こういうことはやっぱり「ジェンダー」の視点を入れて考えないとわからないんだと思うんですね。問題のベースにアスペルガーがあったとして、それが具体的にどんなふうに形になって問題化するか、ということを考える場合には。当然それに対してどう対処していったらいいのか、ということもそこでいろいろ変わってくるのだと思います。

「異文化」ということについてはこのブログでもなんどかすでに言及しました。特にアスペルガーの人たちの自助グループである「アスペルガーズサークル」の管理人の方が書かれていたことを見ると、アスペと定型のコミュニケーションで気をつけるべき事と、異文化間コミュニケーションで気をつけるべき事との間にかなり共通する部分がありそうだということも見えてきます。

で、この掲示板にじいろの管理人さんの場合は私とは逆に、そちらの方の理解からアスペルガーの方がむしろ基本的な問題としてあるのだ、というふうな気づきに進まれたわけです。そのことの意味は何なんだろうと考えてみるのですが、それは「生得的」という言葉で良く表されていると思えます。

つまり「ジェンダー」とか「異文化」というのは社会的に作られているものですから、社会が変わるとその内容も変化していくもので、固定的なものではありません。だから問題に「社会を変えよう」というような形で取り組み、変化させる可能性もある程度見えてきます。けれども「生得的」という理解は「変えようもないもの」という響きを持つわけですね。「もうそれはそのようなものとして受け入れて考えるかない」という部分がより強調される。

これ、いろんな言葉で表現できそうな気がします。たとえばある種の「あきらめ」。自分と同じような基準で理解し合える関係にいつかなるのではないか、という期待について、もう「生得的な違い」なのだから、それは無理なのだ、とあきらめること。いつかなえられるかわからない期待を持ち続けることはとても辛いことですが、その可能性はないのだと思い切ったときには少し楽になる部分は確かにあります。

ただしこれは下手をすると相手とのコミュニケーションの可能性を頭から排除し、「差別」につながる危険性もあるでしょう。実際アスペの人はそういう扱いを社会的には沢山受けていますよね。でも、「期待の内容を現実をふまえて調整し直す」という可能性も新たにそこから出てくることになります。この場合は単なる「あきらめ」ではなくて、「自分(定型)の側の(それまでの)こだわりを捨てる」という表現になるかもしれません。

もし相手との間でそのへんがうまく調整できれば、カレンさんの例でご紹介したような、新しい関係がそこから生み出されるかも知れない。その場合はある種の「悟り」を含んだような「受容」という風に表現できるかも知れません。逆にもうそれ以上相手に対する愛情をもてないことが明らかな場合など、「こだわりを捨てる」ことによって、ある程度お互いに納得しながら関係を解消する、という形になることもあるだろうと思います。

私の場合は「生得的な違いなんだ」ということがかなり自分の理解の基礎に据わり、そして相手と共有されるようになってからは、そのことを前提にどう折り合いが可能なのか(または不可能なのか)ということを模索する日々でしょうか。このあたりはそれこそジェンダー的に置かれた立場の違い、家族関係や親戚関係の違いなど、いろんな要素が絡まり合い、さらに相手とそれまで積み重ねてきた歴史の違いも大きな問題でしょうから、一般論は難しそうです。それぞれに個性的な模索が必要だし、いろんな答えの出し方があるのかなと思います。

2011年1月 9日 (日)

「お互い様」ということ

nonono12345さんの、アスペルガーのヒトリゴトというブログを読みました。

最初の方でたまたま同じくアスペルガーらしいお父さんとの葛藤の会話を読んで、アスペ同志の人の間でも、アスペと定型の間で発生するような、相手の言動に「傷つく」体験があるんだなあということを具体的に知りました(話としては聞いたことはあったのですが)。

で、その問題について少し考えて書いてみようかなと思ったのですが、さらにブログの始めからずっと読み進める内に、アスペルガーの人がこの社会の中でどういうしんどさを抱えて生きているのか、ということがずいぶんとリアルに伝わってくる感じがして、その深刻さに改めていろいろ考えさせられました。その中で、自分自身や親御さんに対する殺意までをいだきつつ、一生懸命に出口(?)を求めて苦しみ、考え続けられている姿が、ある意味で圧倒的な感じです。

私は分類すれば「定型」の人間ですから、AS者とのコミュニケーションで(特にその原因がわからない内は)ずっと傷つき続けてきましたし、その結果お定まりのように鬱にもなりました。なんとか状況を打開しようともがきならも、怒りや悲しみや絶望などの感情を何度も行き来してきたとも言えます。

だからnonono12345さんの周囲の人たちがどうして書かれているような反応をするのかはそれなりに想像できますし、周囲の人たちの大変さもわかる気はする。ブログにはnonono12345さんに対して職場の人たちが極めて理不尽に見える、明かないじめ行為が展開される様子が具体的に紹介されていますが、事の善し悪しは別として周囲の人がそうしてしまう理由は理解できる感じがするわけです。

