2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

トップページ | 2011年1月 »

2010年12月

2010年12月31日 (金)

定型が共感を求める理由

アスペルガーの人が書かれているブログを見ていると、時々、定型の人間はなんであんなに「一緒」を求めるんだ?というような強い疑問が書かれています。

これには二つの側面があるように思うのですが、そのうちの一つは日本的な人間関係の特徴という側面。そしてもう一つは人間という生物が進化の中で強固に作り上げてきた特徴という側面です。

前者については日本人はめちゃくちゃ「同調」を求めるわけで、「異質」なものは排除されるという傾向が大変に強い社会です。「同じ」であることは「仲間」であることの条件であって、それから外れることは倫理に反する。そうすると昔なら「村八分」という制裁を受けたし、今の子どもたちは「いじめ」という制裁を繰り返しています。そうやって「仲間内の平和」を保とうとするんですね。

ただ、「個」を重視する欧米の社会とか、同じく自己主張や個性を極めて重視する激しい競争社会である中国では「一緒」は求めないのかというと、これは決してそうではないわけです。なぜなら、この問題は「群れを作って生き延びる」という、ヒトという種が作り上げてきた基本的な生き方に関わることだからです。表面的な形は異なったとしても、「一緒」を求めるという論理は人間の社会にはどこを見ても強烈に幅を効かせていることが分かります。

簡単に言うと、人間というのは群れが沢山集まり、群れ同士が交流(交易)しながら生きてきた生物です。群れを作るのは他の動物でもありますが、群れ同士が関係を作って生きる、というのは人間だけがやることですね。で、ひとつの群れの中にも、家族という小さな群れとたとえば「村」と言われるような大きな群れが同時に成立する。「村」は「国」を作り、「国」は「国際関係」を作る。おおざっぱに言ってもそういうものすごい複雑な群れの関係を作って生きています。

で、個人と個人の間でもそうであるように、群れと群れの間もうまくいったり行かなかったりするわけですね。下手をすれば殺し合いになる。だけどもそういう緊張関係を持ちながらも、やっぱり群れ同士の関係は作っていかないと、経済も成り立たないわけです。

また群れの内部を見ても、それが複雑に上下関係を作ったり、あるいは会社の「部署」のように役割分担する群れを作ったり、またはなんらかのつながりで「派閥」という群れを作ったり、そういう複雑な構造を持っています。そして一般的には群れの上下関係の中で上位に立つ人間は、いろいろと大変なこともあるけどお金を沢山もらえたり、尊敬されたりするので、人々がその地位を争うという事が起こる。

このとき、ニホンザルでは血筋がものを言うようになってくるし、チンパンジー辺りですでに「政治」は始まっているんだけど、人間の社会ではなおのこと、たんに「一対一の決闘」で地位の争いが決まる訳じゃなくて、「どれだけ強い仲間集団を作るか」ということでその地位が決まる仕組みになっています。国会とか見ていても明らかですね。

そういう複雑な構造を持つ人間社会の中で、多数派を占めるようになったのは、そういう「仲間作り」に敏感な人間と言うことになります。「あの人は自分を助けてくれる人か、応援してくれる人か、それとも自分をけ落とそうとしたり、自分を傷つける人か」という区別は群れの中で生きていく上でものすごく大きな判断になる。

「あいつは信頼できるか」というのは、だからそういう種類の人間(まあ定型の人間と言えるか)にはすごいキーワードで、「信頼できる」と思っていたのに「裏切られた」ということは大ショックだし、非常に危険なことになる。状況次第では地位や職や、厳しいときには命を失うことにもなります。

そうだからこそ、定型の人間は人に気を遣う、という能力を発達させてきた。(このほかに親の子に対する気遣いはまた少し違う性格も持ちますがそれについてはとりあえず置いておきます)。お互いに気遣いを出来る人間であるか、ということを確認し合うことがとても大事なことになるわけです。それができる相手とは親友になったり、身内になったり、同志になったりする。逆に言えば、周囲の人は敵になる可能性が常にあるわけですね。だから敵を少なくし、味方を多くしようとするのは、定型の基本的な生き方になります。

定型の人間から見ると、アスペルガーの人はこのあたりの感覚がとても淡泊で、あるいはそれを著しく理解しにくいと感じているように思えます。「味方作り」とか「敵への警戒」といった感覚が薄く、その意味で平等に人々に対する傾向があるように思えるし、場合によっては平和的であるかもしれない(まあ、これはアスペルガーのパートナーを持つ定型の人のブログを読むと、別の理由でそうでない場合も結構あるようですが)。

