2021年4月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 雑談の難しさ | トップページ | 「砂漠に水を撒く」という感覚について »

2010年12月22日 (水)

アスペと定型の連帯ということ

 アスペルガーの方が書いている

明神下随随録

 というブログがとても面白かった。
 いや、面白いというと失礼なのだろうか。
 真剣な言葉の中にアスペルガーと言われる立場にある人の
 切実な思いが伝わってくるように感じてしまうからだ。
 ただ、「伝わってくる」というこの定型の言葉が適切なのかどうか、
 そのこともわからないのだけれども。
 
 そのことに関して、最新の文章でこんなことが書かれている。

===============================
言葉を超え、比喩を絶し、イメージさえも捨てた彼方へ

Aさんが、教授に質問しに行きました。
Aさん:「どうも、ここのところが難しくてイメージできないのですが・・・ 」
教授:「イメージできないとわからないという考えを捨てなさい。ここから先はもうイメージできる世界ではないのですから。」
===============================

 もちろん、Aさんをアスペルガーの人で理解できない内容が定型の行動や思考と考えてもいいし、その逆でAさんが定型の人で理解できない内容がアスペルガーの人の行動や思考でもいい。
 その意味でお互いは全く平等な、対称的な関係にあると言ってよいのだけれど、定型がこの世の中では多数派であり、権力を握っている、ということはどうしようもない現実で、そこには実質的な平等などと言うことは成立していない。

 明神下随随録の著者の方は、その現実をいやというほど実感させられているから、「真にユニバーサルなアスペルガー文化による世界支配を樹立」することを呼びかけている。

 だが、この世界支配が定型の人間をも同時に解放する力を獲得できないかぎり、その結果は単に権力者の交替に終わってしまう。当然、アスペルガーと定型の連帯ということも成り立たない。

 明神下随随録さんは、アスペルガーの人が選択の余地無く与えられた条件としての理性による共同、連帯を模索しているように思う。一定の範囲でそれは可能な部分があるだろうと思う。

 ただ、それのみで生きることが出来ないという現実を定型の人間は抱え込んでしまっている。そのことをどう考えたらいいのか。そこが悩ましい。
 

« 雑談の難しさ | トップページ | 「砂漠に水を撒く」という感覚について »

コメント

世の中の表面は「全て」
「本音と建て前」で成り立っています。

それは何故だかわかりますか?

人間には「欲望」があるからなんです。

「性欲」「食欲」…後は何だろ?これは動物の本性みたいな、元からある欲望です。

それに付け加え、「お金」「権力」あとは何だろ?
これは人間特有のものです。

現代においては、「株価」や「ファッション」「所有物」「美貌(整形)」「ゲームのランキング」…私達の欲望はおさまりません。

欲望がある限り、「本音と建て前」は必ず切り離せません。

非定型は正直なだけなんです。
「本音も建て前もありません」(度合いによって定型の建て前に合わせることも可能)
人間本来で産まれてきて、人間本来の姿に生きているのです。
ですが、言葉のズレ(ダブルバインド)や、現代の湧き出てくる欲望に左右され、押しつぶされてしまって口を閉ざしているのです。動けないのです。

一歳、二歳の子供が言葉を覚え始める時、親の呼びかけと肌の感覚をつなぎ合わせて言葉を確立させていきます。
そこがズレていたら、又は、ズレてなくても、ちょっぴり理解力に乏しかったら…その時点で「ダブルバインド」は開始されるのです。環境を経て、タイプや度合いが形成されていくのです。

生きにくさを解ってやらねば…

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: アスペと定型の連帯ということ:

« 雑談の難しさ | トップページ | 「砂漠に水を撒く」という感覚について »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