でも「訳のわからない理由で追い詰められる」という、その点に注目すれば、本当に「お互い様」なのだということが、nonono12345さんのブログを読んで、なんだか以前よりもリアルに感じられるようになってきました。そしてnonono12345さんの視点から改めて見れば、やはり周囲の人々がこんな形で彼を追い詰めることは許されることではない、と私にも感じられるのです。

かといって、もし自分自身が現実にその「周囲の人」のひとりであったとすれば、はたして「許されない」とか、そういうことを言える余裕があるのかどうかは何ともわかりません。このことはもうすこし時間をかけて、ゆっくり考えていきたい感じがします。

2011年1月 8日 (土)

アスペ当事者からの解決の模索

アスペルガーズサークルというHPを見ました。アスペルガーである(と診断されたか、自分がそう思っている)人であることが会員になる資格となっています。そうやって少数派として苦しんでいる人たちの間でピアサポートをやろうとしているのですね。

ということで、会員になれない私はそこにある掲示板などは読めないのですが、サンプルのような形で管理人ご本人が投稿しているものがいくつか紹介されています。その中に「人とうまくやっていくには?」という項目もあり、九つの連続投稿内容が紹介されています。

その冒頭には、アスペと定型の間のコミュニケーションを、暴投しあうキャッチボールに喩える話が出てきます。特にアスペルガーの人がコントロールがへたくそで、相手の暴投を呼びやすいのだと理解される。そしてこんな呼びかけに続きます。

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アスペルガーは、コントロールがホントにヘタクソです。なので、「絶対ワザと投げたろ」と思ってしまいます。
アスペルガー同士でも、「ワザとや!」と思ってしまうことでしょう。
こうした誤解を避けるには、アスペルガーであることをカミングアウトすることも必要です。
自分を理解してもらうことも大切ですし、相手を理解しようとすることも大切です。

自分も、相手から暴投を投げられて、今までさんざんイヤな思いをしてきました。
でももしかしたら、自分が気付かないだけで、自分もその相手に暴投していたのかもしれません。
今までは、アスペルガーなんてものを知らなかった。だから、「自分に問題がある」ということは分かっていたけど、「どうしたらいいか」がまるで分からなかった。
今は、違う。アスペルガーであることが分かった。アスペルガーであるという自覚を持つことができた。
自覚を持つことができれば、対策の道も見えてくるもの。その道の一つが、当サイトなわけです。
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このブログでもここに書かれているような「(アスペルガーの相手が暴投を)絶対ワザと投げた」と感じてしまい、ストレートに感情的に反応し、相手に「反撃」してしまう、というパターンを乗り越えるにはどうしたらいいか、という視点で問題を考えようとしています。実際、私たち定型の人間からは「暴投」であることが明らかであり、あるいは「攻撃」であることが明らかであるようなアスペの人の言動に「正当防衛」として「反撃」すると、今度はアスペの人から見れば自分がなぜ攻撃されなければわからないわけですから、「一方的に攻撃(反撃ではなく)された」という思いになるのですし、その限りではどっちもどっちなわけですよね。そこをどう越えるか。

管理人のアスカさんがとりあえず提案する処方箋は以下のようなものです。
5項目が箇条書きにされていて、その内容がそれぞれ説明されています。

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1.相手の言動を、なるべく好意的に解釈する。
2.自分の「当り前」に、とらわれすぎない。
3.相手に「してもらったこと」も考える。
4.すべての人間に、悪意があるわけではない。
5.無口だって、いいじゃないですか。
**************************

このうち1~4までは、実は異文化間コミュニケーションの時にどういう姿勢で臨むべきか、ということにもすぐに応用可能なものですね。ただし1については難しいところがあって、4に書かれていることを裏返すと、「悪意がある人間もある」というわけですから、すべての言動をそのまま好意的に解釈すると、却って問題がこじれてしまうこともあります。そこが異文化間コミュニケーションで難しいところで、逆に言えば、「相手の文化の中でこれは<悪意>と考えられるかどうか」という相手の側の基準が見えてくると、コミュニケーションはかなり楽になります。

実際、多民族が入り交じって生きている中国などの場合は、表面的な言動よりも、その言動の「意図」(悪意かどうか)を判断しようとする、という付き合い方が、普通の生活の中でかなり強く行われています。そのあたりは「この言動は悪意(または善意)を意味する」という関係がかなりシンプルに決まっていて広く共有されてしまっている日本の社会とは全然違います。

ということで、1、2と4を合わせて「悪意かどうか、相手の基準で判断する」ということが現実的にはかなり有効だし大事だと言うことになります。

とはいえ、そもそも「相手の基準を知る」ということ自体、難しいことですよね。定型の人間でも文化が異なると、もう自分の文化の基準でしか判断できないと言う風になってしまうことが普通です。だから2が特に大切になる。