ただしその反面として、「人への気遣いがない」とか「共感しあう関係を求めない」とか「精神的に支えになってくれない」といった印象を定型の人間に与えることになると思えるわけです。とりわけ家族内とか、定型の発想では「信頼」とか「共感」などが最も重要な場と思えるところでそれが成り立たない状況になると、これは大変に辛いことになります。自分が支えられない感じになるからです。

こういう説明の仕方は、アスペルガーの人にとってある程度理解可能なものでしょうか?(ま、もちろん定型の人にも異論はあるかも知れませんけれど)。


2010年12月24日 (金)

「砂漠に水を撒く」という感覚について

随随さんから「雑談のむつかしさ」に対してコメントを頂きました。
(やりとりになるとやっぱり丁寧語になりますね)

>砂漠に水をまくという表現はよくわかる

随随さんがどういう過程でこの表現を私と共有されるようになったのか、つまり、随随さん自身がこの表現に該当するような経験を定型の人間との間にか、またはASの人との間にか持つことがあったということなのか、それ以外の形でなのか、とても興味があるところです。

なぜならば、自分がASの人となんらかのやりとりの中で、こちらが「砂漠に水を撒くような」という感覚に陥ったとしても、相手はこちらがそういう感覚を持つだろう、ということは予想していないように思えるからで、その理由が知りたいからです。とりあえず二つの可能性が考えられます。

ひとつめはASの人はお互いに反応し合うことを強く求めることがないので、相手が反応を強く期待しているということを理解することが困難だし、反応をしなければ「砂漠に水を撒く」という気持ちを相手が持つと言うことを予想できないし、さらに言えば自分の方も相手からたとえ反応をもらえない場合でもあまり気にならず「砂漠に水を撒く」という感覚を体験することがない(または極めてまれである)という可能性。

ふたつめはASの人も相手と反応し合うことを強く求める場合は間違いなくあり、期待している相手の反応が得られない場合には当然自分自身も「砂漠に水を撒く」ような気持ちになる経験を持つのだけれど、ではどういう場合にどういう反応を求めるのか、という点で定型との間に違いがあり、その結果、お互いに期待に添わずに反応を返さないことになる。そうすると定型の人間からはASの人も違う条件では同じ気持ちになると言うことは予想外のことになるので、自分だけが一方的に「砂漠に水を撒く」という気持ちになると理解しているだけの可能性(つまりお互い様と言うこと)。

もし前者であるとすれば、随随さんはなんらかの推論を経て、「砂漠に水を撒く」という気持ちを想像することが可能になったということになりそうですね。もしそうならどのように想像力を働かせることで共有可能になったのかにとても興味があります。

後者であるとすれば、もとから「砂漠に水を撒く」という気持ちになることは共有されているわけですから、あとはそういう気持ちになるときの条件の違いを理解し合うことが、お互いのコミュニケーションを円滑にするためには大事なことになりそうです。

> しかし、ブログ主は犬を飼ったことはあるかね?
> アスペ者でも、イヌぐらいの感情はある
> シッポも動かせる耳もないからわかりにくだろうが、
> 言葉より他のところで、それを読み取るといいこと
> がきっとあるだろう。

犬はないけれど、猫は飼っています。ASの人に感情がないと思ったことはありません。

ただ、書かれているように、その表出の仕方がわかりにくいということはしばしばあり、またなぜここでそういう理解や感情になるのかがわからない、ということも非常に多い。さらにそれは言語に限らず、言葉以外の表情の読み取りなどでも理解がずれることが多く、全く暗中模索です。

ついでに犬と猫という比較で言うと、定型とASの感情の動き方のパターンは、定型が犬的、ASが猫的かなと、そんな風に感じることはあります。


2010年12月22日 (水)

アスペと定型の連帯ということ

 アスペルガーの方が書いている

明神下随随録

 というブログがとても面白かった。
 いや、面白いというと失礼なのだろうか。
 真剣な言葉の中にアスペルガーと言われる立場にある人の
 切実な思いが伝わってくるように感じてしまうからだ。
 ただ、「伝わってくる」というこの定型の言葉が適切なのかどうか、
 そのこともわからないのだけれども。
 
