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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2010年12月31日 (金)

定型が共感を求める理由

アスペルガーの人が書かれているブログを見ていると、時々、定型の人間はなんであんなに「一緒」を求めるんだ?というような強い疑問が書かれています。

これには二つの側面があるように思うのですが、そのうちの一つは日本的な人間関係の特徴という側面。そしてもう一つは人間という生物が進化の中で強固に作り上げてきた特徴という側面です。

前者については日本人はめちゃくちゃ「同調」を求めるわけで、「異質」なものは排除されるという傾向が大変に強い社会です。「同じ」であることは「仲間」であることの条件であって、それから外れることは倫理に反する。そうすると昔なら「村八分」という制裁を受けたし、今の子どもたちは「いじめ」という制裁を繰り返しています。そうやって「仲間内の平和」を保とうとするんですね。

ただ、「個」を重視する欧米の社会とか、同じく自己主張や個性を極めて重視する激しい競争社会である中国では「一緒」は求めないのかというと、これは決してそうではないわけです。なぜなら、この問題は「群れを作って生き延びる」という、ヒトという種が作り上げてきた基本的な生き方に関わることだからです。表面的な形は異なったとしても、「一緒」を求めるという論理は人間の社会にはどこを見ても強烈に幅を効かせていることが分かります。

簡単に言うと、人間というのは群れが沢山集まり、群れ同士が交流(交易)しながら生きてきた生物です。群れを作るのは他の動物でもありますが、群れ同士が関係を作って生きる、というのは人間だけがやることですね。で、ひとつの群れの中にも、家族という小さな群れとたとえば「村」と言われるような大きな群れが同時に成立する。「村」は「国」を作り、「国」は「国際関係」を作る。おおざっぱに言ってもそういうものすごい複雑な群れの関係を作って生きています。

で、個人と個人の間でもそうであるように、群れと群れの間もうまくいったり行かなかったりするわけですね。下手をすれば殺し合いになる。だけどもそういう緊張関係を持ちながらも、やっぱり群れ同士の関係は作っていかないと、経済も成り立たないわけです。

また群れの内部を見ても、それが複雑に上下関係を作ったり、あるいは会社の「部署」のように役割分担する群れを作ったり、またはなんらかのつながりで「派閥」という群れを作ったり、そういう複雑な構造を持っています。そして一般的には群れの上下関係の中で上位に立つ人間は、いろいろと大変なこともあるけどお金を沢山もらえたり、尊敬されたりするので、人々がその地位を争うという事が起こる。

このとき、ニホンザルでは血筋がものを言うようになってくるし、チンパンジー辺りですでに「政治」は始まっているんだけど、人間の社会ではなおのこと、たんに「一対一の決闘」で地位の争いが決まる訳じゃなくて、「どれだけ強い仲間集団を作るか」ということでその地位が決まる仕組みになっています。国会とか見ていても明らかですね。

そういう複雑な構造を持つ人間社会の中で、多数派を占めるようになったのは、そういう「仲間作り」に敏感な人間と言うことになります。「あの人は自分を助けてくれる人か、応援してくれる人か、それとも自分をけ落とそうとしたり、自分を傷つける人か」という区別は群れの中で生きていく上でものすごく大きな判断になる。

「あいつは信頼できるか」というのは、だからそういう種類の人間(まあ定型の人間と言えるか)にはすごいキーワードで、「信頼できる」と思っていたのに「裏切られた」ということは大ショックだし、非常に危険なことになる。状況次第では地位や職や、厳しいときには命を失うことにもなります。

そうだからこそ、定型の人間は人に気を遣う、という能力を発達させてきた。(このほかに親の子に対する気遣いはまた少し違う性格も持ちますがそれについてはとりあえず置いておきます)。お互いに気遣いを出来る人間であるか、ということを確認し合うことがとても大事なことになるわけです。それができる相手とは親友になったり、身内になったり、同志になったりする。逆に言えば、周囲の人は敵になる可能性が常にあるわけですね。だから敵を少なくし、味方を多くしようとするのは、定型の基本的な生き方になります。

定型の人間から見ると、アスペルガーの人はこのあたりの感覚がとても淡泊で、あるいはそれを著しく理解しにくいと感じているように思えます。「味方作り」とか「敵への警戒」といった感覚が薄く、その意味で平等に人々に対する傾向があるように思えるし、場合によっては平和的であるかもしれない(まあ、これはアスペルガーのパートナーを持つ定型の人のブログを読むと、別の理由でそうでない場合も結構あるようですが)。