また人間というのはもともと被害を受けた場合には強く記憶に残り、善意でしてもらったことはそれほどは左右されない、という傾向を持つようです。「信用を築くのは大変だが、失うのは一瞬だ」とも言いますよね。だから異文化間で善意と悪意の両方を仮に同程度受けたとすれば、相手の文化に対するイメージは圧倒的に悪くなる可能性が高いわけです。もうすべてが悪のように見えてくることも実際にあるわけです。

だからなおのこと2と、そして3が大切になると思えます。

しかし、そうやって頑張ったとしても、「相手の基準で判断する」ということは難しい。アスペの人は特に「相手の意図を理解する」ことに困難を抱えているのだとすればますますそうです。

そうすると、その難しさをどう乗り越えるのか、ということが具体的には大事なことになります。その一番の近道は、結局「相手に聞いてみる」という単純なことなのだと思います。「私の目から見ると、こういうふうに悪意に見えてしまうんだけど、あなたの目から見るとそれはどういうことなの?」と聞くわけです。

現実にはこのコミュニケーション自体もアスペと定型の間ではすぐにうまくいくとは思いません。数少ないものですが私の経験上はそうです。けれども前にも書いたように、根気よく続けていくと、なんとか「相手には本当に悪意はないようだ」ということが「頭で理解する」レベルまではなんとかたどり着ける感じがあるわけです。

そんなふうに考えてみると、アスカさんがアスペルガー当事者として書かれている模索は異文化間の問題ともつながりうるし、そして定型の側からアスペルガーの人たちと関係を模索するときにも共有できる部分が大きいだろうと思いました。

その「頭で理解する」レベルの先に、何があるのか。
これも先にご紹介したカレンさんの経験はそこに関わる一つの大事な例だと思いますが、さらにいろいろな可能性を考えていくこともまた大切だろうと思います。

2011年1月 7日 (金)

アスペルガーの人にとっての「仲間」と「孤独」

自らアスペルガー当事者であることを公言しているドラマーの金田ゆうじさんのブログ1%の世界:高機能自閉症のドラム演奏者のきままな日記をちょっと覗いてみました。いろいろ刺激的な言葉が並んでいて面白いんですが、中にこんな言葉もあったんですね。

「変動性の利己的な仲間意識に依存し合う事に、重きをおいている、中途半端な社会性を身に付けるよりも、遺された、同類と思われる人間の思想に対して、脚色せずに仲間として寄り添っていれば心は孤独に成りようがない。」

アスペルガーの人にとって「仲間」ってなんなんだろう?という疑問をずっと抱いていた私には、これがなんだかすとんと胸に落ちる部分があったわけです。

定型の人間は仲間集団の形成と維持のためにも、ものすごく気を遣うわけじゃないですか。で、そういう定型的な気の遣い方をアスペルガーの人はしないから、定型の側はいろいろショックを受け、やがてそのASの人は集団からはじかれる。

これをすこし違う視点(たとえば上の金田さんの文章の感じから定型である私が想像するような視点)から見れば、定型のそういう気遣いというのは、実質を持たない、上っ面の、空虚な、煩雑な、移ろいやすく信用も出来ない、虚飾の産物だとも言える。逆にアスペルガーの人々は、安定した実質をこそ大事にし、ストレートさを大切にして生きているのだとも言える。ストレートさは正直さでもある。ただ定型はその正直さに耐えられないから、アスペルガーの人々を攻撃し、排除しようとするのだ、とも言える。(いや、もちろん定型の側は本当に傷ついているんだけど、ただ視点を変えて見れば、ということです)

そうすると、定型的な感覚から言えば、「仲間になることを拒否するような言動」として感じられるものは、実はアスペルガーの人にとっては「正直に相手に対している」ということにすぎず、拒否などと言うこととは全く関係ないことだということになります。でも定型的には「拒否」としか感じられないから、そうすると「じゃあアスペルガーの人は仲間というものがいらない人なんだろうか?」という疑問が生まれる。少なくとも定型の私はそうなわけです。

そこで改めて金田さんの文章に書かれていることが効いてくる。「脚色せずに仲間として寄り添っていれば心は孤独に成りようがない。」

金田さんも孤独になりたくないんですよね。仲間が欲しいんですよね。ただその仲間はアスペルガーの人から見たときに「脚色」された虚飾の世界で危うく成立している「仲間」ではなく、「脚色」抜きにつきあえると言う意味で本当の仲間なんです。

そう考えるとなにか理解できる感じがしてきます。


2011年1月 6日 (木)

アスペと境界性

ちょっと(だいぶ?)乱暴な議論ではあるんだけれど、アスペルガーの人の生き方と、ある意味でちょうど対極的な位置にあるのが境界性人格障害の人の生き方なんじゃないか、と思えるときがあります。

