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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2010年12月21日 (火)

つらいときにどうしてほしいのか

ASについて、沢山の人を知っているわけではないので、どの程度一般的に言えるのかどうかはわからないし、定型の人でももちろん性格の差とかもあるから、絶対とも言えないのだけれど、限られた経験や、他の経験者のブログなどを読んでいて感じることは、ASと定型の間で生じる、かなり深刻なギャップの一つは「辛いときにどうしてほしいのか」という事ではないかと思う。

定型的な発想では、慰めてあげる、話をじっくり聞いてあげる、共感する、しばらくそっとしてあげて、折を見て慰めてあげる、一緒に問題が解決できないか考える、などを思いつくし、関係や状況によってはひたすら側にいてあげる、抱き寄せてあげるなどスキンシップをとることも大事になると思える。逆に完全に距離をとってひとりにしておく、というのはとても冷たいことのように感じられるんじゃないだろうか。

ところがASの人の場合、しんどいときは「ひとりにしてあげる」のが一番だという感覚があるように思う。それは実際自分がそういう場合(風邪を引いてしんどいときでも、精神的なことでも)、一人きりになる方が楽だという経験に基づいているようだ。

つまり、定型が求める内容はASの人にとっては却ってしんどいことになり、ASの人が求めていることに定型が合わせると、今度は定型の人にとってはとても冷たい扱いを相手にしてしまっているような罪悪感を持ってしまう。またASの人が適切と思う形で定型の人に関わると、今度は定型の側からは冷たくあしらわれていると思えてならなくなる。

定型の側からすれば、「しんどいからひとりにしておいて欲しい」と言われ、「ひとりにしてもらったからよかった」と言われるということが続くとすれば、それは相手が自分のことを必要としていないんだと感じられることになる。そうすると何のために友人でいたり、夫婦でいたりするのか、その意味が失われてしまうように感じるし、実際そうやってASの人から友だちが去っていくことは少なくないと思う。けれどもここがASの人には理解しにくいらしい。

ASの人も環境が合わずに二次障害として鬱になったりする人が少なくないようだけれども、定型の人がASの人と暮らしていて鬱になる理由は多分少し違う部分があるんだと思う。それは「相手が自分を必要としてくれていない」という感覚から抜けられない、つまり「自分には価値がない」という気持ちになってしまう状況にずっと置かれるということがかなり大きいのではないかと感じるのだ。

ASの人も、多分少し違う形ではそうなのではないかと想像はするけれども、定型の場合は「人に認めてもらえる」「必要としてもらえる」ということが生きることの大きな支えになる。逆に「あなたは意味のない存在だ」と言われること、あるいは自分でそう感じてしまうことほどつらいことはないだろう。お互いにそういう価値を感じあえる関係は幸せだが、その一番大事な部分に困難を抱えてしまうのがASと定型の関係になるのではないだろうか。

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コメント

子供を療育所に連れて通ってたときに保護者研修で心理士の先生が言ってたことですが、

「AS(自閉系発達障害)の子がパニックに陥ったら、慰める、かまう…より、しばらく静かに怪我だけ気をつけて見守ってやる方が早く落ち着くことが多い。私たちだって、本当に参ってるときは一人にしといて欲しいことがありますよね。それと同じですよ。」

その時は、なるほど、と腑に落ちた感じがしたのですが、(自分の感覚で)してあげられそうなことがあるのに、あえてしないのはかなりストレスになりました。でも、(自分だって一人にしといて欲しいことがあることを思い出して)子供の感じ方の翻訳みたいなことをして、こうした方がこの子は楽なんだって、練習すれば思えるようになりました。

そんなことをいろいろ子供とやってるうちに距離感がつかめてきました。それでも適切な距離感覚の日内変動とかが大きいと、やはりパニックに油を注いでしまうこともあります。まあそれでも子供だからそういうこともあるか、と思うことができるのですが、、、

配偶者の場合は、大人の姿をしているばっかりに、その、子供のような不安定さを、こちらの前提としてもちにくいです。「え、この前、こういう状態のときに、こうしてあげたら落ち着いたのに、今日はなんで怒るわけ?(怒)」と、感じてしまうのを避けられません。

で、結局、こちらの感度を必要以上に落として対応することが必要になり、それがそのうち、習い性になり、精神沈滞→鬱、という感じがします。ある意味、それが適応した形なんですが、それが自身の社会参加という観点からは否定的な価値に直結していて、それがまた耐えられずに自己嫌悪になり鬱のスパイラル。そんな感じってありませんか?

joさん

この、子どもに対するときと大人同士の時では全然違う、っていうのはすごく大事なポイントだなあと私も思います。やっぱり子どもに対しては自分を犠牲にして保護する立場がまず先に立つし、おっしゃるとおりでパートナーに対しては「大人」同志の、と言う意味で対等な立場を考えますし。ここもブログで考えたいことの一つでした。

感度を落として、ということについてもリアルにそうせざるを得なかったですね。私も。同時に私はパートナーに対してそうして、その分を職場や友人達との間で補う、というような感じがありました。もちろん両者は完全に代替できるようなものではないので、矛盾はある意味で深まってしまうのですし、そういう矛盾した形にも耐えきれなくなって、力尽きて本格的な鬱状態に突入しましたけれど。

社会参加については、今は当然のようにマイナス状況ですが、それでも暖かく見守ってくれる友人達の存在で、すごく救われている部分があります。それはほんとにありがたいことです。とはいえ、完全な社会復帰に向けてどうしていったらいいのか、それはやっぱり課題ですよね。

joさんがいっておられるの、まさにダブルバインドですよね?

お子様がパニックがおきて、親としてしてあげたい事もあると思うのだけれど、してあげられない、でも、どうにかはしなくてはいけない。

私が思うには…ですが、非定型の人達は、産まれた時から、今まで、ずっと、ダブルバインドによって、言葉のズレに悩み苦しんいると思うんです。
定型の人からは想像もつかない事まで。

だから、「わけわかんないよ、どうすればいいんだよ!」みたいにパニックを起こす…こだわりがひどかったり、納得行かずに、先に進めず、定型からみたら、ゴネているような部分も見受けられるんだと思います。
それがひどくなると、脳が「考える事」を拒否してしまう…(特に男性は男の気質も加わりますから)
または「会話すると怒らせてしまう」
と悩んでいる場合も多いと思います。
誰でも楽な方がいいですもんね。
イコール人を避ける。無口になる

そして、その事よって、配偶者も「え、この前こういう状態の時にこうしてあげたら落ち着いたのに、今日はなんで怒るわけ(怒)」と…これもダブルバインドですよね。
こんな感じで、この種では、産まれた時から、とか、結婚してから…とか、延々とダブルバインドが繰り返され、人と会話する事によって、また自分が目で見て、物事を認識したりする事によって、より複雑に、形成されていき、困難さを増していく。

そして、コレがjoさんやパンダさんのカサンドラに繋がっていくんだと思います。

ぎゅっと抱きしめて、お話をよーく、観察しながら、聞いてあげて、こちらも言い方に気をつける。一貫性をもつように務める。
子供は、「パパとママはぎゅっとしてくれたりするけど、いつも訳わかんない事言うし、好きなんだか、嫌いなんだか、訳わからないよ」こんな感じじゃないかな?

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