ただしその反面として、「人への気遣いがない」とか「共感しあう関係を求めない」とか「精神的に支えになってくれない」といった印象を定型の人間に与えることになると思えるわけです。とりわけ家族内とか、定型の発想では「信頼」とか「共感」などが最も重要な場と思えるところでそれが成り立たない状況になると、これは大変に辛いことになります。自分が支えられない感じになるからです。

こういう説明の仕方は、アスペルガーの人にとってある程度理解可能なものでしょうか?(ま、もちろん定型の人にも異論はあるかも知れませんけれど)。


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コメント

なるほどー!チンパジーあたりは政治が始まってたりするんですか?
すごいです!知らなかった…

パンダあたりはどうなんですかね?

パンダさんの意見に反論します!
非定型は、「安心したいから」多数派の中に入りたい、と思うのです。

仲良くやっていこう!としても、ダブルバインドのせいで逆におかしくなってしまうんです。
理解し合って、仲良くやろうとすればするほど、おかしくなってってしまうんです。
だから、抜けてしまう。

だから、輪の中に入らない。

よくわからないが、何だか人を怒らせてしまう事、わかっているんです。

本音と建て前で成り立ってる。

そういう頭が染み付いているんです。

だから、入らない。
本当は入りたい…のです。
入りたい…という自覚すら、もう、もてなくなってる人もたくさんいます。

非定型だって人と仲良くなりたいです。
共感や気遣いしようとする気持ちだってあります。
しかし空回りしてしまったり、空回りしてなくても相手から一方的に拒絶されるわけです。
非定型は都合の良いように使われて終わりなんです。
非定型は何をやっても受け入れられません。

パンジーさんの意見に賛成ですさん

 私もご意見に賛成です。
 いろいろな方のお話を伺うほど,そう感じるようになります。
 もちろんアスぺの方にも個性の差は大きいと思いますが,
 「仲良くなりたい」「共感や気遣いしようとする気持ち」など
 すごく基本的なところでは,実は定型もアスぺも
 結構共通しているんだと思うんです。
 ただ,具体的なその表し方とか内容がかなり違うので,
 すごくずれてしまってうまくいかなくなり,
 相手を否定的に見るしかなくなってしまう。
 そんな展開があるように感じています。

>具体的なその表し方とか内容がかなり違うので、すごくずれてしまってうまくいかなくなり、相手を否定的に見るしかなくなってしまう。
具体的にどんなところでしょうか?

仮にずれてなくても発達障害が定型者に寄り添うと「あんたには私の気持ちはわからない!わかったようなことを言わないで」などと言われたり、何もしてないのに八つ当たりの道具にされますからね。それか都合よく利用しようとしてくる。
かと言って共感や寄り添わなければ冷たいと非難される。向こうの方だって人には冷たいのを棚に上げて。

何したって発達障害者は無条件に敵認定され、排斥されます。

無名さん

>具体的にどんなところでしょうか?

 これについてはこのブログでこれ以降もずっと具体的に書いてきましたので,
 そちらをご覧いただければと思います。
 ある意味で,このブログはそこばっかりこだわって書いてきたようなものです。
 たとえば
 思い遣りの調整のズレ方
 http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-0d23.html

>何したって発達障害者は無条件に敵認定され、排斥されます。

 はい。そして残念ながらアスぺの方がそう感じてものすごく苦労されている,
 ということを理解すること自体,定型にとっては結構むつかしいです。

 そのひとつの理由は,定型の方がアスぺの方から「拒絶されている」とか
 「攻撃されている」と感じてしまうことが多いからです。
 お互いに自分が被害者だと思い込んでいるケースが多いのでしょうね。
 (もちろん,相手を一方的にいじめたり攻撃している場合もありますけれど,
  そうでないケースの方が多いように感じています)

 このブログではなぜ定型がそんなふうに「誤解」してしまうのか, 
 どうして発達障碍者の方がそういう扱いを受けてしまうことになるのか,
 そのことをずっと議論してきています。