どちらも対人関係の中で問題にされる「障がい」なんだけれど、いわゆる知的な能力については別に定型発達の人と変わるところがないし、むしろすごい高学歴だったり、社会的にも比較的高い地位(場合によっては世界レベルで高い地位)にのぼる人も少なくない。どちらもコミュニケーションは一応とれるので、少なくとも表面的につきあうレベルでは多少「あれ?」と思えることもあるかもしれないけれど、そういう「障がい」についての経験のない人にはまあ性格の差くらいの感じでも十分受け止められる。身体の「障がい」のように目に見える形であったり、「言語の障害」や「知的な障害」のように明かにコミュニケーションが取りづらい場合にはだれでもお互いの違いをすぐに気がつくんだけれど、アスペも境界性も、どちらも本当はズレながらもコミュニケーションは一応成立するし、人間のコミュニケーション能力の特徴として、多少のズレは気にせずに自分なりにつじつまを合わせて解釈をして、コミュニケーションを成り立たせてしまう、という力がすごくあるから、ますます潜在的な違いには気がつきにくい。

でも、実際は深くつきあえばつきあうほどに、単に個性の違い、というだけでは理解できないようなズレに困惑し始めるし、さりとてそれが何なのかわからないまま、とにかく自分の感じ方、考え方を応用して必死にそれを理解しようとすることが続き、結局それも力尽きて崩壊の危機にいたるという経過をたどる例も決して少なくない。周囲の定型の人々はそうやって結果として激しく振り回され、傷ついてぼろぼろになることが少なくないわけです。(もちろん逆の立場に立ってみれば、アスペルガーの人も境界性の人もそれぞれの在り方で苦しんでいるわけですし、むしろ自分たちの方が多数派から痛めつけられていると感じていたりもするわけなのですが)

そこまでは似てるんですが、じゃあそのズレがなんなのか、と言うことについて、すごく対称的であるように感じるわけです。ごく簡単に言ってしまうと、境界性の人の場合、だいたいものすごく社交性が高い。対人関係の中での不安はものすごく抱えるんだけど、その不安を解消しようと必死で人にすがりついたり、あるいは人を支配しようとしたりする。DVやストーカーなどはそういう問題が絡んでいることが少なくないですね。とにかく人を求め続ける。感性がものすごく繊細で豊かな人も多くて、芸術家になったり、小説家になったりして活躍する人もあるし、いわゆる「カリスマ」的な人間としていろんな組織の頂点に立つ人も少なくない。政治的な世界にもほんとにそのタイプの人を沢山見ることが出来ます。

それにたいしてAS(アスペルガー)の人は基本的に社交が苦手なわけですよね。自分のやり方を周囲に合わせて調整する、ということにも大きな抵抗があるし、しんどいときは人にすがりつくのではなく、むしろひとりになることを好んだりする。境界性の人が自分の感情を激しく表出することで相手の感情を大きく揺さぶり、感情と感情のもつれ合いみたいな状況になっていくことがしばしばあるのに対して、ASの人はそういう関わりは極力避けようとするわけです。もちろん政治的な世界は苦手。けれども職人的な仕事、技術的な仕事にはとても向いていたりする。直接人を相手にせずに、根気よく自分の世界で活躍できるような職業ですね。

で、ASにしても境界性にしても、それが「障がい」という形で括られ、そのように理解されるようになったのはそんなに古い話ではありません。ASなんか境界性よりさらに認知度は低かったのが、最近急速に言われるようになってきたところでしょう。そしてそれは単に「発見された」というよりも、社会の変化と共に人々に要求される能力が変化したり、人々の関係が変わったりすることで、今まではそれなりに社会の中で場所を持っていた人たちが「困った人たち」として定型の人間からはじかれることで「新しく作られた障がい」という面がある。(いや、もちろん定型の人間はそういう状況の中でほんとに真剣に悩み、困るわけですけれど)

この「作られた障がい」という問題についてはまたぼちぼち考えていかなければと思いますが、ASという個性を持った人も、境界性という個性を持った人も、この世の中でその個性にあった位置を占めている、あるいはその可能性を持って生きているんだろうなとは思うんです。定型の人間ともお互いにその位置を認め合って、そしてなんとか折り合いがつくような距離感を模索することで、協同して生きていけるような状況が来れば、どれほどよいかと思います。今はお互いのぶつかり合いの中で実際ほんとうにしんどいことだらけだし、死屍累々という感じな訳ですし、そんなことがどこまで可能なのか、私には全然わからないのですけれどもね。

2011年1月 5日 (水)