 そのことに関して、最新の文章でこんなことが書かれている。

===============================
言葉を超え、比喩を絶し、イメージさえも捨てた彼方へ

Aさんが、教授に質問しに行きました。
Aさん:「どうも、ここのところが難しくてイメージできないのですが・・・ 」
教授:「イメージできないとわからないという考えを捨てなさい。ここから先はもうイメージできる世界ではないのですから。」
===============================

 もちろん、Aさんをアスペルガーの人で理解できない内容が定型の行動や思考と考えてもいいし、その逆でAさんが定型の人で理解できない内容がアスペルガーの人の行動や思考でもいい。
 その意味でお互いは全く平等な、対称的な関係にあると言ってよいのだけれど、定型がこの世の中では多数派であり、権力を握っている、ということはどうしようもない現実で、そこには実質的な平等などと言うことは成立していない。

 明神下随随録の著者の方は、その現実をいやというほど実感させられているから、「真にユニバーサルなアスペルガー文化による世界支配を樹立」することを呼びかけている。

 だが、この世界支配が定型の人間をも同時に解放する力を獲得できないかぎり、その結果は単に権力者の交替に終わってしまう。当然、アスペルガーと定型の連帯ということも成り立たない。

 明神下随随録さんは、アスペルガーの人が選択の余地無く与えられた条件としての理性による共同、連帯を模索しているように思う。一定の範囲でそれは可能な部分があるだろうと思う。

 ただ、それのみで生きることが出来ないという現実を定型の人間は抱え込んでしまっている。そのことをどう考えたらいいのか。そこが悩ましい。
 

雑談の難しさ

ASの人と定型の人間のコミュニケーションで定型の側が困惑することに、「反応が返ってこない」という感覚を繰り返し体験してしんどくなる、ということがある。

定型の人間としては何かの話題を投げかけること、たとえば「今日、あったかいね」ということでもいいのだけれど、それは物理的な事実として暖かいかどうか、ということが問題であるよりも、「だから気持ちが良いね」という意味だったり、「もうすぐ春になるのかなあ」という喜びを表していたり、そこに付随していろいろな方向に会話が拡がっていく可能性を求めて話しかけることが多い。

ところがASの人にとっては基本的には「あたたかい」か「あたたかくないか」という事実関係がそこで問題になっている、という以上に理解が拡がっていかないようだし、それ以上に「いろんな可能性がある」「いろんな答え方をしても良い」というような、不確定なやりとりを楽しむ、ということに困難を感じるようだ。

だからそれについてさらなる反応を期待して文句を言ったりすることが重なれば、「何を求められているのかわからない」ということで混乱し、困惑し、しんどくなってしまう。そのことをこちらが理解できるようになると、相手にあまり負担をかけてはいけないと思うから、できるだけ反応を期待しないで話しかける、というようなことをせざるを得なくなってくる。これが今度は定型の人間にとっては大きな負担になってくる。

ASの人はそういう「柔軟」なやりとりは苦手だし、第一そういう曖昧な事について「いい加減に(とも感じるらしい)」曖昧な答えを返す方が相手に悪いと思っているらしい、ということを理解し、またそもそもそんないい加減な答えを相手が期待して待っているとも予想しない、ということを頭で理解したとしても、定型の人間はどうしても反応を期待してしまう、ということから抜けられない。もし反応を期待しなくなるときは、それは普通は相手との関係を解消するときになってしまう。けれどもやはりそういう定型的な発想はASの人には理解が難しいもののようだ。

言葉を投げかけても簡単な一言の反応で終わり、それ以降続かない。何か砂漠に水を撒くような、とかブラックホールに気持ちが吸い込まれてしまうようなとか、そういう感覚を定型の人間は持ってしまう。これがとてもしんどい。精神的なエネルギーが消耗し、あるいは吸い取られてしまうような、そんな感覚に襲われる。定型の人間がそういう環境の中で鬱になる原因の一つだろう。

2010年12月21日 (火)

つらいときにどうしてほしいのか

ASについて、沢山の人を知っているわけではないので、どの程度一般的に言えるのかどうかはわからないし、定型の人でももちろん性格の差とかもあるから、絶対とも言えないのだけれど、限られた経験や、他の経験者のブログなどを読んでいて感じることは、ASと定型の間で生じる、かなり深刻なギャップの一つは「辛いときにどうしてほしいのか」という事ではないかと思う。