 ただ,私は定型的な見方でしか理解ができないので,
 アスぺの方から見て,そういう理解はおかしいとか,
 そういうことがあれば具体的に教えていただければありがたいです。
 

記事の紹介ありがとうございます。
私の悩んでることは他人同士の関係なので、記事の事例と自分の事例と重ね合わせるのが難しいのですが、理解力に欠けていて申し訳ありません。


家事の分担を事例に出すと(身内ではなく、他人の場合ですが)、私も相手の状況を見て手伝うことはあります。
しかし相手は私にありがとうの一言すらなく、当然の態度です。
相手が忙しくなくても、面倒な作業を私に押しつけてくることもあります。
自分ばかりやるのは嫌なので、自分の分は自分でやるように言うと(言い方も考えてます)、相手は「私は押し付けてない」「たまにしか押し付けてないじゃない」と怒る。
こっちがやんわり言っても、はっきり言っても怒られる。

こっちも嫌になって自分の分しかやらないと、今度は「状況に応じて相手の家事も手伝いなさいよ。冷たい人ね」と非難される。
自分の家事をこっちに押し付けてくる人のことは誰も非難しないのに。

またこっちが相手の状況を見て家事を手伝うことがあっても、向こうはこっちが忙しそうにしていても手伝ってくれないこともあります。
これを言うと、「発達障害者は見返りだけはきちんと求める」と言われますが、こっちだって何もしてくれない相手のために動くことはできません。


相手の状況を見て動かない、気づけない発達障害者は多いですが、都合良く使われるだけで気遣ってもらえない発達障害者が多いのも事実です。
なので、素直に「この人のために何かしよう」と思わないのです。
中には優しい定型の方もいるので、その人にはできる限り何かしようと思いますが。

また発達障害者でも共感機能はある人もいます。
しかし優しい人限定です。
発達障害者をバカにする人、発達障害の全てをわかってるかのように上から目線で避難してくる人が多いので、そんな相手に共感や思いやりなんて持てません。
だから相手もそんな私達に対してさらに不信感を持ち、「思いやりも共感機能もない冷たい人」となるのでしょう。


それでも昔は悲しんでた人を見て、寄り添ったり、共感を持つこともありましたが、発達障害への偏見がある人からは「良い人ぶってるけど本当は心ではざまあみろと思ってるんでしょ」「人生経験がないあなたには人の気持ちはわからないくせにわかったようなことを言わないで!」などと言われたことや八つ当たりされたことがあります。
言葉に出す人ばかりではないですが、微妙な雰囲気を感じ取ることはあります。

人に共感や寄り添うのが怖くなり、相手が悲しんでいてもそっとしておいたら、今度は「人が悲しんでる時に何も観じない冷たい人」と皆から攻撃されました。

親戚の人に相談したら、「寄り添うのは良いことだ。でも正直に言うと、嫌いな人共感されると反発を感じたり、嫌味に聞こえたりする。おまえは悪くないけど、バカで変わり者を嫌う奴は多い。どうしようもない」と言われたことがあります。

私のような経験をした発達障害の知人もいます。
全ての人が攻撃するわけではないですが、こんなこと続けば人への不信感もつのり、共感もできなくなります。


個人的な話になってしまいましたが、立て続けに長文失礼しました。

無名さん
 
 アスぺの方から見た体験について,いろいろ教えていただいてありがとうございました。定型はどうしても定型の見方でしか見られないので,こんなふうにアスぺの方からはどう見えているのか,を教えていただくことはとても貴重です。

 無名さんがもともと共感的に人に関わろうとしていたのに,ひどい目に遭ってそれができなくなり,距離を置いて見守ると今度は冷たいと言って非難され……,という展開は,私が「そういうこともあるんじゃないかな」と感じていたことの一つで,やっぱりそうなのかと思いました。

 世の中で「これが発達障がい者の特徴だ」と言われて,場合によっては激しく非難されたり攻撃されたりすることの中で,結構多くの部分は実は発達障害の方が持って生まれたものではなくて,定型アスぺのズレから来るいろんなトラブルで傷ついて,その結果身を守ろうとして作られたものではないか,と私は感じています。