カレンさんの夫とのつながりの例

パパはアスペルガーというブログの管理人さんが場を提供している「配偶者の会:井戸端掲示板」に、夫がアスペルガーのカレンさんという方が、昨日「(アスペルガーである夫と)うまく行くようになりました」という投稿をされています。「今は、最高に穏やかで幸せです」と書かれるカレンさんの過去ログを記事検索で検索して読ませていただきました。

この井戸端掲示板はアスペルガー関係のブログの中では多分大御所になる、そして実際とても面白く、そして考えさせられる「アスペルガーライフblog」の中では、ご本人がアスペルガーである管理人の狸穴猫さんから「配偶者がアスペルガーでうつになったとかいう話しがネット上にはホイホイ転がっている。そして、その中にははっきり言ってアスペルガー症候群者からみたら「ひ…ひどい~ひどすぎる言いようだ!!」と思うような発言がゴロゴロしている。」場所として紹介されているものの一つです。

実際、少し読んでみると、配偶者がアスペルガーという定型の皆さんの悲痛な叫びが次々に目に飛び込んできます。それは定型の側の視点から見れば、「当然そう思うよなあ」と共感できるものが多いのですが、でもやはりそれはあくまで定型の側の視点からなんですよね。アスペルガーの方達の視点から言えば、なんでそんなふうに理解されなければならないのか、なんでそんな風に「攻撃」や「非難」をされなければならないのか、それがほんとにわかりにくいんだろうと思います。

その中で、カレンさんは過去ログの当初は同じように夫に対するやり場のない怒りや絶望感を書かれています。そしてお定まりのように鬱にもなって、離婚も考え、別居もし、そしてそれと同時にいくつかの大事な本と出会いながら、ずっと悩み、掲示板で対話を続けながら考え続けて行かれる。その中でだんだんと変わって行かれるんですね。

もともとフランクルの「夜と霧」(ナチスの絶滅収容所から奇跡的に生還したユダヤ人の精神科医がその体験を書いた本)などに深い感銘を受けていた方のようです。この本では死ぬ運命という極限状態を与えられた人々が自分の生きていることの意味、命の価値を、たとえば樹との対話という形で見いだすに至るような、そんなある種の精神の高みのようなものが示されています。そういう問題に若いときから関心が深かった方と言うことでしょう。

そういうある種の素質を持ちながら、と言うことなのかも知れませんけれど、カレンさん自身の苛酷な体験の中で、いくつかのステップを経て上に書いたような「最高に穏やかで幸せ」と書かれるところまで来たのですね。とりあえず私の印象に残ったものを順に並べてみたいと思います。

最初はとにかく得体の知れない夫の反応、行動に傷つき、なんとかしようとしてもどうにもならず、絶望的な気持ちになる状態を経て、夫との感情的な関わりを断ってしまう、という時期が来たようです。アスペである夫も定型的な形では感情的な関わりを持とうとはしないわけですから、カレンさんもそれに合わせてアスペルガー的に夫に対するようになった、と言えるかもしれません。で、カレンさんは感情を断つこと、ある意味無関心になることで気が楽になるわけです。

ただ、それでは定型の側からすれば、実質的に相手との関係を絶ったのと同じことになりますよね。無関心であることで悩むことが減る代わりに、一緒にいることの意味もなくなっていく。たんに物理的に一緒に暮らしているだけの、いわば他人のような位置になってしまうわけですから。

しかしそこで終わったのではありません。どういう経過と順番かは一通りさっと読んだだけの私にはまだ正確に理解できていないのですが、2年ほど前だったと思いますが、まずカレンさんの方が、自分の悩みには夫の「アスペルガー」という「障がい」がからんでいるということを理解し始めます。これは当然カレンさんにとっては大きな転機の一つだったでしょう。全く得体の知れない苦しみに、名前が与えられ、理解のための手がかりが得られたのですから。

けれども同じように夫がアスペルガーであることを理解している他の多くの方と同じで、自分の方でそういう理解をするようになったからといって、それで問題が解決するわけではないし、苦しみが減少するわけでもない。場合によっては絶望になる可能性だってあります。

その次に状況を大きく変化させたのは、夫自身がアスペルガー関連の本を読むことで、「自分はアスペルガーだったんだ」という理解をするようになった時のようです。なぜそれが大きな転機になりうるのか、といえば、お互いがうまく行かない、ということの理由が共有されない状態から、中身の理解はどうであれ、とにかくそこに「アスペルガーと定型とのずれた関係」という問題が横たわっているんだ、という点で、初めて「問題が共有される」という事態が成り立つからです。それまで共通の議論の足場が全く作れなかった状態に比べれば、それは大きな前進といえるでしょう。あるいはようやく出発点に立てた、と言えるのかも知れません。

もちろん、ここでも「そういう、折り合いのつかない、理解し合えない運命的な関係なんだから、もう何をしても無駄だ」という形での「結論の共有」になる可能性もあります。たとえて言えば、「あなたはガンです」と診断されたとして、それで痛みの原因がわかったとしても、それだけでガンが治るわけでも、痛みが無くなるわけでもないようなものです。「ガンだからもうあきらめるしかない」という気持ちになってしまうかもしれない。