定型的な発想では、慰めてあげる、話をじっくり聞いてあげる、共感する、しばらくそっとしてあげて、折を見て慰めてあげる、一緒に問題が解決できないか考える、などを思いつくし、関係や状況によってはひたすら側にいてあげる、抱き寄せてあげるなどスキンシップをとることも大事になると思える。逆に完全に距離をとってひとりにしておく、というのはとても冷たいことのように感じられるんじゃないだろうか。

ところがASの人の場合、しんどいときは「ひとりにしてあげる」のが一番だという感覚があるように思う。それは実際自分がそういう場合(風邪を引いてしんどいときでも、精神的なことでも)、一人きりになる方が楽だという経験に基づいているようだ。

つまり、定型が求める内容はASの人にとっては却ってしんどいことになり、ASの人が求めていることに定型が合わせると、今度は定型の人にとってはとても冷たい扱いを相手にしてしまっているような罪悪感を持ってしまう。またASの人が適切と思う形で定型の人に関わると、今度は定型の側からは冷たくあしらわれていると思えてならなくなる。

定型の側からすれば、「しんどいからひとりにしておいて欲しい」と言われ、「ひとりにしてもらったからよかった」と言われるということが続くとすれば、それは相手が自分のことを必要としていないんだと感じられることになる。そうすると何のために友人でいたり、夫婦でいたりするのか、その意味が失われてしまうように感じるし、実際そうやってASの人から友だちが去っていくことは少なくないと思う。けれどもここがASの人には理解しにくいらしい。

ASの人も環境が合わずに二次障害として鬱になったりする人が少なくないようだけれども、定型の人がASの人と暮らしていて鬱になる理由は多分少し違う部分があるんだと思う。それは「相手が自分を必要としてくれていない」という感覚から抜けられない、つまり「自分には価値がない」という気持ちになってしまう状況にずっと置かれるということがかなり大きいのではないかと感じるのだ。

ASの人も、多分少し違う形ではそうなのではないかと想像はするけれども、定型の場合は「人に認めてもらえる」「必要としてもらえる」ということが生きることの大きな支えになる。逆に「あなたは意味のない存在だ」と言われること、あるいは自分でそう感じてしまうことほどつらいことはないだろう。お互いにそういう価値を感じあえる関係は幸せだが、その一番大事な部分に困難を抱えてしまうのがASと定型の関係になるのではないだろうか。

家でほっとできるってどういうことなんだろうか

アスペルガーの(またはアスペルガーと思われる)パートナーを持つ、定型発達の人のブログなどを読んでいると、「一番心安らぐ場であってほしい家庭が一番緊張する場になっている」という言葉に出会うことが何度かある。

これはほんとに難しいことだと思う。なぜならば、アスペルガーの人は自分にとってはごく自然な振る舞いや発言が、全く予想できない形で周囲の人を驚かせたり、傷つけたりするという体験が積み重なっていることが多い。 だから、よほど環境や能力や運などに恵まれていない場合は、大体周囲から攻撃されたり、排除されたりということが繰り返されることになる。友人や職を失うことも珍しいことではない。だからそうならないように必死で回りに合わせようとするというふうになる。

とはいえ、なぜ自分の言動がそう受け止められるのかは本人にはよくわからないのだから、とりわけ自分の方が社会的に弱い立場にある場合には特に、とにかく手探りで形ばかり相手に合わせるように努力したり、できるだけ発言を控えるようにしたり、という形で消極的な対処法を積み重ねていくしか無くなる。

そうすると、当然のことながらそういうアスペルガーの人にとっては職場などでの人とのやりとりは、大変に緊張を強いられる、とても疲れる場になってしまう。少しでも油断をすれば、また自分の意図しないところで周囲を驚かせたり、傷つけたりしてしまうことが容易に生じるからだ。

そうやってものすごく疲れて帰宅して、アスペルガーの人も自分の家ではほっとしたいと思うのは、そう考えればあまりに当然だし、おそらくそうしようとするのだろうけれど、そうすると今度は定型発達のパートナーや子どもたちがダイレクトにその衝撃的な言動を受け止めてしまうことになる。そして最初に書いたような定型の人の言葉になるわけだ。

一体この矛盾をどう調整することが可能なのか。ほんとに難しいとしか今のところ言いようがない。

トップページ | 2011年1月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