 無名さんが定型からひどい仕打ちを受けて定型への不信感を募らせ,生き方を変えざるを得なかったのも,そういうことなのではないかと思えました。

 ではなんで定型の方がそんなひどい仕打ちをするのか,ということですが,普段から誰に対しても意地悪になりやすい人はいますけれど,これもかなりの部分は,定型の側が定型的な感覚でアスぺの方の行動や言葉を理解してしまうので,そこで全くおかしな誤解が起こって,アスぺの方に怒りを持ち,それが積み重なって「もうこの人はだめな人だ」という決めつけが始まり,そしてちょっとしたことでも冷たい対応や攻撃的な対応をするようになる,という悲劇が起こっていると思います。

 ちょっと一般的な書き方で,具体的な例でお話しした方が分かりやすいかもしれませんね。わかりにくいところはおっしゃってください。


 あと,もしよければニックネームか何か,名前を書いてくださるとうれしいです。無名の投稿は,書き忘れのこともありますが,続く場合は,相手に対して敵対的な気持ちを持っていることを意味することがありますし,お返事を書くときも「無名さん」という呼びかけがしっくりこないものですから (笑)

 またいろいろショックを受けた体験とか,教えていただくと,アスぺの方への理解が深まると思いますので,無名さんにとって無理のない範囲でコメントをいただけると嬉しいです。

連続で投稿した者です。
今読み返したら個人的な愚痴のオンパレードになってしまいました。申し訳ありません。

>(無名の投稿が)続く場合は,相手に対して敵対的な気持ちを持っていることを意味することがありますし,
敵対的な気持ちを持ってるつもりはありませんでしたが、無名での連続投稿とコメントの内容を見るとそう取られかねませんね。
申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。

丁寧なお返事ありがとうございます。
>定型の側が定型的な感覚で(中略)という悲劇が起こっていると思います。
理解力に欠けていて申し訳ありません。
具体的な理由を教えて頂けますか。
おっしゃるように何らかの発達障害特有の行動を見て、周りが引いてしまってるのはあると感じます。

また第一印象で嫌われたり、話しかけられることすらないことも多いです。
目つきや表情、ニタニタ笑うなどの発達障害特有の特徴も原因だと思いますが、そういった特徴がない人や化粧や服装に気を使ってる人でも第一印象から嫌われてる人もいます。私もそのひとりです。
発達障害特有の気持ち悪い雰囲気があるのでしょうか。相手に第一印象で嫌われ、話しかけるなオーラを出されたら、いくら発達障害者側が対処策を考えてもコミュニケーションの取りようがないです。

障害者差別は富国強兵政策で「兵士にもならない役立たず(障害者)はいらない」との価値観が根付いたことが原因だと書いてるものがありました。
(知らなかったのは私だけでしょうか)
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1442909044/a110142107
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1418140544


他にも
●戦後の成果主義の子育て(成果主義は明治以降の軍隊教育から始まっていたと思いますが)
https://www.agentmail.jp/archive/mail/185/560/27055/

●富国強兵政策によって同質性を求められるようになった
http://e-shoshin.com/?p=1450

(一部引用)
>日本は、天皇という存在を利用しつつ、どうしてもエミュレーションの方向に突き進んでいくしかなかったのかもしれません。
>当時(明治時代)の考えでは、富国強兵とは強い同質社会を築き上げことと同義だったのでしょう。
>当然、時代の流れや趨勢に迎合しない自律性のある人々、つまり本当の個性を備えた人々は、集団の一体性を損なう癌細胞として排除されました。

そこからはじき出されてしまうのは障害者、異民族だと思います。

明治時代に富国強兵政策や現在の家族制度(私生児や片親家庭、子供を産めない体の女性などが差別される原因)が庶民にも広げられましたが、日本を守るためには同質性を求めたり、成果主義にするのはやむを得なかったのでしょうか。
許されるわけではないですが、きれいごと言ってる余裕なんてないですよね。

同質性の確認などは軍隊には特に必要でしょうし、発達のような人間がいたら軍隊は一つにまとまらず、他の兵士の命取りにもなりますものね。

話が飛躍しすぎましたね。
連続投稿失礼しました。

にわとりさんからのご依頼で

「4月11日 1時17分」投稿のコメントを削除しました。

こんばんは、ガーディナーです。

>定型の人間から見ると、アスペルガーの人はこのあたりの感覚がとても淡泊で、
>あるいはそれを著しく理解しにくいと感じているように思えます。

ハイハイ、全くその通りです。
『共感』というよりも、
そういった政治的根回しの様な仲間づくりが世の中にあるということに、
つい最近まで気が付きませんでした。
いえ、気が付いていたかもしれませんが、
それは、何かとても嫌らしい汚らしいことだと思っていました(すみません)。
定型の人たちの持つ、その辺りの空気を私なりに感じ取ると、
フッと警戒心を持ってしまうようなところがありました。