実際、カレンさん夫妻も、一度別居という段階も踏んだようですね。ところがそうやって距離を非常に大きく置くことで、ご本人達が想像していたのと逆の結果が生まれたようです。カレンさんはこれからは心の重荷がとれて自分の人生を生きられるようになるかと思っていたのに、なぜか気持ちに欠落した部分を感じてしまう。夫の方も何らかの意味でそうだったようです。

これは私の勝手な想像に過ぎませんが、結婚以降のカレンさんの20年前後の人生は、良い悪いの問題ではなく、夫との激しい葛藤の中で、作られてきたものです。その中で自分の生きるべき道を探し、価値観を問い直し続けてきた。それはすでにカレンさんの中でそれ自体が自分の存在自体に関わる巨大な何かに育っていたのでしょう。だから、たんにそこをはなれる、ということでは自分の中に積み重ねられてきた巨大な何かが抜け落ちてしまうということだったのではないかと思います。

その後自宅に戻った後、ということだろうと思うのですが、睡眠導入剤でもうまく眠れない時期が来て、その薬でなかば意識がもうろうとした状態で夜遅くに夫に話しかける、ということが二度ほど繰り返されたそうです。意識が半分抜けているので、何を話したのかも翌日よく覚えていないのだけれど、それでも夫が2時間くらい話を聞いてくれていたらしいことがわかる。カレンさんが書くには、無意識に抑圧されてきた部分まで、自分はそこで語っていたのだろうということです。

そうやってカレンさんが改めて自分をさらけ出す機会を経て、夫が「このままではいけない」という強い危機感を持つようになったようです。そしてこれ以降、本当に関係が前向きに変わり始めたのだと思いました。

もちろんそれまでだってカレンさんはカレンさんなりに真剣に自分の思いを伝えようと必死になってきたわけだし、それが伝わらないことへの絶望的な気持ちを味わい続けてきたのだし、夫の側も立場を変えて訳のわからない非難を受けるしんどさを抱え込み続けてきたのでしょう。だから、「改めて自分をさらけ出す」というだけでこの転機が訪れたはずはない。それ以前の積み重ねがここで転機をもたらしたのだと思えます。それが何だったのかを今私が語れるほどに理解することは不可能ですけれども。

ただ、最初にご紹介した最新の投稿の文章を見る限り、カレンさんの中でものすごく大きな転換への準備状態がそのときにはもう十分に熟してきていたのだろう、ということは想像できます。

それがなんなのか、とても難しい問題ですが、言葉としては「魂」とか「命」とか、そういう言葉で語られるような、あらたな次元での人の理解や共感の世界にカレンさんが入って行かれたということは多分間違いないだろうと思います。口で言うのは簡単ですが、「相手の存在をそのままに価値のあるものとして認める」という、現実には極度に難しい姿勢にカレンさんがそれまでの葛藤を経て初めて到達された。なぜそう想像できるかと言えば、「夜と霧」に書かれている生命の価値というのは、そういう次元で成り立つものだと思えるからです。そしてそのとき、カレンさんと夫は初めて「わかり合える」関係になったと感じられたのでしょう。


さて、長々と書いてきましたけれど、この話は昨日考えてみた、頭で理解するレベルではなく、お互いに納得しあえるようなつながりが可能なのだろうか?という問題を考える上でのとても大事な事例のひとつになるだろうと思います。頭で理解し合うのでもなく、気持ちで理解し合うのでもなく、カレンさんの言葉を使えば「魂」の次元で通じ合う、そんな体験の世界を彼女が持てたという(彼女にとっての)「事実」がそこにあるわけです。


カレンさんは元々、求道的な、とか宗教的なとか表現しうるような姿勢を性格的にも持っていらっしゃる方のように見えるので、そのような「魂」の次元でのつながり、という展開に至る可能性をより多く持っていらしたのかも知れません。逆に言えば、そのような関係にはそういう性格を余り持たない方も同じように至るのかどうか、ということは今の私にはよくわかりません。ただ、少なくともカレンさんにとって、そういう展開が現実に存在したのだ、ということを知ることが出来たのは、私にとっても大きなことだったように思います。


 (補) これは私の印象に残ったことのまとめにすぎませんので、もっとさまざまな思いが語られた実際のカレンさんの本文をよろしければお読み下さい。井戸端掲示板の「記事検索」で「カレン」を検索すれば読めます。

2011年1月 4日 (火)

頭で理解することと気持ちで納得すること

先に定型とアスペの間のコミュニケーションは「頭で理解する」という段階から「気持ちで納得する」という段階にまで進みうるのだろうか、ということを問いとして書いてみたわけですが、そうやってあらためて言葉にして書いてみると、また考えることが進んできますね。

この問題を考えるときに、どうしてもひっかかってくることは「気持ちで納得する」という、これは定型の人間にとっては普通に口に出せるようなことなのだと思いますけれど、もしかするとそこのところがそもそもアスペルガーの人と定型の人の違いになる可能性もあるんだ、ということです。

つまり、アスペルガーの人は定型が「気持ちを通じ合わせる」とか「共感する」とかいうことを強調することについて、とても違和感を感じたり、わかりにくさを感じたりするということが、当事者からもしばしば語られるわけですよね。で、もしそうだとすれば、そもそも「頭で理解」の段階から「気持ちで納得」にまで進まなければ気持ちが落ち着かない、安心できない、という感覚自体が定型の特徴であって、アスペルガーの人とは共有しにくい考え方や感じ方であるかも知れないわけです。

このあたりはアスペルガーの方の意見を改めていろいろ聞いてみたいところの一つです。

で、もしそうなのだとすれば、上の問いの答えはもう決まりますね。「気持ちで納得する」ということは、少なくともお互いに「納得し合う」という形では難しいだろうということになります。定型の側が勝手にそうなる、という可能性はないとは言えませんけれども。

もしそうならば、そして定型の側で「気持ちで納得し合う」ことが自分の精神的な安らぎなどに欠かせないものである、ということであるならば(このへんは定型の中でも個人によっても違うのかも知れないけれど)、アスペルガーの人との間にそういう安らぎの関係を求めることは最初から無理を言っていることだ、ということになりそうです。そんな無理なことを求められてもアスペルガーの人も困ってしまうでしょう。

それとも、何かそういう形とは違うやりかたで、お互いに安らげたり支え合えたりするようなやり方があるのでしょうか?

悪意のないということの難しさ

アスペルガーの人の言動が、定型の人間にとっては驚きであったり、傷つくものであったりする場合がよくある、ということはもう沢山言われ続けていることだし、その結果、アスペの人が定型の人間から集団的に攻撃されたり、排除されたりしてしんどくなることもよくあるわけですよね。

もちろんそういう状態が良いとは私は思わないので、なんとかお互いの違いを前提に、折り合いを付けていく道は無いものだろうかと考えるわけですが、そのためにはなんで相手がそういう言動をするのか、お互いに何に傷つくのか、ということを少しでも理解する必要があります。

私もそうやっていろいろ話し合いをしたり、努力をして少しずつ理解が進んでくるところもあるわけですが、そうすると、これもASの当事者の人がブログなどにときどき書かれているように、「ほんとうに」悪気があってそうしているわけではない、ということが見えてくるんですね。だんだんと、ですけれども。

もちろん場合によってはそれまでのつみ重ねの中で、本当に「悪気」があって相手を攻撃するような場合もあるのかもしれません。でもどちらかというと、それは「攻撃は最大の防御」という形でそうなってしまっている可能性もありそうに感じます。

そうやってある種の理解、それは心からの理解とはやはり言えなくて、頭でああでもないこうでもないと考えての理解に留まるのですけれど、そういうものが進んできて「悪気がない」ということを「頭で理解」できてきたとして、それはたしかにひとつの進歩とはいえると思います。そのことで確かに関係が多少なりとも良い方向に変わってくるのですから。

けれども、「頭で理解」ということは、やっぱり「気持ちの上で納得」との間に随分距離があるんですね。「悪意はない」とわかっていても、でもやっぱり「気持ち」は傷ついてしまう。これはどうしようもない事実です。ただ「悪意はない」と「理解」できるようになるだけ、ダイレクトにそれに対して傷ついていた状態よりは、少し守りが出来たり、余裕が出来たりするということにまだ留まってしまう。

そして、難しいのは、「悪意がある」と思っている内は、ある意味でストレートに「怒りをぶつける」という可能性もあります。「正しいのは自分だ。相手が悪い」と確信することで自分を守ることもある程度出来る。でも「悪意がない」と理解出来はじめた時点で、そういう形で自分を守ったり、ストレスを発散したりすることは出来なくなってしまうわけです。それは別の形での苦しみになります。

異文化間の摩擦、カルチャーショックについても、ある意味で同じような経過をよくたどります。最初は自分の常識とあまりに違う相手の言動に衝撃を受け、特に自分が相手の社会に入り込んでいるような場合には、自分の方が少数派ですから、いろんな意味で脅威にもなる。相手は下手をすると悪意の固まりの悪魔の集団にさえ見えてくるかも知れません。でも、付き合いが深まるにつれて、そういう理解では収まらない相手の善意が見えてきたりする。そしてそれまでは「これは悪意があるのではないか」と思っていたことでさえ、実はこちらの誤解であることがわかってきたりする。ただし最初はあくまで「頭でわかる」レベルであって、実際の場面ではやはりそういうことをされると傷ついたりするわけですが。