>ただしその反面として、「人への気遣いがない」とか
>「共感しあう関係を求めない」とか「精神的に支えになってくれない」
>といった印象を定型の人間に与えることになると思えるわけです。

やっぱりこれも鏡写しの関係ですね。
例えば中学高校時代の私を思い出しても、
私自身の心の動きとしては、定型社会の中で精一杯気を遣っていましたし、
多分誰よりも共感されない寂しさを感じていたと思います。
「精神的な支えに云々…」という点においては、
そもそも自分の立ち位置さえフラフラしているのに、
いろいろと立ち回りを知っている定型の方の支えになど、
なれなくても当然、ということになりますよね。

でもやっぱり仲間は欲しかったのです。
ただ、私が求めていたのは、
定型的な集団の中での仲間ではなかったように思います。
私が求めた人は、そういう仲間づくりがいかにも苦手そうな人、
根回しとか、派閥とか、そういうことが理解できないでいつもはずれてしまう人、
そういう人達でした。
そういう人達と一緒にいると、気を使わなくていい、というか、
ずっと心が自由になれるのです。

正直なところ、そういう人たちに特に魅力を感じていたわけではありません。
共感関係が結べていたとも思えません。でも、
彼らの近くにいる限り、無用な緊張を強いられることはない、
という安心感がありました。
あの頃の私は、共感よりもまずは安心できる場を求めていたのだと思います。

その辺の感覚はいまだに完全には払拭されていませんね。
決して共感を求めていないわけではない。でも、
誰が偉いとか、強いとか、目覚ましい伸びとか、勢いがあるとか・・・。
そういうような話になると、一歩も二歩も身を引いてしまう私なのです。

再び名無しのガーディナーさん (笑)

 「この情報を登録する」はコメント記入欄のすぐ上にあると思います。

>それは、何かとても嫌らしい汚らしいことだと思っていました(すみません)。

 ここは定型の中でもいろいろです。めちゃくちゃそういうのが好きな人や社会もあるし、そういうのを嫌うのもあるし。私の場合はすごく嫌うほうで、そういうタイプの政治家とか大嫌いでした。というところで、そういうのが嫌いなパートナーに惹かれたという部分もあると思います。

 ただ、現実に定型社会で生きていくためにはそういう「技術」を身につけないとどうしようもない部分もあって、井戸端会議から国会まで、あらゆるところでそれが横行しているので、その技術を相手が使っているということを知っておかないと、ひどい目にあったりもするし、それにとどまらず逆に「私のために気を使って」その技術を使ってくれている人を傷つけちゃったりもするわけです。

 そうすると、まあ仕方なくこちらもそのことを前提で、その技術を必要に応じて使いながら生きるという「技」をだんだんと身に着けていくことになります。

 で、たぶん私がアスペの方と違うのは、その気になればそんなにむつかしくなくその技が使えるようになる、という部分でしょうか。使うか使わないかは言ってみれば好みの問題だ(あとは慣れ)、というところがあるのだと思います。だからそんなにめちゃくちゃ大変だということはない。

 類は友を呼ぶ、で、私の周囲の友達なんかも、基本的にそういう政治的なのは嫌いな人が多いですね。そういうところで世の中で「損」をしている人も多いです。定型社会の中ではそういう人間は「大人になれない」という目で見られたりもします。もちろんそういう部分で人に信頼される場合もあるので、いろいろですけれど。

 でも、最近その思いをますます強めましたが、私なんかはまあうっとうしく、ばかばかしく感じることが多いそういう世界が、ほんとに心から好きな人がたくさんいるんだなあと思います。私から見ると「何をばかなことやってるんだろう」と感じてしまうわけですけれど、ある意味お互い様なのですよね(笑)

 世の中、どちらを見ても、お互いに感覚的には折り合いのつかない人たちの関係だらけだという気がします。その点では定型アスペ関係に限らず、どこでも同じ問題があるのでしょうね。
 

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