ところがさらに付き合いが続くにしたがって、だんだんと「頭の理解」に留まらず、感情的にもなんとなく相手のやり方「も」納得できるようになったりすると言う変化が起こります。で、その文化の人たちとつきあうときは相手のやり方に入ってそれなりに楽しく、楽に暮らせるようになったりもするし、逆に元々の自分の文化の方が却っておかしいものに見えたりすることも出てくる。

私が今一番気になることは、アスペと定型という、ある意味でものすごく異なる文化を持った人間同士の間でも、いつかそういう「頭の理解」を超えた納得が生まれるのかどうか、ということです。精神科医なんかは「アスペルガー」という話を聞いた段階で、「もうそれは不可能」という断定を下す人もいます。実際そうなのかもしれません。でもまだ自分では本当にそうなのか、判断しがたいんですね。

ということで、どう理解したら少しでも納得できるような関係に変わっていくかという模索が続くわけですが、その状態がまた「悪意のなさ」を知っているだけに辛い部分が出てくる。

まあ、人間関係とはなんとむつかしいことでしょうね。

2011年1月 3日 (月)

アスペルガーの妻の夫という立場

 <笑みす鯛>さんの「アスペルガーを追いかけて」というブログに出会いました。まだ書き始められたばかりのようで最初の投稿タイトルは「アスペルガー大王様、毎日が地獄です!?」という悲痛な叫びのようなもの。

 このブログを読ませていただいた理由の一つは、「(元?)妻」の方のほうがアスペルガーだと著者が書かれているといういうことです。私もぼちぼちですが、他のアスペルガー当事者の方や、あるいはパートナーがASの方のブログを探して読ませていただきますが、そのうち定型の人が書くブログの場合、だいたいは「アスペルガーの人の夫」との関係で悩んでいる方が書いているように思えるんですね。ざっと見の印象なので、正確にはわかりませんが。

 なぜそうなるのか?一つは自閉系の「障がい」は圧倒的に男性に多い、ということがあるのだと思います。だから「アスペルガーの夫」が書くブログはなかなか見つからない。さらにその少数派である(妻がアスペルガーの)男性の場合、自分ひとりで抱え込む傾向が強く、ブログなどには書こうとしない、という傾向もあるのかもしれません。

 なぜ男性にそういう「障がい」が多く、女性には少ないのか、男性に特有の性染色体であるYの方に関連する遺伝子が多いとか、そういうこともあるのかもしれないし、あるいは「感情の細やかな理解」「共感性の強さ」みたいな能力は、社会的には子育てにも強く関係する力として女性により求められやすいということは事実として存在すると思いますし、逆に男性にはそういう力よりも「感情をまじえない計算の力」みたいなものが求められる場合が多いために(特に技術系の仕事とか)、そういう「障がい」が社会的にあまり目立たないで来たため、そういう条件を背景に長年の進化の中で女性に対して特に強く淘汰が進んだのかも知れません。

 まあそういう「原因」については直面する困難について、それを知ったとしてすぐに役に立つと言うわけでもありませんけれど。

 いずれにせよ、アスペルガーの当事者の方のブログはそれなりにあるし、「アスペルガーの夫を持つ女性」の場合は比較的自分たちの悩みを交流する場が作られているのに対して、「アスペルガーの妻を持つ男性」はそういう場がなかなか見あたらない、ということはそういう立場に置かれた人間にとってはずいぶんと辛いことになりますよね。アスペルガーの当事者の方も、この世の中では「少数派」の立場におかれて大変な思いをしている人が多いと思うけれど、「アスペルガーの妻を持つ男性」もまた別の意味で「少数派」の悲哀を感じやすい立場に置かれているのかも知れません。

アスペルガーという自己理解と他者理解の不思議な例

身近なAS(多分間違いないと思うのだけれど)の人について、思いがけずにまた不思議な共通点と思えることがありました。

二人とも、アスペルガーについての説明を聞いたり、関連する体験本などを読んだりしたときに、自分ではなく、自分のパートナーや身近な人について、あの人はアスペルガーだと思ったという話です。なお、その時点では二人とも、自分がアスペルガーだという理解(またはそうではないかという疑問)はないときの話です。

不思議だなと思ったのは、そういう説明や本を読めば、(私の目から見れば)その人自身がアスペルガーであるのではないかという思いを抱いて当然のように思えることが、そうならずに、却って周囲の人に対してその理解が応用されるということです。

少数の事例ですし、いろいろ微妙な状況もあることですから、この話がどこまで一般化できるのかはわからないし、もしかするとまるで見当外れの話かも知れないのだけれど、場合によってはアスペルガーの人の考え方を理解する上で、何かの手がかりのひとつにはなるかもしれないと思ってとりあえず書き留めてみます。

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